<終戦の日、日本国内には130カ所の連合軍捕虜収容所があり、岩手県釜石市に746人の捕虜がいた。彼らが引き揚げるまでの1カ月間についてつづられたノンフィクション「降伏の時」(筆者:中山喜代平〔本名:稲木誠〕)を4回に分けて公開する。今回はその最終章。捕虜引き揚げのあの日、釜石捕虜収容所で何があったのか。そして舞台は稲木の戦後へと続く――> ※ここまでの話(戦後75周年企画:連合軍捕虜の引き揚げの記録を初公開 ~あの日、何があったのか【Part 1】【Part 2】【Part 3】)はこちら 軍刀没収 13日午後、米軍の先遣隊だという中尉以下3人がジープでやって来て、兵士たちを内庭に集め、引き揚げ船は2、3日中に来るから無断で脱出しないで待つようにと告げた。 中尉は事務室に入ってきて腰掛けると、帰国の土産に盆栽が欲しいという。こんなに焼け野原になってしまったところに盆栽などあるだろうかと思ったが、電話で製鉄所の労務課長に相談すると、間もなくケヤキの盆栽を届けてくれた。 ヴーナスと名乗る中尉は私の軍刀をくれないかと言った。私は、個人の所有している軍刀は没収されないと指示を受けていると、丁寧に断った。すると今度は私の襟につけている階級章をくれと言った。階級章は他の人ももらっているという。軍隊が解隊された今は大した意味もなくなった物なので、自分の手で階級章を取ってその男に渡した。 この中尉は、戦後初めて会った敵の将校だった。連合軍の力を嵩に、平気な顔であれこれ物をくれという気味の悪い奴だが、相手は勝利者だ。そつがないように応待していると間もなく帰って行った。 14日になると仙台俘虜収容所から辻通訳官が応援に来て、引き揚げは明日らしいと知らせた。中央では嶋田繁太郎海軍大将が米軍に逮捕され、杉山元元帥をはじめ多くの将校が自決したという情報を伝えた。軍刀は私有の物も没収されるらしいという。 実は10日ほど前に妹が会いに来て、私の軍刀を持って帰るというのを、私は大丈夫だからと断っていた。妹は宇都宮の大空襲で家を焼かれ親戚の家にいたが、釜石の艦砲射撃で収容所が焼失したことを聞いて以来、私が死んだのか生きているのか分からなくなり、戦争が終わったので確かめに来た。軍刀は物に包んだところでそれと分かるから、女性が持ち歩けば軍刀を狙う者に襲われる恐れもあるので断り、ゆっくり話す暇もなく妹を帰したのだった。 昼食が終わってしばらくした頃、1人の兵士が事務室に来て私の机の前で何か話し掛けるので聞き返すと、 「ブラックストン中尉があなたの軍刀の引き渡しを求めています」 と言う。私は私有の軍刀は没収されないと指示を受けていると断った。彼は帰って行ったが再び現れて言った。 「ブラックストン中尉は軍刀を没収すると命じています」 「よろしい。それでは領収証と引き換えに渡すことにしましょう」 敗残の将校は先方の要求を拒むことは出来なかった。私の軍刀は長船の銘のある直刀だった。父がこういうものが好きで10本ばかり集めていたが、その中から選んで軍刀にしつらえた業物だった。 敗戦となって米軍将校がピストルを腰にして、身軽に行動しているのを見ると、長い軍刀をぶら下げていた日本の将校は間抜けに感じられた。近代戦は大砲、戦車、航空機が決定的役割を果たした。軍刀は日本軍の装備の時代錯誤を象徴していた。 兵士が受領証の紙片を手にして来ると、私は帯革から軍刀をはずして兵士に渡した。 <こんなものを腰にぶら下げていたから負けたのだ!> 私は強いて自分を納得させようとしたが、ブラックストンにしてやられた思いが残った。2、3カ月前に彼を処罰したことに仕返しされたと思った。 ===== ――1945年6月24日、収容所の買い出しトラックに同乗して外に出たブラックストンは、市内の中妻付近で一時停止した時に、職員の目を盗んで、近くで遊ぶ幼児に10円紙幣を与えた。サラリーマンの月給が70~80円程度だったから幼児に10円は大金だ。母親が警察に届け出て、収容所に知らされた。 俘虜は一般人との接触を禁止されていた。ブラックストンの意図は何であれ、禁を侵し、俘虜を優遇しているとの印象を世間に与え、俘虜管理に支障を及ぼす行為をした。 私は俘虜全員の前で処罰の理由を述べ、ブラックストン中尉に重謹慎十日を申し渡した。自分の室で反省していろという罰だから痛痒を感じないこととはいえ、将校が罰せられたのは釜石収容所では初めてであった――。 ブラックストンはあのことを覚えていたに違いない。大英博物館に戦利品として飾りたいのかもしれないが、彼の執念がいつまでも私にまとわりついているように感じた。 夕暮れ時に私に会いたいという日本の兵隊が門のところにいると告げられて、復員した友人でも会いに来たのかと出て見ると見知らぬ上等兵が立っていた。その男は、私に用事のある将校が埠頭で待っているという。 いわくありげな様子なので兵士について行くと、将校が独り埠頭に立っていた。少佐の階級章をつけているので敬礼すると、「やあー」と若い声で答礼した。案内の兵士は立ち去った。少佐は近寄って、声をひそめて語った。 「実は、絶対秘密ですが、われわれはアメリカ軍の上陸に対して釜石市民を護るため、弘前師団から派遣されてきました。私は師団参謀です。完全軍装の一ケ中隊を連れて来ました。向こうに隠して待機させてあります。ついては市民をどのようにして護るか、相談したいと思います」 青森県の八戸に上陸したアメリカ兵が日本人2人を射殺したという噂が流れていた。仙台ではアメリカ兵に石を投げた子どもがジープで殺されたという話もあった。戦場で殺し合いをしてきたアメリカ兵が釜石に上陸してきたら、何をしだすか分からない。市民を護るために一ケ中隊連れてやって来たが、どのように対処したら良いか相談したいというのだ。 「アメリカ軍との折衝には私が当たることにしています。略奪などあれば、私を通じて先方へ申し入れることに警察と打ち合わせてあります。あなた方は山に隠れて町の様子を偵察していて、どうしても武力阻止が必要だという事態になった場合に出動することにしてはどうでしょう」 小銃と実弾を持った日本兵と、修羅場をくぐって来たアメリカ兵が顔を合わせれば戦闘が始まるだろう。この参謀は師団から派遣されたというが、彼はむしろ自ら死に場所を求めてここにやって来たのではなかろうか。衝突は絶対に避けなければならない。 「それでは山に隠れて様子を見ています。折衝をよろしく頼みます」。少佐は同意した。師団参謀といえば少尉中尉など眼中になく威張っていたものだが、この若い参謀は私の意見に耳を傾けて、丁寧に敬礼して帰った。 夕食後、私は近くの松原町へ1時間ほど外出した。明日は敵の上陸だ。自分の身の上もどうなるか分からないので、艦砲射撃で下宿が焼かれるまで世話になっていた主人の川畑さんに会って礼を述べたく出掛けた。 家を焼失した川畑さんは、山陰の小さな家を借りていた。昔からこの地区の世話役をしてきた川畑さんは、製鉄所で働く近所の人達は家を焼かれた上、休業状態になって生活の目途がつかないという。これまで混乱の中で収容所にカンヅメ状態で暮らしていた私は、柔和な川畑さんが暗い電灯の下でポツリポツリ話すのを聞き、再起も難しい町の実情を知らされた。 