<福祉国家、環境、デザイン、または重税、優生思想、治安悪化......。北欧スウェーデンに対するイメージは極端に振れている。一つ一つは間違っていないものの、その全体的なイメージ像は実像からはかなりかけ離れていると清水謙・立教大学法学部助教は指摘する。論壇誌「アステイオン」92号は「世界を覆うまだら状の秩序」特集。同特集の論考「変わりゆく世界秩序のメルクマール――試練の中のスウェーデン」を3回に分けて全文転載する> はじめに――イデオロギーとしてのスウェーデン? 二〇一八年は日本とスウェーデンが外交関係を樹立してちょうど一五〇年の節目の年であった。一八六七年に徳川幕府が最後に結んだ修好通商航海条約はデンマークとであったが、翌一八六八年に明治政府が最初に結んだ修好通商航海条約の相手国はスウェーデンであった。その意味で、近代日本の外交はスウェーデンとの対外関係から始まったといえる。以来、日本とスウェーデンは友好的な外交関係を構築し、経済的にも結びつきを強めてきた。 とはいえ、スウェーデンに対する評価は、極端なくらいに賛否両論にあふれるものであったといってよい。特に、その両極端なイメージは、福祉、ジェンダー、環境などといったトピックではとりわけ顕著である。これはネイション・ブランディングの裏と表の関係でもあるのだが、スウェーデンは高福祉でジェンダー平等が達成され、人種差別もない最先端の民主主義を確立した「ユートピア」のように持て囃される一方で、逆に高負担に苦しむ社会主義国家のような監視社会、あるいは深刻な社会問題を抱えて崩壊の危機に瀕した国というような「ディストピア」として嘲弄の対象ともなってきた。さらに近年では、治安の悪化が移民/難民を多く受け入れた代償であると強調される傾向も見られる。 確かにこれら個別のイメージは必ずしも間違っているわけではないのだが、俯瞰的に見れば、いずれの立場で論じるにしてもそこには実像としてのスウェーデンからは距離感がある。喩えるならば、一つ一つのパーツはよくとも、並べてみるとなんともちぐはぐな福笑いの顔のようなものである。目隠しになっているものは、多くの場合真相を解くのに必要不可欠なスウェーデン語を理解しないまま、しばしば思い込みによる実証を伴わない表面的な先入観にあるが、それでいてテンプレートに描かれた輪郭だけは鮮明である。それは「社会民主主義」としてのスウェーデンである。 議論を呼んだ最近の例でいえば、井手英策による『富山は日本のスウェーデン』が挙げられる。旧態依然とした表面的なスウェーデン理解から(そもそもスウェーデンのことを理解しているかも疑わしい)、スウェーデンを社会民主主義の代表とし、数値と印象だけで牽強付会に論じている箇所が多々見られる(井手英策『富山は日本のスウェーデン│変革する保守王国の謎を解く』集英社新書、二〇一八年)。 ===== これは、「スウェーデン=社会民主主義」という一種のドグマに囚われた言説にほかならないが、スウェーデンがオール社会民主主義ではないことくらいは贅言(ぜいげん)を要しない。むしろスウェーデン政治史を知っていれば、社会民主主義そのものが保革間での激論の対象であったことは自明のことである。それにもかかわらず、社会民主主義のイメージを先行させながら「スウェーデン」という国名を代入することで、スウェーデンそのものを恣意的な概念(もしくはバズワード)として括っているにすぎない。吉田徹は、社会民主主義はスウェーデンだけではなく、イギリスや欧州大陸にも様々な社会民主主義のヴァリエーションがあるのであり、スウェーデンという「約束の地」を設定することで「上滑り」の議論に終始してしまう自家撞着に陥っていると指摘して、スウェーデンに拘泥する井手の主張に疑問を呈している(吉田徹『「富山は日本のスウェーデン」なのか│井手=小熊論争を読み解く』SYNODOS、2019.6.24. https://synodos.jp/politics/22791 を参照)。 井手の議論に象徴されるように、良くも悪くも引き合いに出されてきたスウェーデンという固有名詞は、社会民主主義の旗手であるかのような「イデオロギー」として扱われてきたといえる。これは、さきほど紹介したような賛否両論の中でも、なぜスウェーデンに関する言説に憧憬と拒絶が見られるかといえば、「イデオロギー論争」のモデルとしてスウェーデンが長らく位置づけられてきたからにほかならない。二〇一九年に『タイムズ』誌のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたグレータ・テューンバリ(日本ではしばしばグレタ・トゥンベリで報道されている)に対する敵愾心も、グレータがスウェーデン出身であることから「イデオロギー」的な好悪の感情によって誘発されている側面もあるのではないか。 