オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、このままでは「①人口減少によって年金と医療は崩壊する」「②100万社単位の中小企業が破綻する」という危機意識から、新刊『日本企業の勝算』で日本企業が抱える「問題の本質」を徹底的に分析し、企業規模の拡大、特に中堅企業の育成を提言している。今回は、「最低賃金を引き上げると、韓国のように経済がボロボロになってしまう」という主張のどこがおかしいかを解説してもらう。 「最低賃金引き上げで韓国は大混乱」は正しいか 私はこれまでずっと、日本は最低賃金を継続的に引き上げるべきだと主張してきました。残念ながら今年は据え置きが決まりましたが、来年以降はぜひ、引き上げるべきだと考えています。 私がこう主張すると、反対派が必ずと言っていいほど言及することが2点あります。 1つは「海外では最低賃金の引き上げによる雇用への影響に関して、まだ研究者の間でもコンセンサスがない」ということです。この主張が間違えているのは、エビデンスではなくエピソードに基づいているからだということは、前回の記事(最低賃金「引上げ反対派」が知らない世界の常識)で詳しく説明しました。 もう1つが、「韓国では最低賃金の引き上げで失業者が増え、経済がボロボロになった」という反論です。「最低賃金を引き上げたらどうなるかは、韓国を見ればわかる」「最低賃金の引き上げによって、韓国は大不況になった」などと言われます。これもまたエピソードベースの話ではありますが、今回はこの件について検証していきます。 日本で失敗事例としてやり玉に挙げられるのは、2018年と2019年の最低賃金の引き上げです。まず2018年に16.4%引き上げられ、翌年も10.9%引き上げられました。日本に当てはめると、2019年の最低賃金901円(全国加重平均)が、わずか2年で1163円になるほどの引き上げです。 これほど引き上げられても悪影響はなかった デービッド・アトキンソン氏は、日本でよく聞く「最低賃金の引き上げで、韓国は大混乱に陥った」という主張は、単なる「俗説」にすぎないと語る(撮影:尾形文繁) 韓国では1986年に最低賃金法が成立し、1988年から実際に制度として導入されました。特に2018年の引き上げは史上3位の引き上げ幅で、韓国でも大変な騒動になりました。2019年には反対運動が起きて、大統領が謝罪をしました。 先述したように日本では、韓国の2018年の最低賃金の引き上げは大変な失敗で、倒産が増え、失業者が続出し、経済はボロボロになったと言われています。実際はどうだったのでしょうか。 まず、経済成長率です。世界銀行によると、引き上げ幅が最も大きかった2018年の韓国の実質経済成長率は2.7%でした。2013年から2018年の平均2.95%よりは低かったのですが、それでも2.7%は成長していました。 ちなみに、日本の2018年の成長率は1.1%で、2013年から2018年の平均成長率はわずか1.25%でした。 また、IMFのデータによると、2019年の韓国のGDP成長率は世界118位の2.0%でした。一方、日本は159位の0.7%でした。 韓国経済の成長率は特別に悪化したわけではなく、大不況になったという事実もありません。2018年も2019年も、韓国経済は世界経済の動きと大差なく動いていたのです。日本よりかなり成長率が高かったのは言うまでもありません。 従来の経済成長トレンドには変化がなかったことを考えると、韓国の経済が最低賃金の引き上げによってボロボロになったというエビデンスは存在しないと断言していいでしょう。 「韓国は大失敗」という俗説が生まれた理由 もちろん、経済成長率はさまざまな要素が絡んで決まりますので、最低賃金引き上げの影響は、経済成長率よりも「失業率」で判断するべきです。 では、これらの期間の失業率はどうだったのでしょうか。 たしかに、引き上げ直後、2018年の第1四半期の失業率は、2017年の第4四半期の3.3%から4.1%まで大きく上昇しました。特に15~24歳の失業率は、9.1%から11.7%まで上がり、大問題となりました。 2019年第1四半期の失業率も、2018年の第4四半期に比べて全体の失業率が3.5%から4.2%まで、15~24歳の失業率が9.1%から11.7%まで上昇しました。 さらに、2019年の場合、第2四半期にも失業率が上がりました。全体の失業率は4.3%まで、若年層の失業率は12.2%まで上昇し、大きな懸念が生まれました。 日本では、2018年に最低賃金が引き上げられて失業率が上昇したことと、その後2019年にも最低賃金が引き上げられ、第1四半期、第2四半期と続けて失業率が悪化したことが報道されました。ここから、韓国経済はダメになったというストーリーが生まれたのでしょう。 ===== このデータポイントだけを見れば、そのストーリーは成立します。しかし、このデータポイントだけを見て、「韓国はダメになった」と決めつけてはいけません。もっと長いデータを見て、その動きを検証するべきです。 長期データで「最低賃金引き上げ後の失業率」を見る 実は、2018年も2019年も、最低賃金を引き上げた年初めは失業率が大きく上昇しましたが、その後年末にかけて、失業率は大きく低下しているのです。 もっと長いデータで見ると、韓国では毎年、第1四半期の失業率が跳ね上がり、年末に向けて落ち着く傾向が確認できます。 