その夜、寝床に入ってから明日の折衝を考え、最悪の場合は敵に捕らえられ、網でしばられて海中に投げ入れられることも覚悟しなければなるまいと思った。 ===== 九月十五日 9月15日。私は人の声に目を覚ました。アメリカの軍艦が入港しているという。急いで外に出ると、夜明け前のしじまの中に巡洋艦と見られる一隻が、目の前の釜石湾中央に停泊していた。 待ちに待った引き揚げ艦だ。 私はグレイディ大尉とともに埠頭へと急いだ。東の海の彼方に旗雲がたな引き、未だ現れない太陽が水平線の下から金色の光でそれを射ていた。私はこの眺めを長いあいだ忘れないだろうと思った。 中央埠頭に、動く5、6人の人影があった。グレイディ大尉がそこへ急ぎ足で近付き、金モールの帽子の男に丁寧に敬礼した。私も続いて敬礼した。 「彼はコモド―(提督)だ!」 グレイディが目を大きくして私に教えた。彼らは船着場を調べているのだった。更に北の方へ歩いて行って、水深が6、7メートルあるのを確かめると、提督は1000メートルの彼方に停泊している艦に向かって両手を挙げて信号を送った。 見ていると、一隻の舟艇が白波を蹴立てて走って来て、提督の目の前に着岸した。艇の前部が前倒しに開き、それが渡し板になって陸地につながった。私は上陸演習などで多くの舟艇を見てきたが、これほど機能的な舟艇は初めてだった。 舟艇の内から小型車が走り出て来て、提督の前に止まった。提督は運転席に乗り込むと、今度は私に向かって助手席に乗れと言った。そして収容所まで案内しろと命じた。 不安と緊張でその光景を見守っていた私は、提督の呼び掛けに応じてその隣に腰掛け、生まれて初めての米軍ジープの強い駆動力を身体に感じつつ、「サー」の敬語をつけながら右へ左へと進路を告げた。 警備隊兵舎まではすぐだった。提督は車で内庭まで乗り込んだ。元俘虜たちは歓声をあげて車を取り囲んだ。 提督は従卒からメガホンを受け取ると、それを手にして乗艦の手順を説明した。最初に大橋の人たちを乗せ、次に釜石という順序だから、しばらく待機してくれと言った。そのメガホンはバッテリーで音声を増幅するもので、これも初めて見る文明の利器だった。 従卒は提督から何か命じられるたびに「アイ・アイ・サー」と答えた。皆の前で調子よくそれを繰り返すのが、いかにも得意そうな様子だった。提督は指示を終えると、私の敬礼を受けて車を運転し帰って行った。 製鉄所の鈴木労務課長が訪ねて来て、お別れのご挨拶をしたいから先任将校に取り継いでもらいたいと言った。ちょうど内庭にいたグレイディ大尉のところへ連れて行くと、鈴木課長は丁寧な面持ちで言った。 「本日は帰国おめでとうございます。どうぞお身体をご大切に。皆様のご多幸をお祈りします」 その言葉を私が通訳すると、グレイディ大尉は答えた。 「ありがとう。私は製鉄所の内で事故がなかったことを喜んでいます」 私の通訳で、この言葉を聞き取ると鈴木課長は神妙な面持ちで深く頭を下げた。 事故が全くなかったとは言えない。関係者は連絡を取って事故防止に努めたが、敵の攻撃はわれわれの身辺にまで迫り、連合軍優勢を知る俘虜の中には挑戦的態度にでる者もいて、警戒員との衝突もたまにはあったのだ。彼らが勝利者となった今は、彼らを俘虜として働かせた当事者として、それが最大の心配事だった。 それを、事故がなくて良かったと言ってくれたのだから鈴木課長は救われたように喜んだ。私もグレイディの挨拶に心温まる思いだった。 ===== こちらの出発には時間があるので、私は埠頭に様子を見に行った。 沿岸にアメリカの戦闘服姿の下士官2人が立ち、それを取り囲むようにして20~30人の日本人が見ていた。