井手は、スウェーデンの社会民主主義を語るうえでどうしても外せない人物として、社会民主主義の代名詞とされてきた「国民の家」演説を行ったパール・アルビン・ハーンソンを挙げている。しかし、この短絡的な引用は壮大な矛盾を浮かび上がらせている。というのも、「国民の家」は社会民主主義のテーゼから必然的に導き出されたものではないからである。「国民の家」概念はもともと保守勢力の理念であり、国民的な幅広い支持を得るためにハーンソンはそれを取り込んだにすぎない。スウェーデンを「イデオロギー」としてとらえることは、スウェーデンに存在する社会民主主義以外の政治思想を捨象することになり、そのことで右派や保守などの側から見るスウェーデンを見落としてしまう。 その右派や保守の観点でいえば、昨今のスウェーデン政治においては、〝極右政党〞と言われる「スウェーデン民主党」の台頭が大きな関心となって学界やメディアでも取り上げられている。では、このスウェーデン民主党の躍進はどのように捉えるべきなのだろうか。それを次に見ていくことにしよう。 「アステイオン」92号77ページより 二〇一八年の「敗者なき選挙」 二〇一八年九月に行われたスウェーデンの議会選挙は、「敗者なき選挙」のような様相を呈した。各党の獲得議席と前回(二〇一四年)とを比較した議席増減数をまとめたものが表1である。 ===== 与党社会民主党は大幅に議席を減らしながらも第一党としての地位を保ち、情勢厳しいながらも当面の続投を表明した。ステーファン・ルヴェーン首相は、穏健連合党との連携も示唆しながら、スウェーデンのブロック政治の終焉にまで言及したが、集まった党員や支持者らからは「スウェーデンには再び社会民主党政権が必要だ!」という合唱が響いた。 対する野党の穏健連合党は社会民主党と同じくらいに議席を失いながらも、党首のウルフ・クリステションはこれでルヴェーン首相を退陣に追い込んで「スウェーデンのための同盟(アリアンセン)」で政権を奪取できるとして新政権を担当する意欲を見せた。議席数を大きく失いながらも、両党には惨敗のときに漂う茫然自失の様子は見られなかった。その一方で、スウェーデン民主党は議席の増加数が最も多かったことで勝利宣言を発した。その他、議席を伸ばした左派党や、一時は全議席を失うとさえ危ぶまれながらもエッバ・ボッシュ・トール新党首のもとで息を吹き返して歴史的勝利を収めたキリスト教民主党などでは祝賀ムードにさえ包まれた。 しかし、新政権の成立は円滑には運ばなかった。というのも、スウェーデン議会の定数三四九議席のうち、いずれの政党もまたブロックも過半数を獲得することができず、宙吊り議会(ハング・パーラメント)となったからである。 スウェーデンでは、少数派政権は珍しいことではない。たとえ少数派政権でも「消極的議院内閣制」によって絶対的多数派が政府を不信任としなければ、政権は維持されうるという慣習がある。それでもなお、連立交渉において各ブロック内で連立交渉が難航し、政権の樹立がスムースに進まなかった。その理由には、政策ごとの政党間の不一致も大きく作用してアリアンセンで内紛が表面化したこともあったが、最もネックとなったのがスウェーデン民主党への対応である。 スウェーデン民主党と連立の道を模索すればいずれのブロックも安定的な政権運営が可能となる。ところが、どの政党もこのスウェーデン民主党とは、連立を組むことに難色を示した。それは、同党がネオナチに源流を持ち、移民の排斥を訴える極右政党だからである。最終的には、年が明けた二〇一九年一月一八日に、ステーファン・ルヴェーンを首相とする社会民主党と環境党・緑との連立政権が成立したが、その間一三一日という史上最長の政治空白が生じたのであった。 スウェーデン民主党はどんな政党か では、それほどまでに排除され、防疫線を張られたスウェーデン民主党とはどのような政党なのだろうか。スウェーデン民主党は一九八八年二月に結党された政党で、「スウェーデン人の利益代表政党」としてスタートした。この政党は、「新スウェーデン運動」や本流のナチス組織が合流する形で誕生したが、その活動は全身黒尽くめのスキンヘッド集団が街頭を闊歩するような典型的なネオナチそのものであった。傍流として、減税を訴える不満政党「進歩党」の流れも汲んでいるが、高い失業率や高い税金で苦しむ若年層、年金生活者の高齢者層などがその支持者層であったことから、スウェーデン民主党は福祉ショーヴィニズムを主張する政党となっていった。 その福祉ショーヴィニズムの矛先は、年々増加していた移民/難民へと向けられていた。