おじいちゃんは「戦争犯罪人」だった――私がそれを知ったのは、今から16年前、高校生のときだ。

祖父・稲木誠は第2次大戦中、岩手県釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長を務めていた。「連合軍捕虜」というのは、戦時中に日本軍がアジア・太平洋地域で捕虜として捕えた連合軍将兵約14万人のことだ。そのうち約3万6000人は日本に連行され、終戦まで全国各地の収容所で生活しながら労働力不足を補うべく働かされていた。祖父は3・11で大きな被害を受けた釜石市沿岸部の捕虜収容所で、製鉄所で働く捕虜約400人を管理していた。捕虜の国籍はオランダ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどで、その多くは若者だった。祖父も当時、28歳だった。

釜石市が近年の歴史で海からの脅威にさらされたのは、3・11が初めてではない。終戦が迫った1945年7月と8月、この町は太平洋から連合軍による艦砲射撃を浴び、壊滅的な被害を受けた。祖父が管理する収容所でも、捕虜32人が犠牲になった。祖父は戦後その安全管理責任などを問われて戦争犯罪人(B級戦犯)となり、巣鴨プリズンに5年半拘禁された。巣鴨プリズンというのは、東條英機などA級戦犯も入っていた監獄のことだ。現在その跡地には池袋サンシャインビルが建っている。

祖父は大学で英語や哲学を学んだ後に学徒兵として徴兵されたため、巣鴨プリズンでは英字誌のタイムやニューズウィークを読んでいた。戦時中の日本の新聞と比べて質の高い報道に触れ「ジャーナリズムの世界でもアメリカに敗れた」と感じた祖父は、プリズンを出た後に記者になった。

それから20年以上が過ぎた頃、釜石市で元捕虜だったオランダ人のファン・デル・フックという人から釜石市長宛に1通の手紙が届いた。そこには「収容所での取り扱いは良かった」と書かれていた。「戦犯」という十字架を背負いながら生きてきた祖父にとって、それは天上からの福音のようにありがたいニュースだった。過酷な捕虜生活を生き延び母国へ帰ったフックさんが、人生の終盤に際して祖父の心を救ってくれたのだ。これをきっかけに2人は文通を始め、敵味方を超えた友情を育んでいった。フックさんから祖父に贈られた捕虜収容所での集合写真の裏側には、フックさんの字でこう書かれている――「1944年クリスマス 人情味ある所長であった稲木さんへ敬意をもって」。

私がこれらの話を知ったのは、高校時代のある夏の日だ。祖父は私が7歳のときに他界していたため、戦争体験については彼が記者を辞めてから出版した本などの手記を読んで初めて知ることができた。祖父の記憶と言えば、いつも優しくひょうきんで、幼い私に身振り手振りで英単語を教えてくれたこと。その祖父からは想像も出来ない壮絶な人生に、手記を読むうちどんどん引き込まれていった。単純に、祖父のことをもっと知りたいと思った。

祖父から直接話を聞くことが出来なかったため、それ以来私は祖父を知る人物を探してきた。大学時代には釜石市を訪れて祖父の元部下に会い、アメリカ留学時には元連合軍捕虜の戦友会に参加したり、メリーランド州にある公文書館で祖父の裁判資料をあさったりして調査を続けた。それでも、祖父を知る元捕虜を見つけることは出来なかった。

当時のことを調べるなかでは、知りたくなかったことも沢山出てきた。釜石にいたアメリカ人元捕虜(既に他界)が書いた本には、祖父のことが悪く書かれていた。祖父に有罪判決を下したアメリカ側の裁判資料にも、フックさんが手紙の中で回想する祖父像とはかけ離れた供述ばかりが並んでいた。今から10年前には、釜石にいた元捕虜が米ワシントン州に存命していることが分かった。だが私が電話をすると「話せない」とすぐに切られてしまった。当時の私はまだ勉強不足で、元捕虜の苦しみを本当の意味では理解できていなかった。

それから7年が過ぎた2010年、 知人から「釜石にいた捕虜がアメリカで見つかった」という連絡が来た。待ちに待ったはずのニュースだったが、私は嬉しいというより戸惑った。これまで別の収容所にいた各国の元捕虜たちと交流してきて分かったのは、彼らは終戦後もずっと痛みを抱えたまま生きてきたということだ。元捕虜の多くは90歳を迎えて静かな余生を送っている今、私が突然連絡をすれば当時の悲惨な記憶を蘇らせることになる。そう思うと、この捕虜に連絡することがどうしても出来なかった。