女、子どもは山や近郊へ逃げたが、男たちはもの珍しさから集まって来たのだ。 大男の下士官は、カーキ服の大きなポケットから何かを手一杯に取り出して群衆の足元へ撒いた。光る色紙に包んだ甘味品らしかった。 <投げ与える物を拾ってはならない。戦争に負けても日本人には誇りがあるのだ> 私は低い声で皆に言った。 「拾うなよ!」 ねずみが餌をつつくように1人が小腰をかがめて拾うと、2、3人が真似た。アメリカの下士官は無表情のまま、再びポケットから取り出したものをバラバラッと撒いた。今度は誰も彼も手を出して拾った。バラバラッと撒かれるたびに群衆は我れ先にと拾った。 私の制止に耳を貸す人はいなかった。甘いものに飢えた男たちは争って拾った。人々に無視された私は唇を噛んで、その場の情景を見ているだけだった。 周囲が賑やかになって来た。アメリカのカメラマンが、グレイディ大尉と私を並ばせて何か打ち合わせをしているポーズをさせてシャッターを切った。 先方の連絡将校だという人が現れたので話をすると、驚いたことに、きれいな日本語を話した。文化人に海軍士官の制服を着せた感じの大尉だった。アメリカの大学で日本語を習ったのだという。 「あなたの日本語はとても上手です」 と誉めると、 「あなたの英語はとても上手です。どこで習ったのですか」 と言った。私は広島の学校で英語を学び、アメリカ人やイギリス人に習ったことを話した。この大尉は温厚な人物だから、今日はこの人と連絡を保っていれば、事故が起きないで済みそうに思われた。 海岸に設けたテントの休息所にビールが置かれてあるのが先方に知られたらしく、金モール帽子の士官20人余りが上陸して、そこでビールを飲んだ。艦の副官だという大尉が、ビールを満たしたジョッキを私のところまで持ってきて、一杯やれと勧めた。 私は断った。それどころではない。私には無事に俘虜を引き渡す大仕事があるのだ。 小柄な警察署長が汗を拭きながらやって来て、近くの尾崎神社の社殿に飾ってあった弓矢などがアメリカ兵に奪われたから返すように交渉してくれと言った。 さっそく連絡将校に頼むと、大尉はMPを呼んで指示を与え、私にはしばらく待てと言った。1時間ほどすると、MPが弓矢を持って来て、私の目の前で警官に手渡した。彼らは奪うのも早いが返すのも早かった。 アメリカ兵が町内を歩き回っているのが心配だった。略奪、暴行など起きないように、山に隠れて町の様子をうかがっている一ケ中隊と出会わないようにと、ひそかに胸の中で願っていた。 身辺に強い視線を感じて見回すと、右手20メートルのところで、海兵2人が私をにらんでいるのに気付いた。野獣が餌物を脅す目つきだ。この海兵たちは戦場の修羅場の殺気を感じさせる。珍しい戦利品を奪い返したジャップをにらんでいるのだ。連絡将校がいなければ2人は私に襲いかかるだろう。私は2人に気付かぬ素振りで大尉と話していた。 大橋収容所の元捕虜たちの乗艦が始まった。輸送トラックから飛び降りて、バラバラと埠頭へ走り、横づけの小型舟艇に乗り込む彼らの姿が見えた。 湾の中央に停泊している艦まで1000メートルあまりあろうか。小型舟艇は白波を蹴立てて紺碧の海を走った。彼らの歓声が私の耳にも届いた。舟艇に立ってハンカチを風になびかせる者がいた。潮風にはためく白いハンカチは心躍る彼らの喜びを伝えていた。 大尉は私に話しかけた。 「あなた、私たちに手伝ってくれませんか。日本のことが分からなくて困っているのです。一緒に東京へ行って協力してくれませんか」 「残念ですが、私は復員して家へ帰るのです。