昨年9月、中国・武漢市内を移動していたドイツのメルケル首相は、揚子江(長江)にかかる橋に差し掛かったところで車列を止めさせた。メルケル氏はそこで、革命の指導者・毛沢東が人民に向けて披露したパフォーマンスの話を聞きたかった。 車を降りたメルケル氏は橋の上でポーズを取り、写真を撮らせた。1966年、毛沢東はこの場所で毎年恒例の水泳行事に参加し、自らの健在ぶりとリーダーシップを象徴的に誇示した。 メルケル氏にとっては単なる記念撮影だった。この地がまもなく、世界で40万人以上の死者を出すパンデミック(世界的な大流行)の震源地となるとは思ってもみなかった。 生きた武漢訪問の経験 メルケル首相に近い関係者3人がロイターに語ったところでは、武漢を訪れた経験は、メルケル政権が新型コロナウイルスに対応する上で役立ったという。 武漢は、新型コロナウイルスの人間への感染の場となった可能性のある露天市場が知られているものの、西側諸国の多くの人にとっては縁遠い場所だ。だがメルケル氏は、活気に満ちた産業の重要拠点である武漢と、そこを走る主要な幹線道路を直接目にしていた。 メルケル氏に近い関係者の言葉によれば、1100万人が暮らす大都市が自己隔離に追い込まれ、機能を完全に停止するほどの疾病なら、本当に深刻であるに違いない、と同氏は考えたという。 メルケル首相は、英国のジョンソン首相や米国のトランプ大統領などと異なり、迅速なロックダウン(都市封鎖)と広範囲の検査実施を支持した。特にアジア以外の地域において、ドイツが他の多くの国に比べ新型コロナウイルスによる死亡率を低く抑えられているのは、ロックダウンと検査の徹底という2つの要素が大きかったという評価が疫学専門家の間では広がっている。 ロイターの集計によれば、新型コロナウイルスによる死者は、米国の11万人以上、英国の4万人以上に対し、ドイツでは約9000人である。対人口比で見れば、ドイツの犠牲者は米国の3分の1、英国の6分の1だ。 国際協調かナショナリズムか ロイターはドイツ企業の経営者や州・都市の首長、首相に近い関係者を取材した。そこからは、ドイツがパンデミックにいかに素早く対応したかが見えてきた。さらに、多くの国が自国第一主義に走り、感染源となった中国を非難しがちになる中で、連携を重視するメルケル首相の国際協調の姿勢が浮かび上がってきた。 トランプ大統領は当初中国の対応を称賛していたが、パンデミックの進行に伴い態度を変え、世界保健機関(WHO)が中国政府から不当な圧力を受けているとして、WHOからの脱退を表明している。 ドイツも短期的には国内重視に舵を切り、医療用品の輸出禁止措置をとったが、その後転換した。メルケル氏はWHO改革の必要性については賛同しているものの、ワクチン開発に取り組む国際連携プロジェクトについては明確に支持している。 「米独のアプローチの違いは鮮明だ」と語るのは、米国と欧州の連携を推進する米国のシンクタンク、ジャーマン・マーシャル・ファンドのトーマス・クライネブロックホフ副総裁。「ナショナリズムと国際協調主義の差が現われている」 【関連記事】 ・東京都、新型コロナウイルス新規感染47人 40日ぶりで40人超え ・巨大クルーズ船の密室で横行するレイプ ・ロンドンより東京の方が、新型コロナ拡大の条件は揃っているはずだった ・街に繰り出したカワウソの受難 高級魚アロワナを食べたら... ===== 科学者メルケル氏 量子化学の博士号を持つ科学者であるメルケル氏は、かねてからパンデミックのリスクを懸念していた。首相に近い関係者によれば、2014年、メルケル氏とヘルゲ・ブラウン独首相府長官は、西アフリカにおけるエボラ封じ込めに向けた取り組みに密接に関わったという。その後、この種の危機への対応に向けてWHOを強化するため、米国、ノルウェーなどとも協力している。 