<遠巻きに目を凝らして見るだけで正体が分からない北朝鮮という国──いかなる分析も確認するすべはない> 生死の確率が50%ずつであるとすれば、箱に閉じ込めたネコは現時点で生きているとも死んでいるとも言える状態にあり、箱を開けて観察するまで誰もその生死を確認できない──というのが量子力学の世界で有名な「シュレーディンガーのネコ」の話。原子より小さなミクロの世界ではそれが常態なのだが、秘密に閉ざされた北朝鮮の指導者・金正恩(キム・ジョンウン)の安否についても同じことが言えそうだ。 ここ数週間、世界は金正恩の健康状態を巡る臆測に振り回された。新型コロナウイルスのせいで命を落とした、心臓の手術を受けたが予後が悪くて今は脳死状態に陥っているらしい、いやウイルス感染を恐れて首都を逃げ出しただけだ──。だが外部の私たちには確かめるすべもない。 事の始まりは4月15日。偉大な「建国の父」である祖父・金日成(キム・イルソン)の生誕記念日(あの国で最重要の祝日だ)の式典に、正恩は姿を見せなかった。これで一部の外国諜報機関が重病説を流した。5月になると北朝鮮の公式メディアに元気そうな正恩の姿が登場したが、といって本当に生きているとは限らない。 つまり、確かなのは「分からない」という事実だけ。私たちにとっての北朝鮮は裸眼で見上げる月くらいに、遠くて分かりづらい。 北朝鮮は世界一閉ざされた国だ。基本的な情報(総人口に占める都市住民の割合、一般国民の政治的な見解、国全体の経済規模など)さえ秘密のベールに包まれている。だからといって、知らぬでは済まされない。人口約2500万の貧しい国だが、北朝鮮は近隣諸国にもアメリカにも大きな脅威であるからだ。 もしも金正恩が死亡、あるいは脳死状態に陥ったとして、そのときアメリカや中国の権益にはどんな影響が及ぶだろうか。逆に、実は彼が元気いっぱいで権力も強化していたらどうか。そのとき核兵器はどうなるだろう? もしかして、既に正体不明の誰かが金正恩の代わりに権力を掌握しているとしたら? マキャベリ的な金王朝 いずれにせよ、北朝鮮の外交政策を正しく理解したければ、次の3つの前提を踏まえておく必要がある。まず、あの国の政府の行動には合理性があるということ。どんなにとっぴに見える行動も、全ては体制の維持と権力拡大を目的としている。第2に、米中関係には大きな変動が起きているが、両国とも北朝鮮の体制維持を望んでいるという事実。そして最後に、私たちがあの国の内情を知り得ないのは例外的なことであり、決して普通ではないということだ。 ===== 北朝鮮メディアが5月2日に配信した、前日に肥料工場を視察したとされる金正恩の映像 KCNA-REUTERS 国民目線で見れば、あの国は間違いなく破綻国家だ。1990年代半ばの食糧危機では多数が餓死した。適切な医療インフラを欠き、頭痛の患者に覚醒剤が処方されたりもした。それでも1948年の建国以来、金王朝は揺るがずにいる。一族は3代にわたり権力を維持し、今や世界最長級の一党支配体制を築いている。脱北者の証言でも分かるが、あの国の人々は今も本気で「国父」金日成を崇拝しているらしい。 「北朝鮮は不合理でとっぴな行動を取りがちだという見解は幻想にすぎない」と、在韓ロシア人歴史家のアンドレイ・ランコフは著書『北朝鮮の核心』に書いている。歴代の指導者は「狂人でも狂信的な人物でもなく、むしろ徹底して効率的であり、冷酷なまでに打算的だ。今の時代で最もマキャベリ的な策士と言えるかもしれない」。 なのになぜ、金正恩の安否が「シュレーディンガーのネコ」状態なのか。彼が健康であるのなら現状は維持されるとみていい。韓国国家情報院を率いる徐薫(ソ・フン)院長が言うように、金正恩が姿を消したのは新型コロナの感染を防ぐためだったのだろう。 しかし、本当に健康を害している可能性もある。金正恩は5月1日に姿を見せたとされるが、その映像が本物という証拠はなく、以前に撮影されたものかもしれない。もしも正恩が再起不能なら、後継者は妹の金与正(キム・ヨジョン)だろう。 