<30代半ばで自転車の奥深さに目覚め、今では「坂バカ」と呼ばれる俳優の猪野学さん。NHKの自転車情報番組にレギュラー出演、世界一過酷なヒルクライムレースも走破し、ついには「自転車自己啓発(?)本」を出版した。自転車の魅力って何ですか?> 「バカ」という言葉は、決していい意味を持たない。何かに熱中している人を指す「〇〇バカ」も、どこか相手を嗤(わら)うニュアンスが込められている。しかし例外もある。それが「坂バカ」だ。 俳優の猪野学さんは、30代半ばで手にした自転車の奥深さに目覚め、46歳で世界一過酷と言われるヒルクライムレース(山や丘陵の登り坂で行われる自転車レース)を走破した。そんな彼を人は敬意と賞賛を込めて「坂バカ俳優」と呼ぶ。坂バカとはまさに、リスペクトの言葉なのだ。 トレーニング、人とのかかわりで得られる成長、そして本番のレースと、これまでの坂バカ人生をまとめたエッセイ集『自分に挑む!――人生で大切なことは自転車が教えてくれた』(CCCメディアハウス)を昨年末に出版した猪野さんに、自転車の魅力をたっぷり語ってもらった。 『自分に挑む!』口絵より Photo:中村彰男 10年乗ってもまだまだ余白がある 雨が降っても現場には合羽を着て自転車で行きます。 猪野さんはこの日も指定した場所に、ヘルメットとサイクリングバッグ持参で現れた。マネージャーとは別々に移動し、現場で落ち合うことにしているという。自転車が好きで坂が好きな猪野さんだが、競技用自転車との出合いは2007年と、意外と最近だ。 それまでビッグスクーターで移動していたんですけど、2006年に道路交通法が改正されて、バイクの路上駐車取り締まりが厳しくなった。それで自宅近くの駐輪場に停められなくなったんですけど、引っ越すのもどうかと思って。バイクが10万円で売れたので、ちょっといい自転車を買おうかなと。原付でもよかったんですけど、なぜか町乗りもできるクロスバイクを買うことにしたんです。 子供の頃に乗っていた自転車とは軽さも性能もスピードも段違い。しかも渋滞もないし、運動にもなる。まさにいいこと尽くめの自転車に、すぐにハマってしまった。これまでもスキーや空手などさまざまなスポーツをしてきたが、自転車は「10年やってもまだまだ気付くことばかりで、奥が深過ぎる」と感じている。 普通はひとつのことを10年もやってたら、飽きるじゃないですか。それが全然飽きなくて。まだまだ自分の中に余白があることが分かるんです。この間スペインに行ったんですけど、スペインで自転車に乗っているとき、小指に力を入れるだけで身体の使い方が変わってくるのに気付いた。胸椎の角度で呼吸の仕方が変わってくるとか、ペダリングひとつであってもどこに力を入れるかで変わってくる。そういう点では、本当に厄介なスポーツです(笑)。でもそこが魅力です。 ===== 自転車と演技は、双方を支え合う関係に 猪野さんは各地のヒルクライムレースに参戦し続けているが、坂が好きな理由を「そこに坂があるから」と言う。 理由は本当に、「そこに坂があるから」なんです。僕は坂でスイッチが入ってしまう。楽しいんでしょうね、坂を自転車で疾走するのが。ものすごいスピードで登って心拍数が上がってきて、身体が悲鳴を上げるのが好きなんです。ちょっと理解していただけないことが多いですが(笑)。挑戦することが楽しいから、吐きそうになるまで自分を追い込みます。まだレースで上位10位以内に入ったことがないので、いつか入りたいと思っていて。その「いつか」という可能性を持てるのも、自転車が好きな理由です。 20%超えの坂が続く世界一過酷なレースに挑む猪野さん(『自分に挑む!』より Photo:Taiwan Cyclist Federation) 家でもローラー(自転車のタイヤがないエクササイズマシン)での練習を欠かさない。一般にローラーやランニングマシンは景色が変わらないこともあり、飽きてしまうことも多いが、猪野さんは「1時間は余裕でできてしまう」と語る。 ペダリングのことだけを考えて、時計にタオルをかけて見えないようにしています。ロードバイクにはワットというパワーの値があるんですけど、ワット数を上げれば上げるほど、苦しくなってくる。でもずっと続けているとある日突然、苦しくなくなるタイミングが来る。これまでできなかったことができるようになるのが嬉しいから、毎日フラフラになるまで追い込んでいます。1日休むと取り戻すのに3日かかって、3日休むと20日かかる。だから1日1回は、心拍に刺激を入れないとならない競技なんです。 トレーニング中に雑念が浮かばないかと問うと、「自分を無にすることは苦ではない」と答えた。それは2002~03年にTBS系列で放送されていたドラマ『ピュア・ラブ』で雲水(修行僧)役を演じた際、禅寺で座禅修業した経験が活きているからだと言う。 ちなみにこの『ピュア・ラブ』は、小田茜さん扮する小学校教師の木里子と、猪野さん演じる陽春のピュアでストイックなラブを描いたドラマだ。