戦争、艦砲射撃で疲れてしまいました。これ以上働けません。私には休息が必要です」 この大尉は良識の人のようだから協力しても良いが、結局は米軍体制の中の人だ。敵の手伝いは出来ない。私は丁寧に断った。 釜石収容所の引き揚げ時刻が近付いたので、私は警備隊兵舎に戻った。内庭に兵士たちが、あちこちに集まって整列の時を待っていた。 「あんたには世話になったな。財布を記念にあげよう」 喜びで有頂天の様子のオーストラリアの兵士が腰のポケットから財布を取り出して私に手渡そうとした。私は慌てて断った。 「いや、あなたの記念に持ち帰った方が良いですよ」 私は彼らの慣習を知らない。自分が育てられた清廉の美徳だけが頼りだ。かたくなな自尊心と敗戦の劣等感も、兵士の好意を受け取ることを拒ませた。 マーズデン中尉が近付いて来て、口にこもるイギリスの発音で話しかけた。今日は別れなので特に口ごもる感じだ。 「煙草や缶詰など兵舎に置いて行くけれど、みんな君にやるからね」 「ありがとう。ご多幸を祈ります」 時間が迫り、あたりに興奮の空気が渦巻いた。私は周囲の人たちに挨拶して回った。 ===== ついにその時が来た。 グレイディ大尉が特有の甲高い声で号令し、一同は整然と隊伍を組んだ。私と三河軍曹は見送りのため正門の傍に立った。力強い歩調で行進が始まると、土埃がもうもうと上った。その中をアメリカ、イギリス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの兵士が門を出て行った。 彼らは天にも上る心地らしく、私と三河軍曹の敬礼も目に入らない様子だった。インドネシア出身のシテンヘーハー中尉は目礼をして行った。 私は彼らを正門で見送ってから、埠頭へ行って見たが、既に岸壁に人影はなく、最後の舟艇が引き揚げ艦に向かって走って行くのが遠くに見えた。 みんな行ってしまった。私は独り、そこに立って彼方に停泊している艦を茫然と眺めていた。 <君たちの帰国の時は京都見物をさせてから、私が送って行こうと言ったこともあったが、われわれは戦に敗れ、彼らは戦勝国の勇士となって帰国の途についた。彼らの艦は目の先に浮かんでいる。だが彼らとの絆は永久に立たれたのだ> 私は事務室へ帰った。そこに置かれた白木の遺骨箱を受け取る人が間もなく来ることになっていた。 仲間は歓喜の中に帰ったというのに、事務室に残されて味方の引き取りを待っている遺骨箱はいかにも哀れだ。戦いで捕えられ敵国で息絶えるとは、これほど不幸なことはない。 午後4時頃、1人のアメリカ将校がジープを運転して門を入って来た。私が出迎えて敬礼すると、将校は右手を大きく振るようにして答礼した。 将校は事務室で白木の箱を数えた。私は乗艦した人員、盛岡陸軍病院の入院患者数、京浜地区への無断脱走者数などを記入した紙片を出して署名を求めると、将校は無造作にサイツ少佐と署名した。 少佐が遺骨箱をジープに積み始め、私と三河軍曹はそれを手伝った。少佐は運転席に着き、エンジンの音を立てて去った。私は丁寧に敬礼をして遺骨を見送った。 少佐は1人で来て、日本の軍隊なら2、3人でする仕事を済ませて行った。アメリカ軍の能率的な仕事ぶりだった。 火事と闇 すべて終わった。 アメリカ兵の上陸でどういうことになるだろうと、事務所を離れて様子を見ていた職員も帰って来た。酒好きの三河軍曹が今晩は皆で飲もうと言い出して、夕食が酒宴となった。警護のため日夜交代勤務した警官たちへも特別配給の酒を贈った。 警察署長から電話で、遊郭の女が1人、アメリカ兵にさらわれて行ったらしいと告げて来た。