<WHOと中国を悪者にすれば選挙での武器になるかも知れないが、情報は最初からきちんとそろっていたはずだ> 5月29日、アメリカのドナルド・トランプ大統領はWHOから脱退すると宣言した。これは道義的に問題があるばかりか違法な決定だ。また、指導者としてのトランプの問題点の最たるものがあぶり出された場面でもあった。つまり、自分の失敗を他人のせいにする、他の国や組織の指導者たちと礼儀正しく手を携えて国際問題に取り組むのを嫌がる、前後も考えず利己心のままに行動し、科学を軽視するといった側面だ。 今回のトランプの発言は、4月15日にWHOへの資金拠出を停止するとしたとホワイトハウスの声明と軌を一にするものだ。この中でトランプは「新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)への対処を誤った」とWHOを非難するとともに、「WHOはコロナウイルスはヒトからヒトへ感染しないという中国政府の主張をただただ繰り返すばかりだった。1月の間じゅう、中国政府の対応を称賛していた」と主張した。 その半月後、トランプは米情報機関に対し、公式にWHOと中国の関係を調査するよう命じた。この頃、マイク・ポンペオ国務長官は「武漢ウイルス」は湖北省武漢にあるウイルス研究所で作られたか、そこから流出した可能性があると再三、唱えていた。 <参考記事>アメリカの無関心が招いた中国のWHO支配 米情報当局自身が否定する中国元凶説を もっとも米情報機関を統括する国家情報長官室は「新型コロナウイルスは人為的に作られたものでもなければ遺伝子操作もされていないとする幅広い科学的コンセンサスに同意する」との立場を取り、この疑惑をほぼ否定した。 トランプはまるで駄々っ子のように、アメリカ国内で新型コロナウイルスにより10万人を超える死者が出たのは自分以外の誰か(中国やWHO)のせいだと言い続けている。4月27日の記者会見では「(中国の責任について)非常に真剣な調査を行なっている。中国には不満を持っている」と述べた。「彼らに責任があることはいろいろな点から判断できる。発生地で食い止めることができたはずだとわれわれは考えている。すぐに食い止められたはずで、そうすれば世界中に広がることはなかっただろう」 その3日後、トランプはさらに踏み込んだ発言をした。「恐ろしいことが実際に起きた。ミスだったのか、最初のミスにさらなるミスが重なったのか、それとも誰かが故意に何かをやったのかはとにかく」、パンデミックを引き起こしたのは中国だとトランプは述べた。 複数の共和党の幹部によれば、党員を対象にした世論調査では、中国叩きはトランプ支持者の間で非常に人気が高く、秋の大統領選で再選を狙うトランプにとって武器になり得るという。多くのアメリカ人がトランプのコロナ対応に抱く不満の一部を相殺してくれるからだ。 <参考記事>迷信深い今のアメリカは新型コロナウイルスに勝てない? ===== 最近の世論調査からは、支持政党によってコロナ問題への見方が分かれていることがうかがえる。例えばCBSニュースの世論調査では「新型コロナウイルスは人為的に作られた」と考えている人の割合は、民主党支持者では30%に留まったが共和党支持者では67%に上った。 ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国政府や習近平(シー・チンピン)国家主席によくない印象を持つアメリカ人の割合は増加し66%に達したが、共和党支持者の間では以前からその割合は高かった。他の調査では、アメリカ国内で新型コロナウイルスによる死者が出た責任の一端は中国政府にあると考えている人は全体の73%に達した。 WHOに対する見方はさらに分かれている。ウェブメディアのポリティコとモーニングコンサルトが5月下旬に行った世論調査では、WHOのコロナ問題の扱い方が「悪い」または「中ぐらい」と答えた人が全体の43%だったのに対し、「よい」または「すばらしい」と答えた人は48%だった。