与正は第2代最高指導者・金正日(キム・ジョンイル)の末っ子だ。血統を重んじるあの国では正統な権力継承者だし、その任にふさわしい経歴も備えている。一部には、現に彼女が金正恩のイメージ戦略を担い、外交でも内政でも彼を補佐しているとの見方がある。ただし彼女は政権の「顔」にすぎず、実権は崔竜海(チェ・リョンヘ)らの軍幹部が握っているとの見方もある。 いずれにせよ、もしも現状維持ならばミサイル発射や核実験の挑発が今後も続くことになる。危ない橋に見えるかもしれないが、実はアメリカも中国も北朝鮮の体制崩壊を望んでいない。それを承知の上の挑発だ。 中国は14の国と国境を接しているが、今のところ難民流入の危機を免れている。だが北朝鮮が崩壊すれば、国境を越えて何十万もの人々が中国側に逃げてくるだろう。そうなれば、せっかく抑え込んだ新型ウイルスが再び猛威を振るう可能性が高い。 ===== しかも今はアメリカとの関係が冷え込んでいるから、北朝鮮の崩壊で約2万8500の在韓米軍が北上してくる事態は避けたい。中国北東部には朝鮮系の住民が多いが、彼らに対する韓国の影響力が強まるのも困る。 アメリカはどうか。ドナルド・トランプ大統領は、金正恩と個人的な関係を深めれば北朝鮮の脅威を回避できると今なお信じている。だから昨年9月には、北朝鮮に核兵器の放棄を迫る国家安全保障担当補佐官のジョン・ボルトンを突如として解任した。昨年2月にベトナムの首都ハノイで開かれた第2回米朝首脳会談は物別れに終わったが、3回目の首脳会談が年内に(もちろんトランプが11月の選挙で首尾よく再選を果たした後に)開かれる可能性はある。 それに、北朝鮮の崩壊で傷つくのはトランプのエゴだけではない。金正恩の愛する核兵器や、あの国が隠し持つ化学兵器や生物兵器などが国外に流出し、反米的なテロ組織などの手に渡れば、アメリカの安全も大きく傷つくことになる。 仮にアメリカで政権交代があっても、こうした事情に変わりはあるまい。民主党の大統領候補にほぼ確定している前副大統領のジョー・バイデンは北朝鮮から「狂犬病にかかった犬(だから殴り殺されて当然)」と罵倒されているが、それでも一定の条件が整えば金正恩との会談に応じる姿勢を見せている。 ともかく北朝鮮で何が起きるかは分からない。かつて英国のウィンストン・チャーチルは旧ソ連の権力闘争をカーペットの下で争う2匹のブルドッグに例え、「部外者に聞こえるのはうなり声のみ」で、「下から飛び出てくる骨を見るまで勝ち負けは分からない」と評したが、まさにそのとおり。北朝鮮の内部で起きていることに関して、私たちの知り得る情報は少な過ぎる。だから、どんな分析も眉に唾して聞くべきだ。 4月の韓国総選挙で脱北者として初めて国会議員に選ばれた太永浩(テ・ヨンホ、かつては北朝鮮のエリート外交官だった)の証言によれば、同国の外務省でさえ金正日の死去(2011年)を知らされたのは公式発表のわずか1時間前だったという。筆者自身も、ある北朝鮮当局者から、官僚でも同じ建物の別なフロアで何をしているかを知らされていないと聞いたことがある。体制内にいる人でさえ、何も知らされていないのだ。 それでもアメリカ政府には諜報機関からの報告が上がってくるだろうし、現地のスパイや軍事衛星の映像から得られる情報もある。だから、いわば月面の地形を見分けるくらいのツールはある。しかし私たちに望遠鏡はない。知ったかぶりは禁物だ。 ©2020 The Slate Group <本誌2020年5月19日号掲載> 【参考記事】金正恩重体説に飛びつく期待と幻想 【参考記事】金正恩「死んだふり」の裏で進んでいた秘密作戦 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年5月19日号(5月12日発売)は「リモートワークの理想と現実」特集。快適性・安全性・効率性を高める方法は? 新型コロナで実現した「理想の働き方」はこのまま一気に普及するのか? 在宅勤務「先進国」アメリカからの最新報告。