いまでこそ移民/難民を積極的に受け入れ、ヨーロッパでも最も寛容な国の一つといわれるスウェーデンだが、歴史を紐解けばかなり閉ざされた国であった。 ===== 一九二七年に制定された「外国人法」では、「労働市場の保護」とともに「純粋な人種性の保持」が謳われ、世界でも稀有な北欧の均質さと純血性は保持すべきものと定められて、外国人に対しては極めて排他的であった。これは二〇世紀前半に持て囃された「人種生物学」と呼ばれる優生思想に基づくものであり、その目的は次世代の生存のために可能な限り健康体となるように社会整備を図るものとされた。これはすなわち、のちの福祉国家建設にあたって有益な人間を画一的に創り、スウェーデンで行われていた障碍者への強制不妊手術を正当化する理論的根拠となるものであった(いうまでもないが、この人種生物学の科学的根拠は否定されている。ただ現在でも、政策決定にあたってスウェーデンは必ず科学的根拠を参照して立法を行う)。 一九二一年五月一三日の政府提出法案による議会決議を経て一九二二年には世界初の国立の「人種生物学研究所」が大学街ウップサーラに設立されたが、この人種生物学は国家主導のプロジェクトとして推進された。この研究所の設立のための両院の議員動議を見てみると、首相経験者である右派党のアルヴィッド・リンドマンとともに、社会民主党の首相であるヤルマル・ブランティングをはじめ、のちの農民同盟(現、中央党)に合流する自由農民グループの政治家など超党派で署名していることが見て取れる。ブランティングは、スウェーデン初の社会民主党政権の首相を務め、スウェーデンの社会民主主義の基礎を築き上げた人物として歴史に名を残している。 こうした人種生物学は当時の著名な文化人らによっても支えられた。さらに地政学で有名なリュードルフ・チェレーンの唱えた「アーリア人種論」や彼の属した右派党の党内派閥である「国家グループ」の「人種生物学的移民管理」も有力視され、当時は移民の流入は「難民侵略」とまで呼ばれた。ここに、スウェーデンの社会民主主義の暗部と保守との接点があるが、この点からみても「スウェーデン=社会民主主義」と単純に括ることの危うさが認識できるだろう。さきほどのハーンソンの「国民の家」も、こうした保守層の理念を取り入れて提唱されたことは改めて強調しておいてよいだろう。これはスウェーデン民主党の持つ理念とも大きく関わってくるからである。 このような排他性によって、ナチス・ドイツで迫害されているユダヤ人も「望まれざる難民」として一九四一年までスウェーデンはその受け入れには非常に消極的であった。しかも、大戦中に自国の安全保障や「中立」を脅かすおそれのある者は、外国人も含めて全国一四カ所に建設された「強制収容所」に裁判所の令状なしに収容するなど、緊迫した状況にあった。スウェーデンという国は、自国を守るためには手段を選ばない側面もあることは付言しておいてもよいだろう。 しかし第二次世界大戦末期には、フォルケ・バーナドットの指揮のもとスウェーデン赤十字社が派遣した「白バス」によってドイツの強制収容所の多くの収容者が救出され、ハンガリー駐在の外交官ラウル・ヴァッレンバリによってもユダヤ人の救出が行われた。 また、一九四五年一月に議会に設置された「サンドレル委員会」でも、強制収容所の問題やスウェーデンの公安警察の活動の妥当性など、それまでの厳格な政策に反省が加えられた。また、大戦中に受け入れていたバルト三国出身者が貴重な労働力となったことで、「労働市場の保護」や「純粋な人種性」という政策の妥当性も失われていった。 ※第2回は7月10日に掲載予定です。 清水 謙(Ken Shimizu) 1981年生まれ。大阪外国語大学外国語学部スウェーデン語専攻卒業。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(国際関係論コース)にて、修士号取得(欧州研究)。同博士課程単位取得満期退学。主な著書に『大統領制化の比較政治学』(共著、ミネルヴァ書房)、『包摂・共生の政治か、排除の政治か─移民・難民と向き合うヨーロッパ』(共著、明石書店)など。 【関連記事】すばらしい「まだら状」の新世界──冷戦後からコロナ後へ 【話題の記事】 ・スウェーデンの悪夢はパンデミック以前から始まっていた ・スウェーデンが「集団免疫戦略」を後悔? 感染率、死亡率で世界最悪レベル 当記事は「アステイオン92」からの転載記事です。 『アステイオン92』 特集「世界を覆う『まだら状の秩序』」 公益財団法人サントリー文化財団 アステイオン編集委員会 編 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)