ジョブズ没後に、Apple精神の継承を象徴した新製品。 今回は、スマートウォッチはおろか「時計」を代表するプロダクトにまで急成長した、Apple Watchの実績を振り返ってみたい。 Apple Watchは2011年の11月、スティーブ・ジョブズが亡くなった後に初めてリリースされた新カテゴリーの製品だ。だが、14年秋に発表される前までは、ITメディア界隈で「もうAppleから新製品は出ないのではないか」などと、まことしやかに噂されていたことを思い出す。 というのも、ジョブズがAppleに復帰した1998年以降、アップルは98年にiMac、2001年にはiPodとiTunes、04年こそジョブズのガン発覚もあり前年発表のiTunes Storeのみのリリースに留まるが、07年にはiPhone、10年にはiPadとほぼ3年周期で新製品および新サービスをリリースしてきたのだ。しかし13年にはなにもリリースされず、なんのインフォメーションもなかったことから"ジョブズロス"の影響がささやかれ、そうした噂がメディアに広まっていたのである。 <参考記事>AppleとGoogleがタッグを組んだ"接触確認アプリ"とはなにか、ITジャーナリスト林信行が解説する。 14年秋のApple Watch発表会。初代MacやiMacが発表されたデ・アンツァカレッジのフリント講堂で行われた。周辺の道路はすべて封鎖され、校内は完全にAppleによる貸切状態。外にある巨大駐車場に展示用の白い展示パビリオンがつくられていた。 そんななか、14年9月9日にApple Watchの発表イベントが開催された。1984年の初代Macintoshの発表をはじめ、Appleが力を入れた発表を行う際に必ず使用してきたデ・アンツァカレッジのフリント講堂が会場だったことからも、彼らの意気込みがわかろうというもの。しかもこの発表会はテクノロジー、IT系企業にとって過去に例のない異色なイベントとなった。 ===== スマートウォッチを、ファッションアイコンに押し上げた戦略。 デ・アンツァカレッジの駐車場につくられた巨大展示ホール。その後、世界3店舗で展開されたApple Watch Storeや現在のApple直営店でも使われているApple Watch展示用什器も、この時、既に完成していた(ひきだしに各種バンドをしまえるなどApple Watch用の改造が加えられている)。 発表会に招かれた、ファッション界の重鎮たち。 これまでテクノロジー、IT系企業の新製品発表会に招待されるメディアといえば、デジタル系メディアや経済系のメディアが大半だった。しかし、その会場には一般誌やカルチャー誌、そしてファッション系メディアが多く招待され、なかにはファッションモデルの姿もちらほら。日本からも藤原ヒロシさんが招待されるなど、そのメンバーと華やかな雰囲気は、大規模なファッションイベントのようであった。 さらに、続く10月にはパリにあった高級セレクトショップ「コレット」で1日限りの展示会を開催。なんとそこには、ファッションデザイナーの故カール・ラガーフェルドやUS版VOGUEの名物編集長、アナ・ウィンターも出席と、ファッション界を代表する大御所ふたりが来場し大きな話題となった。 <参考記事>ITジャーナリスト・林信行とAppleのノートパソコン史を振り返る。 メトロポリタン美術館では「MET GALA」と同時に、Appleとコンデナスト社とが主催したファッション系の展覧会「MANUS x MACHINA: Fashion in an age of Technology」が開幕。新しい素材や製造方法の誕生が、ファッションの世界にどのような新しいクリエイションを生み出してきたかを振り返り、讃える展覧会となっていた。 テクノロジーの枠組みを飛び出した、広告戦略。 三者の蜜月関係はそれだけに留まらない。Appleは、ウィンターの主催により毎年ニューヨークのメトロポリタン美術館で開催される「MET GALA(メットガラ)2016」のスポンサーに就任。名誉会長を努めたカール・ラガーフェルドの腕には、ゴールドリングブレスレットのApple Watchが光り輝いていた。なお、このイベントの司会を"歌姫"テイラー・スウィフトらとともに務めていたのが、当時のAppleのCDO(最高デザイン責任者)であり、Apple Watchのデザイン、そしてファッション界への進出を牽引したジョナサン・アイブであった。 Apple Watchのリリース時には、もうひとつの噂があった。Apple Watchをデザインした世界的プロダクトデザイナー、マーク・ニューソンが、そのためにAppleへ入社したというニュースが世界を駆け巡ったのだ。 しかし、それはまったくの誤報であり、単にジョナサン・アイブとの強いパートナーシップが、そうした誤解を生んだのではないかとみられている。 15年秋のiPhone発表会では、Apple Watchのブランドコラボモデルをエルメスおよびナイキとつくることが発表された。両社とのコラボモデルは、その後も1年に1度、Apple Watch新作発表時の楽しみのひとつになっている。