――百田尚樹氏の「永遠の0」を読んだのは、それから2年後の2012年のことだ。数カ月後にはニューヨーク支局に赴任することが決まっているなか、妹から強く薦められ読むことにした。だがこの1冊がきっかけで、それから1年後、私は釜石にいた元捕虜に会うことになる。

「永遠の0」は、フリーライターの姉と司法浪人している弟が特攻で戦死した祖父・宮部久蔵の軌跡をたどる話だ。2人は祖父の元戦友たちを次々と訪ね、様々な側面から祖父の人物像を浮かび上がらせていく。孫の視点で祖父の戦争体験について多角的に掘り下げていくという設定に、私は冒頭からぐいぐいと引き込まれていった。そして読み終わったときには、封印しかけていた祖父の話にもう一度向き合ってみようという思いが固まっていた。「永遠の0」には、ちゃんと結末がある。生きることにこだわった祖父がなぜ最後に零戦に乗り込んだのか。その疑問に孫なりの答えを出しているが、私にとっての祖父の話は今も中途半端なままだ。祖父はなぜ「戦犯」として裁かれたのか。その経験を「書きつづるのは地獄の苦しみだった」と手記に残した彼は、そうまでして何を伝えたかったのか。「永遠の0」を読んで自分の中の祖父の話がまだ終わっていないことに気付かされ、フィクションではなく実在の祖父を知る実在の登場人物に、答えの鍵を求めてみようと思ったのだ。

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ニューヨーク支局に赴任した私は、さっそくアメリカ人の知人を通じて釜石にいたという元捕虜、ジャック・ウォーナーさんに連絡を取った。拒否されたらそれも1つの結末かもしれないという思いでこちらが連絡したがっていると伝えてもらったのだが、オクラホマ州に住む91歳のウォーナーさんは私から直接電話することを了承し、その後の電話ではなんと彼を訪ねて行くことを許可してくれた。それでも、電話越しでウォーナーさんは「イエス」しか語らず、こちらを警戒している様子が伝わってきた。私はウォーナーさんを訪ねる前に手紙を書き、自分が今まで調べてきたことと共に今回の訪問の趣旨を説明した。祖父の管理下で捕虜生活を送った彼に手紙の中で「謝る」べきかどうかとさんざん迷い、何度も書き直した末、どんな話をするのかは会ってから考えようとその一言は結局書かずに投函した。

2013年8月4日午前9時、オクラホマシティ空港から車を2時間走らせたところにあるウォーナーさんの自宅を訪ねた。過去に何度か経験してきたように、元捕虜収容所長の孫である私に白い目を向けたり怒りをぶつけてきたりすることも覚悟しながらの訪問だった。だが彼は、家の前に立って手を振って待っていてくれた。それだけでなく、車を降りた私を笑顔で迎え、ハグをしてくれた。私はその時、目の前の状況がうまく理解できずにいた。それくらい、自分の身に起きていることは全く予想外の出来事だった。

家の中に通されると、さらなるサプライズが待っていた。元捕虜のウォーナーさんだけではなく、彼の娘、孫娘とご主人、そしてその子供たち(つまりひ孫)やその恋人たちまで、家族総出で迎えてくれたのだ。その後も他の孫とひ孫という家族が2組駆けつけ、13歳から91歳までの4世代に渡る大ファミリーで私を取り囲んでくれた。そして、その14人の中には誰1人として「白い目」を向ける人はいなかった。みんな笑顔で、1人ずつハグして握手して歓迎してくれたのだ。

その後、ウォーナーさんの孫娘が作ってくれた豪華なアメリカン・ブレックファストをみんなで食べ、戦争体験について話を聞くうちあっという間に5時間が過ぎ、今度はオクラホマならではのBBQ式ハンバーガーランチを振舞ってもらって夕方までわいわいと過ごした。

