<「おまえがなにをしていようが、なにをしていなかろうが、関係ない」と刑事は言った。「おまえが有罪判決を受ける理由を五つ、説明できるぞ。知りたいか?」――あまりのひどさに信じがたい実話。しかも、決して昔の話ではない> ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイド氏が警官から暴行を受け死亡したことから、黒人差別問題に今また注目が集まっている。 世界各地へ広がった抗議運動は「Black Lives Matter」ムーヴメントを生み出すに至ったが、そんな中で記憶に蘇ってきた書籍がある。『奇妙な死刑囚』(アンソニー・レイ・ヒントン著、栗木さつき訳、海と月社)だ。 黒人差別が色濃く残るアメリカ南部に生まれ育ち、貧しい黒人であるというだけの理由で無実の罪を着せられ、死刑囚となった人物が自らペンを執ったノンフィクションである。 著者のヒントン氏は29歳だった1985年に逮捕、起訴されたが、弁護士を雇えず死刑宣告を受けることになった。1999年に人権派の弁護士と出会ったことがきっかけとなり、2015年4月に釈放されたが、とはいえ約30年間を死刑囚監房で過ごしてきたのだった。 彼を救い出したその弁護士ブライアン・スティーブンソンは、本書の序文で事の経緯を次のように記している。 一九八五年のある晩、ヒントン氏がアラバマ州ベッセマーにあるスーパーマーケットの倉庫で床掃除をしていた頃、二四キロほど離れた場所で事件が起きた。レストランの店長が仕事を終えて店をでたところ、武装した男に拉致され、現金を奪われ、銃で撃たれたのだ。 店長は一命をとりとめたが、犯人はヒントン氏だと証言をした。犯行現場から何キロも離れているうえに、守衛が目を光らせ、全従業員の出社と退社時刻を記録している倉庫で働いていたにもかかわらず、である。警察はアリバイを無視し、ヒントン氏の家を捜索し、古い拳銃を押収し、それが事件に使用された凶器であると断定した。そればかりか、別の強盗殺人事件でも逮捕、起訴した。(「序―――胸に迫る、唯一無二の物語」より) 州の複数の検事が「死刑を求刑することになるだろう」と述べ、ヒントン氏を嘘発見器にかけたところ無実だという結果が出たにもかかわらず、州当局はそれを無視した。 お金がなかったヒントン氏は裁判所が指名した弁護人に頼るしかなかったが、その弁護人は、拳銃に関する州検察の誤った主張に反論できるだけの知識と力を持った専門家を公判に呼ばなかった。 それだけではない。その後も、彼は自分の無実を立証するために必要な法の支援を一切受けられなかったのである。 メディアが騒ぎ立てたがるような"暴力的な黒人"では決してない。それどころかアラバマ州の田園地帯に生まれた彼は、20代後半まで母親とつつましく暮らしていた、穏やかで知的な人物だ。逮捕されたときは派遣従業員として真面目に働いており、それまで暴力行為で逮捕されたことも起訴されたこともなかった。 ===== そんなヒントン氏は、1986年12月15日に行われた裁判について、次のように記している。 あの判決はまさしく私刑(リンチ)だった。法的にではあったものの、リンチであることに変わりはなかった。私が懸命になって呑み込もうとし、どうか消えますようにと祈っていた怒りは沸騰し、いまにも爆発しそうだった。 私が犯した唯一の罪は、黒人に生まれたことだ。というより、アラバマ州で黒人として生まれたことだ。法廷に並んでいたのは、白人の顔ばかりだった――白い顔、顔、顔。板張りの壁、木製の調度品。法廷は荘厳で、威圧感があった。金持ちの邸宅の図書室に紛れ込んだ、招かれざる客になったような気がした。(18ページより) この表現だけを見ても、ヒントン氏の冷静さや知性を感じ取ることができるのではないか。彼は母親から、決して肌の色や人種で人を判断してはならないと教えられて育っていた。 そのため逮捕、起訴され、有罪の判決を下されたときも、人種のせいだと考えないようにした。ところが、無実の貧乏な黒人より、罪を犯した金持ちを優遇するような司法制度の中で、彼に闘う手立てはなかった。 強盗容疑者として殺人罪で起訴されたヒントン氏に対し、アッカーという名の刑事が浴びせた言葉は強烈だ。「おまえがなにをしていようが、なにをしていなかろうが、関係ない。正直なところ、おれはな、おまえの仕業じゃないと思ってる。だが、そんなことはどうでもいいんだ。おまえがやってないのなら、おまえの兄弟のだれかがやったことになる。おまえは自分の責任じゃないのに罰を受けるんだよ」という言葉(これだけでもひどい話だが)に、こう続けたのだ。 「おまえが有罪判決を受ける理由を五つ、説明できるぞ。知りたいか?」 いやだと私は首を横に振ったけれど、彼はそのまま話しつづけた。「その一、おまえが黒人だから。その二、ある白人がおまえに撃たれたと証言するはずだから。その三、この事件の担当が白人の地区検事だから。その四、裁判官も白人だから。その五、陪審員も全員、白人になるだろうから」 アッカーが言葉をとめ、にやりと笑った。「で、どういう結末になるか、わかるか?」 私は首を横に振ったが、彼の言わんとしていることはわかっていた。