2018年に最低賃金を引き上げたときは、失業率の上昇が注目されて、大きな悪影響を与えているように報道されました。しかし韓国経済の統計を見ると、第1四半期に失業率が大きく跳ね上がるのは毎年のことで、別に珍しい現象ではないことがわかります。 毎年跳ね上がる「第1四半期」だけを比べてみると...... 失業率が毎年第1四半期に跳ね上がるのであれば、2018年と2019年の第1四半期の数値は、それ以前の年の第1四半期と比較するべきです。最低賃金の大幅な引き上げによって、普通以上に失業率が跳ね上がったのかどうかを探るべきなのです。 2018年と2019年の第1四半期には、全体の失業率はそれぞれ4.1%と4.2%でした。2000年からの平均が4.2%ですので、失業率の上昇は「例年並み」と言えます。15~24歳の失業率の失業率は2018年も2019年も11.7%でした。2000年からの平均値は11.4%ですので、多少高いだけです。 最低賃金引き上げの影響はすぐになくなった 次に、2019年には最低賃金による混乱が第2四半期まで続きましたが、その影響はどこまで継続したのでしょうか。 それを探るには、第4四半期のデータを見るべきです。2018年と2019年の第4四半期には、全年齢の失業率はそれぞれ3.5%と3.2%です。平均は3.5%ですので、平均以下です。15~24歳でも、それぞれ9.1%と8.5%で、平均の9.2%を下回っています。 ===== 日本のマスコミの多くは、最低賃金引き上げ後の騒動は取り上げましたが、すぐに落ち着いた事実はほとんど報道しませんでした。 これでは、冒頭でご紹介したように「最低賃金の引き上げで韓国経済はボロボロになった」という認識を持っている人がいても、ある意味仕方がないとは思います。ですが、その認識を根拠に何か意見をする場合には、一度落ち着いて、失業率のデータを探すくらいの慎重さがあってもいいのではないでしょうか。 客観的に見れば、2018年と2019年の最低賃金の引き上げは、韓国の失業率には大きな影響を与えているとは言えないのです。 この記事では、倒産の統計はあえて紹介しません。それは、倒産が増えても、失業率が上がらなかったら、その統計は重要ではないと考えているからです。 日本では、倒産イコール失業率の上昇と捉えている人が多いですが、それは誤解です。統計上、日本の経営者が強調するほど、倒産と失業率の間には相関関係も因果関係もないのです。 私は、韓国の産業構造は日本以上に弱いと考えています。しかしデータを分析すると、最低賃金で働いている人の賃金は、この2年間の引き上げで表面的に30%も増えたことがわかります。しかもこの間、失業者は増えていないのです。 2019年、韓国は労働生産性で日本を抜いた では、労働生産性はどうなったでしょうか。世界銀行によると、韓国の購買力調整済み労働生産性は1991年の51位から、2019年には31位まで上がりました。この年の日本の順位は34位で、初めて韓国に抜かされました。GDPを人口で割った生産性でも、IMFの2020年予想では、韓国は日本の99.2%まで上がり、2021年か2022年には日本を抜いていく勢いです。 乱高下はあったものの失業率が高まっているわけではないこと、2019年に韓国の労働生産性が世界で31位まで上がって、初めて日本を抜いたことを考えると、韓国の最低賃金の引き上げが失敗だったという理屈は成立しづらいと思います。長い目で見れば、成功したという評価になるかもしれません。 なお日本では最低賃金の議論に絡めて、韓国の若年層の失業率の高さがよく取り上げられます。Korea Labor Instituteによると、求職中の若年層の約8割は大卒ですが、韓国企業の求人のうち大卒を求めているのは全体の3割だそうです。これは小規模事業者が日本以上に多く、日本以上に産業構造が弱体化していることを反映していると解釈しています。 韓国の最低賃金引き上げは「失敗」ではない 結論として、最低賃金で働いている人の給料は30%も上がりましたが、最低賃金の引き上げの影響は長引くことなく、長期トレンドに戻っているのです。 たしかに数カ月間の騒動はありましたが、結局、韓国で行われた最低賃金引き上げの影響は、日本で大げさに言われているほどのものではなかったのです。 各国で行われた1451もの研究を総括すると、最低賃金引き上げは雇用全体には悪影響を与えないということは、前回説明しました(参照:最低賃金「引上げ反対派」が知らない世界の常識)。そもそも韓国というたった1つの国のエピソードだけで、この結論を否定することはできません。 さらに韓国の例でも、時間が経ってデータがそろってきた段階で検証してみると、最低賃金の引き上げは雇用全体には影響を与えないというコンセンサスどおりだったと言っていいと思います。 とはいえ、私は別に、日本でも韓国のように大幅に最低賃金を引き上げるべきだと提唱しているわけではありません。日本は、イギリスのように継続的に、毎年3%から5%ずつ引き上げるべきだという従来からの主張に変わりはありません。 『日本企業の勝算』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら) ※当記事は「東洋経済オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら