香港基本法の解釈権と改正権は全人代常務委員会にあり、香港の裁判所は国防や外交などの国家行為を管轄しないと明記してある。国家安全を国家行為と解釈すれば合法的に国安法を制定できるよう最初から仕組んである。 香港国家安全維持法(以下、香港国安法)に対して今後どのように対処していけばいいのか、そして何が起きようとしているのかを見極めるためには、まず中国がどのような法的論理で何をしようとしているのかを客観的に位置づけなればならない。 基本構造 その思考を明晰にするために、既知のことではあっても、先ずは順序だてて基本構造を見てみよう。 ●中華人民共和国憲法第31条(1982年改憲)には、「国家は、必要のある場合は、特別行政区を設置する。特別行政区において実施する制度は、具体的状況に照らして全国人民代表大会(以下、全人代)が法律でこれを定める」とある。 ●特別行政区で遂行される制度は「一国二制度」である。一国とは「中華人民共和国」で、二制度とは「社会主義制度:大陸」と「資本主義制度:特別行政区(香港、マカオなど)」である。 ●特別行政区は中国大陸の一般の行政区分である省(河北省、安徽省...など)や直轄市(北京、上海...など)と違い、その行政区における独自の法律が適用され、高度な自治権を持つ。 ●特別行政区では施行される法律は「特別行政区基本法」で、現在は「香港特別行政区基本法」と「マカオ特別行政区基本法」がある。 香港特別行政区基本法の法的構造―仕組まれた爆弾 香港国安法という観点から見た時、香港特別行政区基本法(以下、基本法)には、以下のような基本構造がある。 ●基本法の解釈権は全人代常務委員会にある(基本法第158条)。 ●基本法の改正権は全人代にある(基本法第159条。3分の2以上賛同で議決)。 ●香港特別行政区の裁判所(法院)は、国防や外交などの国家行為に対しては管轄権を持っていない。香港特別行政区の裁判所では、国防、外交などの国家行為に関する事件の審理において、事実関係に疑義が生じた場合には、必ず行政長官に事実関係に関する証明書をもらわなければならない。この証明書は裁判所に対して束縛力を持つ。行政長官は、当該問題について証明書を発行する前に、必ず(中国大陸の)中央人民政府(=中国政府=「北京」)から証明書を取得しなければならない(基本法第19条)。 今般の香港国安法において発揮されたのは、この基本法第19条である。 ここに書いてある「国防や外交などの国家行為」の中に「国家安全」を含めたと解釈すべきで、その解釈権は基本法158条が定める通り、全人代常務委員会にある。 ===== そしてその改正権は全人代にあるので、5月22日に開幕した全人代で改正案が提起され、閉幕日の28日に議決された。 そこに持って行くための中国共産党中央委員会(中共中央)の会議は2019年10月28日から31日まで開催され(四中全会)、そこで全人代に諮ることが決議されている。 中共中央会議のトップにいるのは言うまでもなく習近平・中共中央総書記である。 こうして順序よく「合法的」に香港国安法は制定されたのである。 筆者はこれを「基本法に埋め込んである爆弾」と称している。 そしてこれらの法律は、まるで忍者のからくり細工のように、すぐには気づけれないように巧妙に仕組んであるのである。 最強のカードはまだ残されている 香港基本法第18条には以下のような文言がある。 ――全人代常務委員会が戦争状態の宣言を決定した場合、または、 香港特別行政区内で香港特別行政区政府が制御し得ない、国家の統一および安全に危害を及ぼす動乱が発生して、香港特別行政区が緊急事態に陥ったと決定した場合には、中央人民政府は命令を発して、全国レベルの関係法を香港特別行政区において施行することができる。 つまり、いざとなったら香港を「特別行政区として扱わない」ということが香港基本法に、明確に盛り込まれているのである。 今般の香港国安法は、その一歩手前で踏みとどまって第19条を適用して非常事態を回避したということができる。 香港基本法は1990年4月に発布されたが、その10ヵ月前の1989年6月4日に天安門事件が発生し、香港側代表の民主人士は基本法起草委員を辞任したし、天安門事件に抗議した李柱銘氏等の民主派委員は全人代常務委員会によって解任されている。その意味で起草委員会に残ったのは保守的で親中的な人物が多かった。 結果、イギリス統治下にあった香港側の意見が大きくは反映されない側面もあっただろうが、それにしてもイギリス統治下の香港政府が、よくもこのような内容の香港基本法を認めたものだと言わざるを得ない。