<終戦の日、日本国内には130カ所の連合軍捕虜収容所があり、岩手県釜石市に746人の捕虜がいた。彼らが引き揚げるまでの1カ月間についてつづられたノンフィクション「降伏の時」(筆者:中山喜代平〔本名:稲木誠〕)を4回に分けて公開する。今回はその3回目、舞台は1945年9月3日から9月13日の釜石捕虜収容所だ。> ※ここまでの話(戦後75周年企画:連合軍捕虜の引き揚げの記録を初公開 ~あの日、何があったのか 【Part 1】【Part 2】)はこちら 9月3日の朝、私は寝床の中で彼らの点呼を聞いていた。 軍隊では起床ラッパで飛び起きた。収容所では軒端につるした鉄棒をカンカンと打つ音で起床した。だが今朝は点呼に出る必要はない。山の空気が流れる戸外で彼らがやっている点呼は、号令も報告も活気に満ちていた。 私はゆっくり起きて、入念に冷水摩擦をした。この地方は9月に入ると早くも秋の気配だ。釜石鉄山から下りて来る冷気は季節の変化を知らせていた。 釜石から警察署長と憲兵分隊長が来て、事務室でダックウェイラー米少佐、グレイディ米大尉に会い、今後の警護の打ち合わせをした。憲兵4、5人が門番として控え、必要に応じ警官の出入りも認めることになった。 ダックウェイラー米少佐は警察署長と憲兵分隊長にラッキーストライク、チェスターフィールドなど煙草をプレゼントした。その後、私は通訳兵を留守番に残して、鉱業所へと世話になる礼を述べに山道を上って行った。トラックが忙しく往来する道だが、鉱山が休業しているため人影もなく、緑に覆われた山や谷には野鳥がのどかにさえずっていた。 上手から1人の元俘虜が下りて来た。彼らは今日から自由に行動しているのだった。 双方が近付き、私が敬礼しようとすると、向こうが先に手を挙げて敬礼した。見覚えのある背の高い若い兵士だった。私は急いで敬礼したが、気恥ずかしい思いだった。向こうが勝利者でこちらが敗者なのだから、これからは、潔くこちらから敬礼しようと自分に言って聞かせた。 その夜から私は事務室の机の上に眠ることになった。宿直室の寝所を4人の元俘虜に占領されてしまったのだった。われわれに使わせろと言われれば拒むことはできない。寝具を事務室に運び大机をベッドにして寝ることにした。 窓から星空が良く見えた。空襲警報のたびに戸外に出て眺めた星を、今は机の上に寝て、窓越しに眺めている。淋しさが胸に湧いた。 4日朝、事務室でラジオのニュースを聞いていた私は思わず立ち上がった。聞き違いではなかった。ラジオは6日に俘虜の引き揚げ船が釜石港に入ると放送している。 いよいよ引き揚げだ。それも釜石港からだ。彼らは列車で送られて来たから帰るのも列車と考えていたが、船で引き揚げるというのだ。 早速、引き揚げ船が入港する知らせをどうやってキャッチするか、収容所から釜石の埠頭までどのようにして元俘虜を輸送するかなど計画を作り、職員各人の分担を決めた。午後6時から先方の将校に事務室に集まってもらい、細部にわたり打ち合わせをした。 ===== 筆者の稲木誠は戦後、時事通信社の記者となり、定年後に戦争体験記を書いた COURTESY KOGURE FAMILY この忙しい最中に、大橋駐在所の警部補が是非とも先任将校に会わせてもらいたいと事務室に来て、ダックウェイラー米少佐に次の2件を申し入れた。 一、 兵士たちが鉱業所の寮に土足のまま入り込んで女を世話しろと要求したり、理髪所で理髪して金を払わなかったりしているから、規律を守らせてもらいたい。 二、 兵士たちは鶏を買いあさり、農家は後難を恐れて求めに応じているが、このままでは、この地域の動物タンパクがなくなるから手控えるよう配慮願いたい。 