<「収容所」で少数民族の大量拘束が続く新疆ウイグル自治区。中国の情報機関は現地の親族を人質に取って、日本のウイグル人たちに「スパイになれ」とささやいている> 今から5年前、トルコ・イスタンブールにあるビジネスホテルの一室で筆者は1人のウイグル人と対面していた。 30代の小柄で温厚そうな男性、カーディルは日本語を流ちょうに操る。故郷の中国・新疆ウイグル自治区で日本人相手の観光ガイド時代に覚えたという。中国からトルコに亡命するまでの波乱万丈の人生についてひとしきり語ると、彼は意を決したように自分の携帯電話を見せてきた。そこに残された一通の中国語のショートメッセージには、ある日本人の名前があった。日本のウイグル問題専門家である水谷尚子(現・明治大学准教)だ。 「この人との会話をすべて記録し、報告せよと上から指示されていた」。 彼は日本をターゲットにした中国政府のスパイだったというのだ。 新疆ウイグル自治区最大の都市ウルムチで観光ガイドとして働いていたカーディルは、以前から中国政府の民族政策に不満をもっていた。それゆえ彼は定期的に欧州の亡命ウイグル人組織にネット経由で情報を送っていたという。「情報といっても新聞記事とか周りの噂とか、そういったものをネットカフェからメールで海外に送っていただけだ」と、カーディルは言う。 しかし2001年4月、こうした活動が理由で彼は警察に逮捕されてしまう。裁判もないまま40日ほど拘束され、精神的にもボロボロとなったある日のこと。中国の情報機関である国家安全局の人間が留置場に現れ、取引を持ちかけてきた。 「あなたはまだ若く、日本語も達者だ。祖国のために働くことができる」。釈放してもらいたければ、スパイになれということだ。最初の要求は新疆の民族問題に関心を寄せる日本人観光客についての報告だった。要求された内容をメモ書きにして送ると次の指令が来た。「知り合いの日本の大学のウイグル研究者を調べろと言われた」。彼が見せてくれた携帯電話のショートメッセージはそのときの指示だった。 カーディルは08年までの7年間にこうした指示を国家安全局の担当者から50回ほど受けたという。やがて担当者は「東京に出張し、日本のウイグル人社会を内偵しろ」と言い出した。次第にエスカレートする要求に嫌気がさし、彼は東京出張の前に東南アジア経由でトルコに亡命した。 日本をターゲットにしたスパイ活動は今も継続しているとカーディルは言う。「すでに日本に情報提供者が何人もいたようだった」 今年2月、国際的人権団体アムネスティ・インターナショナルが、世界22カ国に住むウイグル人など新疆出身の少数民族400人を調査したところ、多くが中国当局からの嫌がらせや圧力を受け、その中の26人は情報提供者になるよう打診を受けた、と答えた。 日本も例外ではない。 日本にはおよそ2000人のウイグル人が住んでいるといわれる。80年代のシルクロードブームによって日本と新疆の接触が増え、多くのウイグル人の若者が日本に留学。卒業後、定住するようになったのだ。 しかし18年、中国政府が本格的にテロ対策を名目に100万人ともいわれるウイグル人を大量拘束し収容施設に送り込み始めると、日本のウイグル社会は大きく動揺した。拘束される理由の1つが、家族に国外在住者がいること。在日ウイグル人の中で家族や知人が拘束されたことのない人はほとんどいない。 そうした状況の中、これまでタブーだった中国政府に対する抗議活動に参加するウイグル人も急増している。そして今、彼らを狙ったスパイ勧誘活動が活発化しているのだ。 ===== パスポート更新をエサにスパイ勧誘 流出した「カラカシュ・リスト」。ウイグル人の個人情報が詳細に書かれている Newsweek Japan 東京都内に住むアフメット・レテプの父親と弟を含む親類12人は17年、中国側が職業訓練センターと呼ぶ収容所に送られた。これをきっかけに、アフメットはウイグル人の人権擁護を求める日本ウイグル協会の副会長として活動している。そんな彼のスマートフォンに18年3月、突然新疆から動画が送られてきた。映っていたのは収容所にいるはずの父親だった。 「私はいま役場で勉強をしている」。伸ばしていたあごひげがそられ、目に光のない父親は息子に語り掛けてきた。「お前が積極的に中国の利益を最優先して協力すれば、私も安心できる」。 さらに故郷の町の国家安全局を名乗る男から音声メッセージも送られてきた。「日本のウイグル人組織について情報を送れ。そうすれば家族の問題は解決される」。 アフメットは涙を溜めながらこう言った。「父親はこの動画の撮影を強要されたと思う。 家族を人質に取るなんて。まるでテロリストだ」。 在日ウイグル人にとって、故郷に残る家族と並ぶもう1つの弱みがパスポートの更新だ。 彼らの9割は依然として中国のパスポートを持つが、遅かれ早かれ有効期限が切れる。本 来なら中国の在外公館で1週間ぐらいで更新できるが、大量拘束と収容が本格化した3年前からウイグル人に対して更新を拒否し、中国で申請するよう伝えるケースが多発している。一度帰国すれば、彼らが日本に戻って来られる保証はない。 アフメットと同じく日本ウイグル協会の幹事を務めているハリマット・ローズのもとにも今年5月、しばらく連絡を取っていなかった故郷の兄からビデオ通話がかかってきた。落ち着かない兄の様子にハリマットは異変を感じ、もう1台の携帯電話で会話を録画した。 