あるいは気が付かないように北京側が巧妙に進めたのかもしれない。 まちがった解釈の横行 このような論理的分析をせずに、感覚的あるいは情緒的に「一国二制度は崩壊した」という類のコメントを発表したがる論者が多く、メディアも「まちがった感覚を持っている視聴者や読者に受ける報道」しかしないので、日本国民の多くはそういった言い回しに感覚がマヒして、「中国が一国二制度を崩壊させた」と信じ込む人が多くなっている。 そのような論拠で中国を攻撃しても、中国としては「どこに一国二制度が無くなっているんですか?」と反論してきて「中国大陸は社会主義制度を実施しているし、香港は資本主義制度を実施していますが・・・」とせせら笑うだけだろう。 つまり、そのような論理では中国に勝てないのである。 ===== ましてや「習近平が四面楚歌になってきたので破れかぶれになり、弱体化している証拠だ」とか「習近平が李克強と権力闘争を展開している」といった主張は、日本国民を喜ばせはしても、日本国民に不幸をもたらすことにしか貢献しない。 メディアは日本国民が喜ぶことを報道し、「無難な感覚」の「専門家のコメント」でお茶を濁している。本気で日本国民の将来的幸せや尊厳などを考えるメディアは滅多になく、ジャーナリズムというより、「ビジネス」と言った方がいいのではないかという方向に傾きつつある。 中国の真の戦略や真相を語らなければ、必ずいずれは日本国民に損害をもたらす。 たとえば1992年2月に中国は海洋法(領海および接続水域に関する法律)を制定して尖閣諸島を中国の領土領海と定めたが、日本政府は反対もせずに、江沢民(当時中共中央総書記)の訪日(同年4月)にうつつを抜かし、その年の10月には天皇陛下の訪中を実現させている。 その結果、中国に劇的な経済繁栄をもたらし、2010年に中国のGDPは日本を抜いて世界第二位の経済大国に成長させることに日本は手を貸したのである。 1989年6月4日の天安門事件で崩壊しかけた中国共産党の一党支配体制を維持させてあげたのも日本だ。 真相を見抜かないことが、どれほど恐ろしいことをもたらすかは自明だろう。 怖いのは人々の心 さらに怖いのは、その経済成長して強国となってしまった中国に「気を遣う」という日本人の心理だ。 香港国安法が実施されたことによって、少なからぬ日本人が「中国を非難する際の程度をやわらげ」、「中国に気を遣っている」のではないだろうか。 「ここまで言ったら、ひょっとしたら逮捕されるのではないか」と、香港や中国大陸など中華人民共和国の主権が及ぶ地区に行く際の心配をして自己規制を行っているのではないかと思うのである。 実は、これほど怖いことはなく、これは即ち、中国とわずかでも関係する世界中の人々が「中国に気を遣って自己規制をする」ことによって、実は「意識形態において中国の管轄下に置かれている」ことを意味する。 自分の思考が、無意識のうちに中国政府のコントロール下に置かれていることに気が付いている人は多くないかもしれない。しかし、そうとは意識してない間に、いつの間にか中国政府にコントロールされているのと同じ心理になっていく。 中国は香港国安法を通して、「意識形態」において、世界を支配することに成功しつつあるのだ。 毛沢東が天安門に掲げさせた、世界を赤化するためのスローガン「世界人民大団結万歳」を、習近平はある意味、香港国安法で遂げつつある。 そのことに気づかず、安倍政権は今もなお、その習近平国家主席を国賓として来日させる「希望」を放棄していない。それがどれほど恐ろしい日本の未来を形成し、日本国民に損害をもたらすかに気が付かないでいる政治家には厳しい警鐘を鳴らしたい。 ※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。 [執筆者]遠藤 誉 中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士 1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(実業之日本社、8月初旬出版)、『激突!遠藤vs田原 日中と習近平国賓』、『米中貿易戦争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』,『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『卡子(チャーズ) 中国建国の残火』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。 ≪この筆者の記事一覧はこちら≫