<トランプの資金停止宣言は極端だが、明らかになった中国によるWHO支配の危険に先進国は対処するべき> 中国の担ぐ候補者が初めてWHO(世界保健機関)の事務局長に選ばれたとき、それを聞いたアメリカ合衆国大統領が眉をつり上げることはなかった。その数年前に、中国ではインフルエンザに似た未知の感染症SARS(重症急性呼吸器症候群)が発生していた。彼らは当初、その事実を隠蔽した。その後も事態の深刻さを過小評価し続けたが、アメリカは意に介さなかった。大統領は中国との間で波風を立てたくなかったし、政権内部にもWHOの人事に異を唱える者はいなかった。 香港出身で医師のマーガレット・チャン(陳馮富珍)が加盟国の過半数を超える票を集めてWHO事務局長(任期5年)に選ばれたのは2006年11月9日のこと。その2日前、アメリカでは与党・共和党が中間選挙で大敗し、上院でも下院でも少数与党に転落していた。イラク戦争はますます泥沼化し、ジョージ・W・ブッシュ大統領は国防長官の更迭に踏み切らざるを得なかった。政権の基盤が揺らいでいた。誰がWHOのトップになろうと、知ったことではなかった。 5年後も同じだった。親中国派の人材を次々に登用したチャンが再びWHO事務局長に選ばれても、当時のオバマ政権は静観していた。そして2017年春にチャンの後継としてテドロス・アダノムが事務局長に立候補したときも、大統領就任直後のドナルド・トランプや政権幹部が気に留めることはなかった。 そもそもトランプは選挙戦の段階から、中国と言えば貿易のことしか頭になかった。「あの頃は誰もWHOなど気にしていなかった」。国家安全保障会議(NSC)のある職員は匿名を条件に、そう語った。 元エチオピア外相のテドロスは中国の強力な支援を受け、アメリカが義理で推していたイギリス人のデービッド・ナバロを133対50で破り、医師の資格を持たない初のWHO事務局長となった。ニューヨーク・タイムズ紙は当時、アフリカからWHO事務局長が出るのは初めてだという型どおりの記事を載せている。 ヒト・ヒト感染の把握時期は 自国の大都市で発生した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する中国の隠蔽と情報操作。そして死活的に重要な初期段階でWHOがそれを黙認したこと。これは大スキャンダルだ。その影響は何年も尾を引くだろう。 「このウイルスはヒト・ヒト感染しないという中国側の主張を、WHOは少なくとも1月14日まで認めていた。おかげで中国のごまかしが可能になった」。米食品医薬品局(FDA)の元長官スコット・ゴットリーブはそう指摘する。 トランプは4月14日、WHOに対する資金拠出を60〜90日間停止し、「コロナウイルス対応の重大な誤りと隠蔽におけるWHOの役割の検証を行う」と発表した。つまり、アメリカがWHOの仕事を気にしない時代は終わったということだ。WHOは何を、いつから知っていたのか。そして中国側からどんな報告を得ていたのか。アメリカも世界もそれを知りたがっている。 ===== パンデミック(感染症の世界的な蔓延)の真っ最中に、世界の公衆衛生を仕切る国際機関への資金を断つというのだから、この決定には賛否両論があっていい。しかしWHOにも、この疑問にだけは答える義務がある。いったいいつ、ヒト・ヒト感染の事実を把握したのか? 昨年12月31日、台湾政府はWHOに対し、中国の武漢で発生した未知の感染症のSARSとの関連などについて問い合わせていた。SARSも中国発のコロナウイルス感染症で、やはりヒト・ヒト感染するが、中国側は当初、その事実を隠していた(ちなみに台湾を自国の領土と見なす中国政府は台湾をWHOから排除している)。 だが忘れてならないのは、中国がWHOに対して大きな影響力を持つようになる過程でアメリカ(とその同盟諸国)が果たした役割だ。実を言えば、今回のコロナ危機は今世紀に入ってからアメリカを含む世界の先進諸国を襲った2度目の「チャイナ・ショック」だ。 