<新型コロナウイルスへの認識させた医療従事者の死> インドネシアでは新型コロナウイルスの感染拡大が未だに増加しており、ジョコ・ウィドド大統領はじめ政府、地方自治体が一丸となって国民に感染拡大防止を呼びかけているが、罰則を強化したり制限を拡大したりしても規制にこだわらない国民性のゆえにかあまり実効性を伴わず、ルール無視や規制かいくぐりが毎日のニュースを賑わせている。 そんななか、「You Tube」などのネット上では医師や看護師、保健所勤務者、病院の警備員など新型コロナ対策に携わる医療関係を中心としたスタッフへの尊敬と感謝を表す動画、メッセージが溢れている。共通の言葉は「ありがとう、自らを省みない献身を続けるあなたたちは世界の英雄だ」である。 日本でも29日昼過ぎには航空自衛隊のブルーインパルスが東京上空を編隊飛行して医療従事者への感謝を示したが、インドネシアでも医療関係者への関心が高まっている。その理由の一つに院内感染による医師や看護師の死者が増えているという厳しい現実がある。 伝統的な社会規範が感染広げる? イスラム教徒が圧倒的多数を占めるインドネシアではイスラム教優先や男尊女卑的な伝統的社会規範の中に突然沸き起こった新型コロナウイルス禍が当初は混乱を巻き起こした。 「感染はイスラムの神が与えた試練である」「熱心に祈れば感染しない」などの風説に「密閉空間、密集場所、密接場面」といういわゆる3密を避けることやマスク着用なども不要とする傾向が強かったが、3月2日にインドネシア国内で初のインドネシア人感染者が報告された。 そしてその後は感染者数、感染死者がうなぎ上りに急増するに至り、感染予防の必要性、重要性がまたたくまに国民の間に拡散した。市場ではマスク、消毒用アルコールなどが高価になり、そして品切れとなって消えたのもこのころである。 感染に対する警戒心が一方では異様なまでの恐怖心に膨れ上がり、ジャカルタでは感染死者を埋葬する指定公共墓地の周辺住民などが「死体からの感染」を危惧して霊柩車を妨害したり、埋葬する作業員の仕事を妨害したりするケースが多発し、結果として警察官が指定墓地に派遣されて警備と警戒にあたる事態に発展した。 こうしたなか、ジョコ・ウィドド大統領は「勉強も、仕事も、祈りも自宅で」として学校の閉鎖、主要不可欠産業・業務以外の原則停止や短縮、モスクや公共の場所などでの集団礼拝の自粛を呼びかけた。 規制強化のため3月20日には緊急対応宣言、4月10日には実質的な「ロックダウン(都市封鎖)」に匹敵する大規模社会制限(PSBB)をジャカルタなどに発令して感染防止に全力を挙げた。5月28日現在このPSBBは依然として4州、23の県と市で実施されている。 ===== 医師看護師ら55人が院内感染で死亡 それでもどこか別の世界の出来事のように考えていたインドネシア人の新型コロナウイルスに対する感覚が大きく変わったのが「医療関係者の死者相次ぐ」というニュースだった。主要雑誌「テンポ」は4月初旬に誌面1面を使って死亡した医療関係者の顔写真を並べて掲載して医療現場の実情を伝えた。 さらに4月17日誌面でインドネシア医師協会(IDI)理事とのインタビューで「医療関係者を感染から守る防護服などが絶対的に不足している」ことを明らかにし、防護服がない場合は雨合羽やビニールのゴミ袋を代用して院内感染防止に務めている医療現場の過酷な現状が伝えられた(関連記事「新型コロナウイルス院内感染で医療関係者24人が死亡 インドネシア、防護服など不足で危機的状況」)。 その後も医師、看護師ら医療関係者の感染そして死亡は増え続け、5月の最新情報では医師38人、看護師17人の合計55人が犠牲となっている。 東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟10カ国の中でインドネシアは5月28日の時点で感染者数は2万4000人を超え、シンガポールの3万3000人に迫る2番目の多さとなっている。