SNSがない時代ながら、視聴者の奥様方の間で「あのお坊さんは誰?」と猪野さんが大いにバズったこともあり、パート3まで制作されている。 自転車が俳優生活を支えているのと同様に、演技で得た経験が坂バカ人生を支えている。それぞれ、切っても切れない関係に深まっていることがよく分かる。 まず自転車に乗っていれば痩せますし、体調をキープするのが楽。そういう意味では、役者生活に役立っていると思います。自転車で行くと気持ちの切り替えができるというか、仕事が終わってもまっすぐ家に帰るのではなく、一度自転車を挟むことでリセットできる。あまりにもひどい芝居をしたことで乗れなくなってしまって、「どう演じればよかったのかな......」って、自転車を押しながらとぼとぼ自宅に帰ることもありますけど(笑)。演技も自転車と同じで、終わりがない世界です。事務所の先輩の西田敏行さんが「芝居は生もので、最初から出来上がったものよりも、危うい部分があるもののほうがいいんだ」っておっしゃるんですが、本当にその通り。演技には間違いもなければ正解もないし、終わりもないと思っています。 ===== 肉体の変化を老化と悲観せず、楽しめばいい レース参加やレギュラー出演中の自転車情報番組『チャリダー★』(NHK BS1)を通して、世界屈指のサイクリストから視聴者まで、多くの人との出会いを果たしてきた。自転車で結ばれた縁は、横に横にと広がっている。 この間のスペイン撮影でアレハンドロ・バルベルデってチャンピオンに会ってきたんですけど、すごいスピードで坂を登る人が自分の隣にいる感動は、自転車に乗っていたから味わえたと思います。自転車があれば相手のアイテムを見て「いいですね~」ってコミュニケーションが取れるから、初対面の人とも仲良くなれる。俳優だけだったら出会わなかったかもしれない人々の人生に触れられるのも、面白いところです。 『自分に挑む!』は産経デジタルが運営するCyclist(サイクリスト)というウェブサイトの連載に、書下ろしを加えている。連載も含めて全てが誰かによる聞き書きではなく、猪野さんが自ら書いている。 文章を書くのは苦しいです。連載は1カ月に1本のペースで書くんですけど、最初は苦しかったです。でも芝居の本や戯曲を読んでいたので、文章では起承転結や構成、つかみや締めが大切なのは分かっていて、続けるうちに割と楽になりました。連載は4年ぐらい続けていますが、まさか僕がこんなに書くとは(笑)。実は祖父が劇作家だったんですよ。だから父には「遺伝だね。じいちゃんと一緒で表現力があるね」と褒められました。でも、自転車に乗らない人がどう読んでいるのかなってことは気になりますね。 ママチャリしか持っていない筆者だが「猪野さんが疾走している姿が目に浮かんできました。同年代の猪野さんがここまで自分を追い込んでるのを見ると、頑張れって思う。そして私も、まだまだ余白があるのかなって感じました」と言うと、笑顔を浮かべた。 SNSに「この本には自己啓発的な要素もある」と書いてくださった方がいるんですが、それが驚きで。でもいろいろ頑張ってきたことを書いたので、人生を生き抜くヒントに捉えてくださったのかもしれません。昔教わった演出家の方が「演劇とは魂の救済だ」とおっしゃったんですが、演劇には確かに人生を変えてしまう力がある。でも自転車にも、人生を変える力があると思っています。センスがないのか、(レースは)全然勝たせてくれないんですよ。あまり向いてないのが自分でも分かっているけど、ねじ伏せたい気持ちがあって。 40代半ばで肉体の変化を自覚したが、老化したと悲観せず楽しめばいいと感じていると明かす。なぜなら「人生には変化がないと苦痛だし、こんな風に考えるようになったんだという気付きが、芝居に直結する」と信じているからだ。 年を重ねることで演じ方やアプローチが変わってきているので、芝居を長くやってきてよかったと思っています。人生100年時代だから、50歳を迎えるのが今はむしろ楽しみ。新型コロナウイルスのためにレースが軒並み中止になっていますが、体調が上がってきているので毎日自分を追い込んで、コンディション維持に努めています。レースが再開されたら、お世話になった方々のためにも今年は入賞したいですね。でもセンスないからなあ(笑)。 『自分に挑む! ――人生で大切なことは自転車が教えてくれた』 猪野 学 著 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとhontoに飛びます) (※アマゾンKindle版のページはこちら) ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年5月5日/12日号(4月28日発売)は「ポストコロナを生き抜く 日本への提言」特集。パックン、ロバート キャンベル、アレックス・カー、リチャード・クー、フローラン・ダバディら14人の外国人識者が示す、コロナ禍で見えてきた日本の長所と短所、進むべき道。