第1のショックは、2001年にアメリカの後押しで実現した中国のWTO(世界貿易機関)加盟によってもたらされた。2016年に発表された全米経済研究所の報告の文言を借りれば、それは「世界貿易のパターンにおける画期的な変化」だった。 どの業種でも(製薬や医療機器をも含むと今回世界は思い知らされたが)、アメリカの有力企業は製造拠点を中国へ移すようになった。安い労働力がいくらでも手に入ったからだ。それでアメリカの産業は空洞化し、伝統的な工業地帯ではいくつもの町が地獄を見ることになった。 政治家も経済界の有力者も、この勝負に懸けていた。今よりもっと豊かになれば中国も強権的な統治スタイルを緩め、いずれは韓国や台湾のように民主主義を受け入れるはずであり、そのためならアメリカの労働者に一定の犠牲を強いるのもやむを得ない。彼らはそう考えた。 ビル・クリントンからバラク・オバマに至る歴代米政権の対中政策は基本的に、そうした願望に基づいていた。2000年、クリントンは中国に最恵国待遇を付与する「恒久的通常通商関係法案」を成立させ、中国のWTO加盟に道を開いた。その翌年、中国はWTO加盟を果たし、奇跡の経済成長へ突き進むことになった。 アメリカの対中戦略は、オバマ政権になってからも変わらなかった。オバマが対中関係で優先的に取り組んだのは、気候変動の問題だった。いわゆるパリ協定を実のあるものにするためには、世界最大のCO2排出国となった中国の関与が不可欠だった。そして2016年3月31日、オバマの願いはかない、米中両国は共同声明でパリ協定への参加を表明した。 だがベン・ローズ国家安全保障担当顧問(当時)など複数の側近筋によれば、2期目に入るとオバマの対中感情は悪化した。知的財産権の侵害を含む貿易上の課題について、中国はアメリカとの約束をほとんど守っていなかったからだ。 ===== 結局、オバマ政権は8年間で16回も中国をWTOに提訴しているが、損害は取り戻せなかった。最後の提訴は任期切れ直前の2017年1月で、中国の違法な補助金でアルミニウムの国際価格が不当に低く抑えられているという訴えだったが、既に米国内のアルミ精錬業者は(オバマ政権の誕生した)2009年時点の14社からわずか5社に減っていた。 ブッシュ政権同様、オバマも中国に対する「戦略的な関与」の政策を維持した。そして結果的に、WHOなどの国際機関における中国の影響力拡大を許した。多くの国際機関に取り込めば、いずれは中国も「責任あるグローバルな利害共有者」になると信じたからだ。 行き過ぎた「善意の無視」 アメリカとその同盟諸国は、中国人(あるいはテドロスのような中国の盟友)がWHOや国際民間航空機関、国際電気通信連合や国連食糧農業機関などのトップに就くことも受け入れた。どうせ「大した害はない」と思えたからだ。 それが「甘かった」と指摘するのは、スタンフォード大学公共政策プログラムのランヒー・チェン講師だ。しかし元職を含む政府部内の関係者からは、甘いどころではなかったとの声も聞こえる。例えば元国防総省の中国担当者ジョセフ・ボスコは、WHOを含む国連の専門機関で中国の影響力が増大したのは「わが国の後押しがあった」からだと明言している。 しかしアメリカの指導層が抱いたチャイナ・ドリームは、習近平(シー・チンピン)が国家主席になるとしぼみ始めた。中国も遠からず民主主義を受け入れるはずだという願望は、徐々に「悪い冗談」としか思えなくなってきた。 そこへ来たのが第2の、つまり今回のチャイナ・ショックだ。それは中国の将来に関するアメリカや同盟諸国の思い込みが、いかに大きな代償を伴うかを示している。 中国の推す候補がWHOを牛耳っても「大した害はない」という想定が致命的な誤りだったのは間違いない。WHOが中国にウイルスのサンプルを速やかに提出させていれば、そして中国が昨年末の段階で「もっと率直に事実を公表していれば、これほどの世界的な危機は避けられたかもしれない」(元FDA長官のゴットリーブ)からだ。 過ぎたことの取り返しはつかないが、外交面の攻防はこれからだ。