南部で育った人間に、彼の言っていることがわからないはずがない。まるで真冬に氷のように冷たいシャワーを浴びたみたいに、全身が麻痺した。「有罪。有罪。有罪。有罪。有罪」。アッカーは左手の指を一本ずつ上げ、五本の指を広げると、てのひらを私のほうに向けた。(98〜99ページより) こうしてヒントン氏は投獄されることになった。死刑囚監房の近くには死刑執行室があり、会話を交わしたこともある50人以上の死刑囚がそこで処刑される音と匂いを感じながら、長い時間をそこで過ごした。 ===== 想像するだけでどうにかなってしまいそうな話だが、注目すべきはヒントン氏がそんな中でも決して希望を失わなかったことだ。当初こそ気持ちを閉ざしていたものの、持ち前の明るさとユーモアのセンスを武器に、できる限り前向きに生きようと試みるのだ。 例えば刑務所長には、あるときこんな提案をし、了承されている。 「読書クラブを立ちあげたいと考えているんです。一カ月に一度、図書室に集まらせてもらえませんか。ただし、読書会をひらくわけですから、聖書以外に読める本が必要です。私たちのように、聖書を大切に思っている人間ばかりじゃありませんから。おわかりですよね?」(262ページより) この案は了承され、以後、読書会が開催されることになった。その結果、普通の本が一冊もなかった死刑囚監房には、「新たな世界の扉が開いたような雰囲気」が広がっていったという。 これは一例だが、このように自分を含む囚人たちが少しでも前向きに生きていけるような策を彼は考え続け、実行したのだった。『奇妙な死刑囚』という邦題も、死刑囚にしては"奇妙な"こういう彼の振る舞いに焦点を当てたからこそ付いたものだと推測される。 ちなみに原題は『The Sun Does Shine』で、これは刑務所から出た彼が、殺到する群衆に向けた言葉だ。 泣き声と抱擁がひとしきり続き、喧騒が鎮まるまで一〇分ほどかかっただろうか。みんな静かになり、私が口をひらくのを待っている。周囲の顔をひとつずつ眺めていった。とうとう、自由になったのだ。あれをしろ、これをするなと命令する者はいない。自由なのだ。 自由! 私は目を閉じ、空を仰いだ。母さんに祈りを捧げた。神に感謝した。それから目をあけ、たくさんのカメラのほうを見た。とてつもなく長いあいだ、私は闇のなかにいた。昼も夜も、闇の日々が続いた。でも、それももう終わりだ。これまでは太陽が輝くのを拒む場所で暮らしてきた。もうたくさんだ。二度と戻るものか。「陽は輝く」。そう言うと、私はレスターとブライアンのほうを見た。それぞれのやり方で、私を救ってくれた二人の男。「陽は輝くのです」。そう繰り返したとたんに、涙があふれ出した。(426〜427ページより) 明るく前向きな性格だけを武器に、身を結ぶかどうかの保証もない努力を彼は続けてきた。だからこそ、やがて人権派の弁護士と出会うことができ、自由の身になれたのかもしれない。そういう意味では、自分がなぜ死ななければならないのか理解できないまま処刑されていった仲間たちに比べれば、まだ"幸せな部類"だったと考えることもできる。 ===== とはいえ、それは理屈でしかない。なにしろ、ここにたどり着くまでに30年の歳月がかかってしまったのだ。しかも、こうした現実があった(そして今も、ある)ということ自体があまりに衝撃的だ。 奴隷制が敷かれていた時代の話だというなら、まだ分からないではない。だが、ヒントン氏の死刑判決は1986年なのだ。1986年と言えば、ヒップホップグループのRun-DMCがロックバンドのエアロスミスと共演して大ヒットを生み出し、白人と黒人の壁を破ってみせた年だ。 当時はそれを快挙だと感じたものだが、同じ頃にこういうことが起きていたなら、Run-DMCのことしか知らなかった私には、物事の断片しか見えていなかったことになる。 それどころか、いまだに当時と大差ないことが起こっているのだ。だから、「いま起こっていること」の根源的な部分を学ぶためにも、本書を読んでみるべきだと私は思う。 なお訳者も記しているように、YouTubeには「Anthony Ray Hinton Exonerated After 30 Years」という動画が上がっているので、本書を読み終えた後にでもぜひ見てほしい。 『奇妙な死刑囚』 アンソニー・レイ・ヒントン 著 栗木さつき 訳 海と月社 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) [筆者] 印南敦史 1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)をはじめ、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年6月23日号(6月16日発売)は「コロナ時代の個人情報」特集。各国で採用が進む「スマホで接触追跡・感染監視」システムの是非。第2波を防ぐため、プライバシーは諦めるべきなのか。コロナ危機はまだ終わっていない。 ===== ついに釈放されたときのヒルトン氏の様子 Equal Justice Initiative-YouTube