現在では両社によるバンドのみの単体発売も行っているが、コラボモデルには通常のApple Watchでは表示されない特別な盤面が用意され、差別化されている。 名だたるブランドとのコラボレーションが話題に。 さて、そうしたファッション業界へのアプローチに加え、Apple Watchが単なるガジェットではなく、ファッションアイテムでもあることを広く印象づけたのは、ファッションブランド同様に春夏と秋冬のシーズンごとにリリースされる付け替え可能なストラップの存在だ。そしてなにより、名だたるファッションブランドとのコラボレーションを行ったことこそ、最大の要因だろう。 初代モデル発売から半年後の15年秋には、世界を代表するハイブランド、エルメスとのコラボモデルを発表。エルメスのアイコンである二重巻きのレザーストラップ「ドゥブルトゥール」が採用されたエレガントなモデルは大きな話題となり、日本でも大ヒットとなったことは記憶に新しい。 Appleがホームページで公式に認めているコラボはエルメスとナイキの2社のみだが、これに加えて各国のApple Watchチーム主導で開発され、Apple Watch Storeやファッションデザイナーの店で限定販売されていた半公式コラボモデルのバンドもある。日本では本物のドライフラワーでつくられた上の写真のアンリアレイジのモデルに加え、サカイとのコラボモデルもつくられた。他に、米国ではコーチなどともコラボモデルをつくっている。 ===== デザインやUIに込められた、並々ならぬこだわり。 初代のApple Watchでは、「EDITION」シリーズとして贅沢な18金モデルが用意された。高価だったこともあり、一代限りの記念碑的モデルとして終わってしまったが、Appleはその後もセラミックやチタンなど新しい素材を探求してEDITIONモデルの開発を続けている。 マテリアルの追及から見えた、機械式時計との差異。 Apple Watchのセールスプロモーションは、ファッション業界への進出やコラボレーションなどの成功例ばかりではないことにも触れておくべきだろう。 初代モデルの発表時に話題を呼んだのがケースに18金を用いた高級モデルで、その価格は実に235万円。使用するマテリアルでグレードが異なるスイスの高級時計ブランドに倣った展開かもしれないが、著名人らにこれら高級モデルを着用させSNSで発信させたのも虚しく、決して成功とはいえなかった。 いかに先進の技術を搭載し、こだわり抜いた最高級のマテリアルを纏ってはいても、スイスの高級時計のように語るべき歴史のない新しいプロダクトに、そこまでの金額を支払う市場が存在しなかったということではないだろうか。 <参考記事>ITジャーナリスト林信行は、新iPad ProにAppleの"先取の精神"を見た。 Appleのていねいなものづくりを感じさせるコンセプトブック。 5周年を迎えたいま、Apple Watchは確かなブランドを築いたといえる。高い機能性はもちろん、ファッション業界へのアプローチやコラボモデルのリリースなど、それを成し得た要因はさまざまだ。そのひとつには、製品の開発前の段階から盤面の細かな点についても膨大なリサーチや検討、議論を繰り返してきたことがあげられる。実はAppleには、そうした検討の足跡ともいえるある本が存在する。 その本とは、Apple Watchのコンセプトブックで、サイドテーブルからはみ出すほどの大判であり、厚さは電話帳ほどだった。そこには時計の歴史や世界のありとあらゆる時計が詳細に調べられており、Apple Watchの開発にあたり、アップルがいかに時計というプロダクトと向き合い、その歴史からひも解いて丹念に調査を重ねてきたかが容易に想像できる内容だった。 またApple Watchの特徴として、カスタマイズ可能な多彩な文字盤が挙げられるが、そのコンセプトブックにはすべての文字盤の動作やカラーバリエーションが詳細に記載されていた。蝶が羽ばたきクラゲが浮遊する「モーション」について、その動きが同じ画角で複数のコマにわたって描かれている。つまりそれは、それらひとつひとつをスタジオでセットを組み、そのナチュラルな動きをカメラに収めているということ。そのこだわりぶりと撮影にかかる手間には、驚きを隠せない。 歴代アップル製品の中でも、最も画面の小さなApple Watch。その小さな画面に、さらに小さな付加情報を表示することも多いため、小さなサイズでも読みやすいフォントまで新たに開発した。 さらに、Apple Watchは、言うまでもなくアップル製品のなかで最も小さなディスプレイをもつプロダクトである。その小さな画面でも視認性に優れた表示を求めた結果、小さくても見やすいオリジナルフォント「San Francisco」の開発に至ったというのは、アップルにとっては至極当然の結論だったのだろう。 こうした細部にまで宿るこだわりは、Apple Watchが偶発的なヒット商品だったのではなく、「築くべくして築かれた」ブランドである重要な一要素といえよう。 後編はこちら 談:林 信行 構成:高野智宏 ※2020.05.13 ※当記事は「Pen Online」からの転載記事です。