アメリカの資金が途絶えるのは、たとえ一時的であってもWHOには痛い。アメリカの拠出額は全体の22%を占め、中国の2倍以上だ。ゲイツ財団などの慈善団体や製薬会社による寄付金も加えれば、アメリカの貢献度は中国の10倍近くになる。 事態が改善されれば拠出を再開する(つまりWHOからの脱退はしない)との前提に立つ限り、議会が資金拠出に一定の条件を付すのは賢明な選択だと、スタンフォード大学のチェンは考える。公衆衛生の当局者も言うように、まずは透明性を一段と高めてもらわないと困る。 ===== チェンに言わせると、WHOのウェブサイトに掲載される毎月の理事会報告はお粗末過ぎる。例えば昨年12月のサマリーには、武漢におけるCOVID-19のヒト・ヒト感染に関する証拠は「不十分」としか記されていない。WHOは過去に、会議の詳細を公表すると科学的な議論が妨げられると弁明しているが、その主張は受け入れ難い。 「そんなのは科学じゃない」とチェンは言う。科学的な議論を進めるには「情報と仮説の広い開示が不可欠で、それなしでは分析も吟味も深まらない。それが常識だ」。 アメリカとて、22年の任期切れを待たずにテドロス解任に動くことはできないだろう。トランプ大統領も今は彼の解任まで求めてはいない。しかし、任期が切れたらテドロスの再選を許してはならない。 そのためにアメリカは同盟国を結束させ、その経済力で途上国を味方に付け、中国の言いなりにならない事務局長を選ばねばならない。そのためには「あざとい取引やロビー活動、そして外交努力が必要になるだろうが、そうせざるを得ない」。そう言ったのは保守系のアメリカン・エンタープライズ研究所のダン・ブルーメンソルだ。 「アメリカ第一」を捨てるとき 再選を目指すトランプ政権もそう考えている。その証拠に、1月下旬にはキャリア外交官のマーク・ランバートを「国連その他の国際機関における中国の悪しき影響に対抗する特使」に指名している。 しかし中国の影響力をそぐには2つの障害がある。まず、中国政府の援助と対中貿易への依存を高める一方の途上国を味方に付けるのは難しい。そして途上国を敵に回したら多数決では勝てない。だから勝つためには(トランプ流の一国主義を捨てて)政治的にも経済的にも諸外国への関与を強める必要がある。 2つ目は大統領選の行方だ。トランプは現在、ほとんどの世論調査で民主党のジョー・バイデンに競り負けている。そしてコロナ危機による経済の低迷が今年いっぱい続きそうなことを考慮すれば、11月にはバイデン勝利の可能性が高い。 それは中国政府の望むところであり、中国に製造拠点を築いてきた多国籍企業の望むところでもあるだろう。予備選段階の主張を聞く限り、バイデンは「トランプ以前」の中国観を引きずっていて、中国を敵視してはいなかった。 そんなバイデンも、ようやく厳しい現実に気付いたらしい。陣営のサイトには最近になって、1月段階で中国からの航空便乗り入れを禁じたトランプ政権の措置を「支持」するとの文言が載った(バイデンは当初、「外国人嫌い」のトランプらしいと嘲っていたのだが)。 いずれにせよ、このパンデミックに対するWHOの右往左往を見れば分かるはずだ。いま中国が歩んでいる道は危険過ぎる。世界全体の脅威だ。この20年間、先進諸国の首脳たちは(いずれは民主化するという淡い夢を抱いて)中国を甘やかしてきた。一方で途上国は「次なる大国」にひたすらおもねってきた。 バイデンさん、そんな時代はもう終わりなのですよ。 <本誌2020年4月28日号掲載> 【参考記事】習近平とWHO事務局長の「仲」が人類に危機をもたらす 【参考記事】「世界は中国に感謝すべき!」中国が振りかざす謎の中国式論理 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年4月28日号(4月21日発売)は「日本に迫る医療崩壊」特集。コロナ禍の欧州で起きた医療システムの崩壊を、感染者数の急増する日本が避ける方法は? ほか「ポスト・コロナの世界経済はこうなる」など新型コロナ関連記事も多数掲載。