その映像を見ると、画面に突然青いナイキのTシャツを着た男が現れる。兄の説明では男は地元の国家安全局から来たといい、しきりに「あなたの友達になりたい」「祖国に貢献してほしい」と、機嫌を取るような発言を繰り返す。 しかし男の隣に座った兄は冷たくこう言い放った。「国家安全局が東京の大使館に手を回した。お前と家族のパスポートの更新は止められている」。 ハリマットは日本国籍の取得を検討していたが、それを知る兄は追い打ちをかけるようにこう言った。「日本国籍を取りたくても、彼らの手助けがないと書類が手に入らないぞ」。 帰化申請に必要な出生や婚姻証明などの書類の新疆の役所での発行も差し止める、と言っているのだ。 ハリマットはこう懸念する。「いま日本にいるウイグル人の悩みはパスポートの更新と日本への帰化。これをエサにスパイに勧誘すれば、応じてしまう人が出てくるかもしれない」。 スパイを強要された2人の話を聞くと、2つの共通点があることがわかる。1つはどちらも接触してきた国家公安局の所属は、日本にある中国の在外公館や北京ではなく、彼らの出身地である新疆の町だったことだ。 これを説明できる資料が去年末に中国内部から流出している。文書を精査したドイツの研究者エイドリアン・ゼンツが名付けた「カラカシュ・リスト」だ。 「カラカシュ・リスト」は新疆ウイグル自治区ホータン地区にあるカラカシュ県(墨玉県)の一部地区に住むウイグル人の名前がリストアップされ、個人情報が付け加えられたものだ。 親族に海外在住者がいるか、あるいは現在施設に収容されている人物がいるかが一目でわかる。 流出したものは一部だが、仮に全体が新疆全土のウイグル人を網羅しているなら、国家安全局員は自分の管轄区域内に住んでいる世帯の中から、海外に住む家族がいる者を容易に見つけ出すことができる。あとはその家を訪問し、家族と一緒に海外にSNSで連絡を取れば、スパイ勧誘ができる。 ===== 中国最大のSNSをスパイ勧誘に利用 もう1つはメッセージのやり取りに、中国最大のSNSアプリWeChatが使われていたことだ。中国で15 年に制定された反テロ法は、当局のテロ対策や調査への協力として、プロバイダー事業者などに通信に施す暗号の提供などを義務付けている。ハリマットはWeChat経由で自分の個人情報が国家安全局にわたっていると確信している。「以前日本でデモをした直後に、何も知らないはずの新疆の家族が『こっちの迷惑も考えろ』と怒って連絡してきたことがあった」。 ハリマットは自分のWeChatのアカウントとアプリを削除したが、万が一の新疆との連絡のために、妻のアカウントは残しておいた。すると異変が起きた。国家公安局の男とのWeChatでの対話の映像を複数の日本のテレビ局に提供し、それが放映された直後、これまでかろうじて連絡を取り合ってきた妻の妹や友人たちが突然、妻のアカウントをブロックし始めたのだ。「国家安全局は着信履歴から妻の人間関係を割り出して情報収集のために接触したんだろう。だからみんな怖くなったんだ」と、ハリマットは言う。 今月6日、トランプ米大統領はWeChatがアメリカ人の個人情報を中国に渡し、安全保障上の脅威になるとの理由で、運営会社の騰訊(テンセント)との取引を禁止する大統領令に署名した。そして実際にWeChatは中国政府が国外のウイグル人の情報を収集し監視するのに、極めて効果的に利用されている。 日本ウイグル協会副会長のアフメットは、中国政府のスパイ勧誘の狙いは情報収集だけではないと考えている。「重要なのはスパイが日本にもいるということを教えること。そうすれば身近な人間に対し疑心暗鬼になる。ウイグル人社会を相互不信で分断し、政治活動に参加させないようにしたいんだろう」。 「日本政府は在日ウイグル人を保護する手立てを考えてほしい」と、同協会のハリマットは訴える。「このままでは日本国内に何百人もパスポートを持たないウイグル人が出てきてしまう。日本国籍取得の条件で、新疆から書類を取り寄せなくてもよいような特例をウイグル人に適用してくれないだろうか」。 英ガーディアン紙によれば、現在イギリスでは中国から逃れようとするウイグル人に自動的に難民認定をするよう超党派の議員が建議している。しかし、これまでのところ日本にそうした動きは見えない。 冒頭で紹介した日本語が流ちょうな元スパイ、カーディルは当初、東京出張中に日本に亡命することを考えた。しかし日本政府がほとんど政治難民を受け付けないことを知り、紆余曲折の末、亡命先にトルコを選んだ。しかし、ここ数年国際的孤立を深めるトルコの中国への急接近に不安を感じ、一昨年船でエーゲ海を渡り、ギリシャに逃げた。 ギリシャ当局はこれまでの経緯を聞き取ると、すぐに難民パスポートを発給してくれたという。カーディルは現在、アテネに住む。久しぶりに国際電話で話した彼の声は明るかった。 「そのうち日本に行きますよ。でもスパイとしてではなく、観光にね」 (筆者は匿名のジャーナリスト) ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年8月11日/18日号(8月4日発売)は「人生を変えた55冊」特集。「自粛」の夏休みは読書のチャンス。SFから古典、ビジネス書まで、11人が価値観を揺さぶられた5冊を紹介する。加藤シゲアキ/劉慈欣/ROLAND/エディー・ジョーンズ/壇蜜/ウスビ・サコ/中満泉ほか