また、WHOのコロナ対策について問うと、足りないと答えた人は35%、適切だと答えた人は40%、「やりすぎ」と答えた人は9%だった。 NYで感染爆発を起こしたのはイタリアのウイルス WHOを評価する人がそれなりにいるにも関わらず、トランプ政権はWHO批判を緩めていない。5月18日、テレビ会議方式で開催されたWHOの年次総会で、アメリカのアレックス・アザー厚生長官は「感染拡大が制御できなくなった主な理由の1つについて、われわれは率直に話し合わなければならない。この組織(WHO)は世界が必要とする情報の入手に失敗し、その失敗により多くの命が失われた」と述べ、WHOのコロナ対応に関する独立調査を求めた。これに対し中国は、通常の拠出金に加え20億ドルを拠出すると述べた。 ホワイトハウスに対しては、中国での感染拡大に関して米情報当局から緊急かつ詳細な報告が12月と1月に行われていたことや、WHOに出向している米当局者からも詳細な報告が継続的に行われていたことを示す多くの証拠がある。トランプはそれを知りながら、中国やWHOへの非難をやめようとはしない。 実のところトランプは、WHOから感染状況の緊急性に関する情報を受け取ってすぐに断固たる行動を取っている。1月下旬に中国への渡航歴のある人の入国を禁止する命令を出すなど、政権は迅速な対応を取ってきたとトランプは繰り返し主張している。3月に入り、この措置が「多くの人の命を救った」と主張したトランプは、3月下旬には「たぶん数万人」の命が救われたと言うようになり、4月7日の記者会見では「中国からの入国を禁止した時には、ありとあらゆる悪口を言われたが、もしそうしなければ何十万人も死者が増えていただろう」と言うに至った。 しかしアリゾナ大学の進化生物学者マイケル・ウォロビーによる最近の驚くべき研究は、渡航制限という感染対策の有効性に深刻な疑問を投げかける。 ウォロビーと彼のチームは、何千もの新型コロナウイルスの遺伝子の詳細を分析することによって、アメリカにおける感染者第1号と考えられているシアトルの患者が、その後の感染拡大の原因ではないことを発見した。 この人物は、1月15日に武漢からシアトルに到着し、数人にウイルスを感染させたが、それ以上には広がらなかった。2月に渡航制限が設けられた後、米国国民を含む約4万人が入国した。そのうち2月13日〜19日の間にシアトルに到着した感染者からウイルスが拡散し、西海岸の流行が始まった。 またウォロビーの研究チームは、2月初めに武漢からヨーロッパ経由で入国した陽性患者らは感染源とはならず、湖北省からイタリア経由で2月7日〜14日の間にアメリカに入国した旅行者がイタリアで猖獗をきわめていたウイルスを持ち込み、そこから感染が拡大したことを発見した。 ニューヨーク市で感染爆発を起こしたウイルスは、渡航制限が実施されてから数週間後の2月20日頃にイタリアから到着したウイルスの遺伝的子孫だったのだ。 ウォロビーは同様の遺伝子マッピングでHIV(エイズ・ウイルス)とインフルエンザの流行経路を明らかにした実績がある。彼の分析が正しいとすれば、アメリカをはじめ、新型コロナ感染症の被害が大きい国々で感染が急拡大したのは、渡航制限が設けられた後、そしてWHOがPHEIC(国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態)を発令した後だったということになる。 香港国家安全法で関係悪化 それにもかかわらず、感染拡大の責任をめぐるトランプ政権と中国の習近平指導部との緊張は高まり、非難合戦は激化する一方だ。5月22日から開始した全国人民代表大会で、中国が香港の自由と民主主義の重要な側面を取り消す「香港国家安全法」の導入が決定されたこともさらに関係を悪化させている。 米議会では民主・共和両党の指導者が、今世紀半ばまで香港の自立を保証する1997年の英中間の取り決めを事実上破棄したことになる、と中国を強く非難している。