私はどのようにして米軍に連絡しようかと思っているうちに、また電話があって誤報だったと知らせて来た。 夜に入ってもアメリカ兵が歩き回っている様子だが、その後、警察からは何も言ってこないのでたいしたことはなくて済みそうだ。山に身をひそめていた一ケ中隊も無事に復員願えるだろう。 職員の顔にも安堵の喜びがあった。私は先方との応待に明け暮れていたが、職員も神経を使いながら忙しい日を送って来たのだ。 「今日は無事終わってよかったですね」 頬を赤くした鎌田軍属が酒をついだ。 「ご苦労さん。縄でしばられて、海にたたき込まれなくてよかったよ」 私は難しい仕事を成し遂げた満足感に浸っていた。何もかも終わったのだという思いが皆を深く酔わせた――。 「火事だ! 火事だ!」 叫びに酔いの眠りを破られた。ガラス窓の外に、赤い炎がメラメラと立ち上っている。西隅の建物が燃えている! 私は電話室へ飛んで行って消防署を呼んだ。警備隊の兵舎が火事だと言うと、先方も慌てて警備隊はどこですかという。 「矢の浦橋のたもとだ! 頼む!」 油断を突かれた口惜しさで、血が逆流する思いだが、何はともあれ火を消さねばならぬ。 みな慌てたが職員も警官も訓練された人たちなので、消火体制は直ぐ出来た。手押ポンプで井戸水を汲む人、バケツリレーで水を送る人、バケツの水を火に叩きつける人。 だが火勢は強まる一方で、この棟の火は到底消すことは出来ないと判断された。 「延焼を止めろ!」 東隣りの建物に火が移りかけ、軒端にチラチラと赤い炎が出るところへバケツの水が叩きつけられた。バケツリレーはそっちに向けられ炎は消し止められた。 火勢は押さえられた。だが木造建物だから飛び火を用心しなければならない。 私は周囲を見渡すため、梯子で屋根に上った。闇の中に飛び火は見えなかった。消防車が来て、放水を始めたので鎮火は確実となった。私は屋根の頂に腰を下ろした。 <火事の原因は? 彼らが出発して10時間以上経っている。火の気のないところだ> すぐ目の前に、光の塊のような引き揚げ艦があった。サーチライトが四方の闇を貫き、波が光を受けて銀の砂のように輝いていた。甲板に色とりどりの電球が張り巡らされ、賑やかな音楽と笑い声が風に乗って送られて来た。彼らは歓喜で夜通し眠らないのだろう。 <あの2人の海兵では? 彼らのあの憎悪の目> ===== 頭を左に向けると、闇の中に巨大な溶鉱炉の影が浮んでいた。戦争中は、灯火管制でも溶鉱炉だけはゴウゴウと夜空を焦がして燃えていた。中学生、女学生まで鉄増産のため必死に働いた。 艦砲射撃で息の根を止められた溶鉱炉は暗闇に立ち尽くしている。市街地も一面の闇だ。 <肉親を殺され家を焼かれた人の目に、今日の私の折衝はどのように映っただろう。不甲斐なさに腹を立てたことだろう――> 消防ポンプのエンジンが止められた。放水は終わった。 「所長! 所長!」 下の闇から職員が私を呼んだ。私はゆっくりと腰を上げ、海上のイルミネーションに背を向けて、手探りで梯子を下り始めた。 <消防の人たちに礼を言わなければならない。明日は製鉄所の中原所長に詫びなければならない。警察へも報告しなければ> すべて終わったと思ったのは間違いだった。私には絶えず何事かつきまとっていた。これからもまだ何かありそうだ。 私は火元責任者としての後悔と将来に対する漠然とした不安を胸に抱いて、闇の地上に降り立った。<了> ♢♢♢ 稲木誠は、私の実の祖父である。 「降伏の時」は1945年9月15日で終わっている。しかしこの日は、祖父にとって終戦の日とはならなかった。彼には、さらなる「闇」が待っていた。