新型コロナウイルスが欧州を襲ったとき、最初に感染が拡大したのはイタリアとフランスだった。「ドイツはウイルス襲来に不意を突かれたわけではない」とブラウン長官は言う。「準備を整えることができた」 ドイツ国内における新型コロナウイルス対策に向けて、メルケル氏は自らの行動を、国内16州の首長の利害・関心に合わせて調整しなければならなかった。ドイツの連邦制の下では、公衆衛生上の危機におけるほぼすべての責任(及び権限)は州・都市のレベルに委ねられているからだ。 誰もが気にしたのは経済への影響だった。中国はドイツにとって最大の貿易相手国であり、ドイツ統計局のデータによれば、両国間のモノの貿易は、2019年で総額2060億ユーロ(約25兆円)相当に達している。 官民で備え メルケル氏の武漢訪問は、同行した20数人の企業関係者が新型コロナウイルスの潜在的な脅威を理解するのに役立ったと、その1人であるシーメンス社のジョー・ケーザー最高経営責任者(CEO)は語る。 ケーザー氏によれば、1月12日にベルリンの本社ビル最上階で行われた企業経営者・政治家による会合の際、早くもこの問題が話題になっていたという。「気持ちの上では準備ができていた。米国や他の欧州諸国に比べ、ドイツは中国との取引が盛んという背景もある」と、ケーザー氏は言う。 1月22日、つまり武漢が完全に封鎖される前日、メルケル氏は中国の習近平国家主席と電話で会談し、ドイツが欧州連合(EU)理事会の議長国になる件、そして貿易問題について協議した。 数日後、バイエルン州に本拠を置く企業で、ドイツ国内初の新型コロナウイルス患者が発生した。その企業は武漢にも事業所があり、メルケル氏が武漢訪問の際に訪れていた。自動車部品メーカーのベバスト・グループは、出張で訪れていた中国人社員が新型コロナウイルス陽性と診断され、全面閉鎖された。メルケル氏は武漢工場のオープニングセレモニーに出席。首相はベバストの感染者数やその経路について気にしていたという。 2月、メルケル氏はベルリンを訪問した中国の王毅外相と非公式に会っている。メルケル氏に近い関係者によれば、王外相はメルケル氏に中国が取った対策を伝えたという。ドイツは中国に、防護具やガウン、消毒剤を送った。ドイツ政府は中国とのこうした対話を続けている。 一方、米国では感染拡大が深刻化し、連邦政府の対応が批判を浴びる中で、トランプ大統領は新型コロナウイルスを「中国ウイルス」と呼び、新たな対中関税の導入を示唆するなど、中国政府に対する非難を強めていった。 3月上旬、イタリアでは新型コロナウイルス患者の爆発的増加により医療機関が危機に陥り、全国的なロックダウンに追い込まれた。その隣国ドイツでは感染拡大のペースが緩やかで、思い切った行動に向けて国内のコンセンサスが得られていなかった。 ドイツの国内メディアは、保健相や首相府長官に任せきりで、ウイルスに関する態度表明が遅いとメルケル首相を批判した。関係者によると、各州・都市の首長の間でも、どれだけ本格的な対応をとるべきか意見が割れていた。東部の各州は、他に比べて厳しい対策を望んでいた。 【関連記事】 ・東京都、新型コロナウイルス新規感染47人 40日ぶりで40人超え ・巨大クルーズ船の密室で横行するレイプ ・ロンドンより東京の方が、新型コロナ拡大の条件は揃っているはずだった ・街に繰り出したカワウソの受難 高級魚アロワナを食べたら... ===== 封じ込めへ決意表明 3月11日、WHOはパンデミックを宣言した。 翌日、メルケル氏は首相府1階の国際会議室に各州・都市の首長を集め、会議を開いた。出席者によれば、国内トップクラスのウイルス専門家も招かれ、冒頭に見解を求められたという。 3人の科学者は、ドイツの病院は設備が整っているとはいえ、新規感染のペースがこのまま続けば、早ければ6月には限界を超えてしまう可能性がある、と警告した。 