一方、中国の指導者たちはCOVID-19を利用した言葉の戦争で反撃した。 中国国営の人民日報は5月28日付の記事で、新型コロナウイルス感染症に対するトランプの国内対応を「無能」と切り捨て、アメリカの死者数の多さを「米国史上最も暗い瞬間の一つ」と決めつけた。さらに歯に衣着せぬ社説でトランプを攻撃した。 「アメリカの膨大な感染者数の背後にある重要な要因は、トランプ政権が新型コロナウイルス危機の対応を誤ったことだ。地球上で最大の強国で、最も高度な医療技術を誇るアメリカでは、新型コロナウイルスでこれほど多数の死者が出るはずではなかった。ウイルスが全国に広がる最中に、トランプ政権は重要な時間を浪費したせいだ。」 翌日、トランプはWHOからの脱退を表明した。 ===== ジョージタウン大学の医療と法の専門家アレクサンドラ・フェランによると、アメリカがWHOから合法的に脱退するには、多額の金を払わなければならないし、米議会の承認なしに勝手に脱退することもできない WHO憲章は、脱退の方法を具体的に定めている。脱退にさいして加盟国は負担金の未払い分などすべての債務を解消しなければならない、とフェランは言う。上院の承認と、および1年前の通知も必要だ。 医療政策に関する調査・提言を行うカイザーファミリー財団によると、負担金はGDPに基づいて算出されるため、アメリカの拠出額は過去10年間で年1億7000万ドルから1億1900万ドルだった。 その上アメリカは年間最大4億ドルの支援をしており、年間予算約48億ドルのWHOの最大の寄与者となっている。 だがトランプ政権になってからは常習的に負担金支払いを引き延ばしており、2019年の負担金8100万ドル、2020年の1億1800万ドルが未払いになっている。そして、トランプ政権は2018〜2019年にオバマ政権が約束した9億ドルの寄付をまだ認めていない。 最も貧しい人々を見捨てるのと同じ トランプが議会や財政のハードルを越えることができるとしても、重大なモラルの問題は残る。WHOの支出のほとんどは、世界で最も貧しく、最も不十分な医療プログラムに対するものだ。 アメリカからの資金の欠如に加えて、コンゴ・エボラ出血熱の流行やCOVID-19パンデミックを含む緊急事態もあり、WHOは他の資金源の資金不足とコスト超過で13億ドルの赤字に直面している。 世界の医療従事者が外出禁止令やCOVID-19との戦いに駆り出されるなか、ポリオの撲滅活動など世界中の予防接種プログラムの実施は困難になっている。 WHOを含む多くの国際機関は5月22日、1歳未満の子ども8000万人が麻疹、ジフテリア、ポリオなど、ワクチンで予防可能な疾患にかかる危険があると警告した。アメリカがWHOへの財政支援を撤回するとなると、こうしたワクチン接種の取り組みはさらに挫折する可能性が高い。 国連の推定では、パンデミックが世界経済に与えた影響により、1億3000万人が極度の貧困に陥り、さらなる医療の需要を生み出す可能性があるという。マラリア対策は、サプライチェーンの問題や都市のロックダウンで混乱し、蚊帳や薬、検査装置の配布が中断されている。 他国との協調を拒み、自分に向きそうな非難の矛先を中国に向けるトランプの幼稚なやり方のつけは、COVID-19との戦いの現場や、国連の救急医療や子どもの予防接種、必須の医薬品、指導に頼る貧困層にまわってくる。 自分の失敗から世間の目をそらすために他人を罰するというトランプのやり方は、選挙を控え、任期終了間近の大統領としては理解できる。それでも非難されるべき行為であることには違いない。 From Foreign Policy Magazine (翻訳:村井裕美、栗原紀子) ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年6月9日号(6月2日発売)は「検証:日本モデル」特集。新型コロナで日本のやり方は正しかったのか? 感染症の専門家と考えるパンデミック対策。特別寄稿 西浦博・北大教授:「8割おじさん」の数理モデル