釜石捕虜収容所と祖父を直接知るウォーナーさんには、聞きたいことが山ほどあった。彼は91歳 にもかかわらず心身ともに全く衰えていなくて、戦時中のことも鮮明に記憶していた。数年間にわたる戦争体験を聞くなかで釜石や祖父の話からそれていくと、私は初め無理やりそこに話を戻そうとしたりもした。祖父の本やフックさんからの手紙と、裁判記録や他の元捕虜が書いた本のどちらがより真実に近いのか、知りたい思いもあった。だが彼の話を聞くうち、だんだんと過去の「事実」を掘り起こす作業の必要性が分からなくなってきた。

ウォーナーさんには、日本や当時の体験、祖父や私に対する恨みや憎しみなどが一切見て取れないのだ。彼の4世代に渡る家族にも、全くそういう感情が見えない。ウォーナーさんのひ孫(19歳) に「ひいおじいちゃんから、戦争の話を聞くことはある?」と尋ねると、笑顔で「しょっちゅう。木の下とかでね」という答えが返ってくる。孫も、ひ孫も、みんな口を揃えて「おじいちゃんに会うたびに戦争体験について聞いてきた」と語る。それでも、彼らには私を警戒したり、非難するようなそぶりは皆無だ。それはつまり、ウォーナーさんがそういう教育をしてこなかったということに違いない。少しでもそういう語り方をしていたら、逆に4世代に渡って日本に対する憎しみが引き継がれていたかもしれないのだ。

「永遠の0」が見事に描き出しているように、あの戦争を誰か1人の視点で語ることはできない。ある事実について見方は人それぞれだとしても、そのどれもがその人にとっての「真実」だ。だから私はウォーナーさんを訪ねる前、彼に会って自分の心がそうしたいと思ったら謝ろうと思っていた。祖父に代わって謝ることはできないが、彼の体験に対して自分が「すまない」と思ったらそう伝えようと。だが、目の前にいる家族を含めてウォーナーさんは私にそんなことははなから求めていないし、私を拒絶ではなく受け入れ、言葉にせずとも過去ではなく未来を向こうと背中を押してくれている。それが分かったとき、「ごめんなさい」という一言がそこではもっとも場違いな言葉に思えてきた。

もちろん、ウォーナーさんもその家族にも私の訪問前には複雑な思いがあったはずだ。ウォーナーさんは1942年、20歳のときにフィリピン・コレヒドール島で零戦からの猛攻撃を生き抜いた後に捕虜になり、栄養失調と伝染病が蔓延するいわゆる「地獄船」で日本に送られた。その後横浜の捕虜収容所で2年半を過ごし、1945年5月に釜石捕虜収容所に送られて終戦を迎えるまでには日本軍の管理下で何人もの仲間たちが命を落としている。だがそのウォーナーさんも、戦後長いあいだ悪夢にうなされ続けるウォーナーさんをそばで見てきたという家族も、私に会うことを決め腕によりをかけて朝食と昼食を用意してくれたとき、その思いを封印してくれたのだろう。

私はこの日、10代のひ孫たちとハンバーガーにかぶりつきながら彼らの夢や自分の仕事についてなど戦争と全く関係ない話をして、全員笑顔で集合写真を撮った。帰るときには1人1人とまたハグをして、「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」と言った。ウォーナーさんも私も、会えたことを喜び、別れを惜しんで泣いた。

祖父の話に出会ってから16年。「永遠の0」から勇気をもらって最後のページをめくると、そこに刻まれていたのは海の向こうで戦後68年間続いてきた、もう1つの家族の物語だった。そしてその想定外のラストは、私にとって終わりではなく始まりだった。

戦争体験にまつわる物語というのは「永遠の0」に限らずあの時代に生きた1人1人が持っていて、まして日本だけでなく第2次大戦を戦ったすべての国で今も脈々と受け継がれている。その物語には、ときに深い怒りや悲しみだけが残されることもあれば、一方で新しい物語を紡いでいくための真っ白なページもどこかに隠されているのかもしれない。ウォーナーさん一家の物語は、私にそのことを教えてくれた。

先日、一時帰国中の日本で映画『永遠の0』を観てアメリカに戻ると、ウォーナーさんからクリスマスカードが届いていた。笑顔を浮かべるウォーナー夫妻の写真が添えられたカードには、ウォーナーさんの字でこう書かれていた――「私たち家族は皆、またあなたに会う日を楽しみにしています」。

――編集部・小暮聡子(ニューヨーク)