「3人の意見陳述の間、会議室に集まった面々はじっと黙り込んでいた」と、出席者の1人は語る。 会議ではその後、全16州の知事が、市民の生活を制限しなければウイルスを封じ込められないという点で合意した。メルケル氏と知事たちは、鉄道による移動や宗教行事、遊技場の利用や観光の禁止を含む措置を発表した。 メルケル氏に近い関係者によると、首相は全国規模の対応を正当化できる状況になるまで、公式に関与することを控えていたという。 3月18日、メルケル氏は思い切った行動に出た。首相就任以来15年、新年恒例のスピーチを除けば初めてとなるテレビ演説を行った。約2500万人の視聴者が、対応策を説明するメルケル氏の言葉を聞いた。 「東西の統一以来、いや実際には第2次世界大戦以来、これほど連帯して行動することが不可欠の危機がドイツに訪れたのは初めてだ」と、メルケル氏は訴えた。 メルケル氏は2018年10月、キリスト教民主連盟の党首として再選を目指さないと表明していた。しかしこのテレビ演説の後、支持率は80%超に上昇した。 自責の念 世界各国もこの間、感染拡大の脅威を理解するようになっていた。多くの国が防護具の確保を焦り、独善的な動きに出ていた。ドイツも例外ではなかった。 ドイツは3月4日、パニックを防ぎ、供給を安定させる方策として、マスクや手袋、ガウンといった防護具の輸出を禁止する世界の潮流に乗った。爆発的に感染が広がっていたイタリアが医療用品の緊急支援を求めたとき、EU(欧州連合)諸国はどこも要請に応じなかった。 これはメルケル氏が重視した国際協調主義の原則と矛盾していた。欧州各国の政治家たちはお互いに、利己主義を抑えようと呼びかけ始めた。フランスのマクロン大統領は、政治プロジェクトとしてのEUは崩壊の危機にあると語った。 こうした批判が高まる中で、EU執行部の欧州委員会が動き出し、加盟各国に対して輸出禁止を解除し、より小規模な加盟国への供給体制を整えるよう要請した。 ドイツとフランスは禁輸措置を解除し、内向きの議論から変化していった。ドイツの複数の州では、州内病院の集中治療室にイタリアやフランスの患者を受け入れるようになった。 後にメルケル首相は連邦議会に対し、禁輸措置を導入したことについて、EU加盟国間の供給を阻害することにつながったとして、「我々は自ら災いを招いてしまった」と述べた。 それ以来、メルケル首相は一貫して連携を強化することに注力している。ただし、それにも限度がある。連邦政府は4月、中国の新型コロナウイルス対応について「肯定的な公式声明」を出すことを求める中国外交筋の要請には応じていないと明らかにした。 5月、メルケル首相は過去数十年の財政緊縮路線から離れ、新型コロナウイルスで最も深刻な打撃を受けた諸国に対する経済的な救済のため、5000億ユーロのEU復興基金を新たに設立することでマクロン仏大統領と合意した。 「今回の危機を、1つの国が独力で解決することはできない」と、メルケル氏は話す。「我々は共に行動しなければならない」 Andreas Rinke(翻訳:エァクレーレン)[ロイター]Copyright (C) 2020トムソンロイター・ジャパン(株)記事の無断転用を禁じます 【関連記事】 ・東京都、新型コロナウイルス新規感染47人 40日ぶりで40人超え ・巨大クルーズ船の密室で横行するレイプ ・ロンドンより東京の方が、新型コロナ拡大の条件は揃っているはずだった ・街に繰り出したカワウソの受難 高級魚アロワナを食べたら...   ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年6月16日号(6月9日発売)は「米中新冷戦2020」特集。新型コロナと香港問題で我慢の限界を超え、デカップリングへ向かう米中の危うい未来。PLUS パックンがマジメに超解説「黒人暴行死抗議デモの裏事情」