だが、感染死者に関しては1496人となっており、域内では2番目のフィリピン(921人)を約500人以上上回る最悪の状況となっている。 ASEANの他国が医療関係者の感染死者数を必ずしも明らかにしていないこともあるが、医療関係者の55人という犠牲は最多ではないかとみられている。 こうした医療現場で続く医師や看護師の献身的な医療行為にインドネシア人の心が動かされた。ネット上などの掲げられる動画や写真には「皆さんを守るために私が病院で仕事をしている」などと書かれた紙を掲げた完全防護服着用の医師、看護師が頻繁に登場するようになった。 イスラム教の断食と重なり支援広がる ちょうどこの時期が4月24日から1カ月続いていたイスラム教徒の重要な行事「断食月」とも重なり、敬虔なイスラム教徒の医療関係者は日中飲まず食わずの状態で治療に当たっていることなども伝えられた。 そのため各地の病院には「1日の断食の終わりに是非食べてほしい」と飲食物の差し入れなどが相次ぎ、中には「医者や看護師は体を壊すので断食をせずに治療に専念してほしい」と訴える市民の声も伝えられた。 断食の目的のひとつに「飢えに苦しむ人々の苦労を実感し、同時に与えられる飲食物に感謝する」というのがあるそうだが、「苦しむ感染者を救う仕事に従事している医療関係者が飢えを実感する必要はない」とイスラム教徒の間でも同情が広がった。 断食期間中、女性の生理や入院、急病などの止むを得ない「緊急用件」に相当する理由がある場合は断食を中断して後日その日数分を埋め合わせすればいい、という柔軟な規定もあることから新型コロナ感染治療にあたる医療関係者にそうした「断食の繰り越し」が呼びかけられたのだ。 ===== 「あなた方は英雄だ」 YouTubeにはインドネシアの歌手や一般の人が歌う「ほかの人のために尽くすあなたへ」 「医療関係者への感謝を込めた歌、ありがとう」「医療関係者への歌」などの動画と歌が溢れており、最も視聴された動画は235万回を記録している。 最も視聴されている動画は「他の人のために」というタイトルで「誰もいなくなった病院に残り働くあなた、みんなが寝ている時も起きて自分の体や健康を気遣うより人のことを心配するあなた。あなたたちは世界の英雄であり神もそれを知っている」などという歌詞が続く。画面には防護服、マスク、防護メガネ、手袋という完全防護姿のまま廊下で横になって休んだり、イスラム教の祈りを捧げたりする写真が多く掲載されている。 画面では手にした紙に「皆さんはどうか家にいてほしい、それが私たちを助けることになる」と政府が訴えている外出自粛、自宅待機をお願いするシーンもある。 こうした動画の拡散から医療関係者への尊敬と感謝がインドネシアでは急速に高まっているのだ。 「多様性の中の統一」「寛容性」など最近は「不完全である」「建て前に過ぎない」などと負のイメージで使われることの多いインドネシアの国是が新型コロナウイルスという未曾有の国民共通の困難に直面してようやくその「本領発揮」となったようだ。 [執筆者] 大塚智彦(ジャーナリスト) PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など 【関連記事】 ・東京都、新型コロナウイルス新規感染15人 2桁台で3日連続増加 ・ブラジルのコロナ無策は高齢者減らしのため? ・韓国、新型コロナ新規感染者は79人 4月5日以来最多、ネット通販の物流センターで感染拡大 ・経済再開が早過ぎた?パーティーに湧くアメリカ   ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年6月2日号(5月25日発売)は「コロナ不況に勝つ 最新ミクロ経済学」特集。行動経済学、オークション、ゲーム理論、ダイナミック・プライシング......生活と資産を守る経済学。不況、品不足、雇用不安はこう乗り切れ。 ===== 235万回再生の動画「他の人のために」 医療従事者への感謝のメッセージを伝える動画で一番再生されている「他の人のために」 Eka Gustiwana / YouTube