警部補が精一杯に頑張って申し入れるのを少佐は冷たい表情で聞いていたが、皆に話しておくと答えて、会見を終えた。 5日になった。いよいよ彼らは明日帰国するが、今日はどうしているだろうと思って所内を歩いてみると、将校たちが5人ほど木陰の芝生の上で足を伸ばしていた。誰もが明るい表情で、挨拶にもこまやかな思いが感じられた。私も芝生に腰を下ろした。 帰国したらどうするのか尋ねると、彼らはひと休みしてから考えるという。オランダのシテンヘーハー中尉は軍務を続けることになるだろうという。イギリスのマーズデン中尉は、応召前のインク製造業をやるつもりだと言った。 「あなたはどうするのですか」 と聞かれ、私は答えた。 「新聞記者になりたいと思う。あるいは教師になるかもしれない」 私は少年の頃、新聞記者に憧れたが、記者では食べていけないから教師になれと父に強く勧められ教師養成の学校に入った。卒業の時には徴兵が待っていた。敗戦となって就職を考えると、また新聞記者への望みが湧いてきた。 先日読んだタイムもジャーナリズムへの思いを駆り立てる。日本人の視野は狭かった。敗戦ですべてご破算になったから、これからは広い世界の動きに触れて生きたいと思う。 だが、これから世の中がどうなるものか見当もつかない。宇都宮の留守宅は空襲で焼かれ、釜石の下宿も焼かれた。幸い母と妹は助かったが、家計をすべて失った。とにかく食べて行かなければならないが、生活の目処がつかない。私の将来は漠として頼りないものなのだった。 私が事務室に帰って間もなく、シテンヘーハー中尉が入って来て、将校たちの帰国後の宛名の寄せ書きをくれた。帰国したら手紙をくれというのだ。 ――シテンヘーハー中尉はオランダの先任将校として、職員が閉口するほどに多くの要求をしてきた。私は2、3日ごとに彼の室に行き、ベッドに腰かけて話をした。 管理の重要問題の1つは食物だった。敗戦の色が濃くになるにつれ、不足がちの食料が更に乏しくなった。シテンヘーハーは執拗に食物についての要求を重ねた。 釜石は海からの魚に恵まれていたが、それも不足がちになり、日本人でも不足しているのに俘虜にたくさん売ることは出来ないと言われるようになった。買い付け係の職員は、収容所には日本の衛兵も職員もいるのだからと頼み込んで配給してもらい、俘虜にも分けた。 栄養のためには調理の工夫も必要だった。炊事場でいい加減な仕事しかしていない者はシテンヘーハーと相談してすぐに交代させた。食事は日本側と俘虜側と別々に作ったが、私は月に2回程度は俘虜の食事を食べて自分の舌で確かめた。配食の時に当番兵に言ってシテンヘーハー中尉の食事と私の食事とを交換させるのだが、予告なしに行うので、その日の実際のものを確かめることが出来た。 インドネシア出身でオランダの士官学校を出たというシテンヘーハー中尉は、こちらへの要求に手心を加えることはなかった。1度目と2度目の艦砲射撃があった後、この大事件を俘虜たちがどのように見ているか所感を主だった25、26人に書いてもらったところ、シテンヘーハー中尉は2度とも、俘虜たちの安全のため収容所の移動を求めると書いた。 敗戦で立場が逆転し、彼が勝利者となり私は服従することになった。その彼が帰国に際し、将校たちの寄せ書きを私に与えて、文通を求めるのだった。温かい心遣いだった――。 ===== 前触れもなく突然、県の警察部長が大橋までやって来た。明日の警備について打ち合わせたいという。 8月28日に米軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、30日にマッカーサー元帥が到着、9月2日、降伏調印が行われた。いよいよ連合軍による日本占領が始まった。そして9月6日、アメリカの船が釜石港に入って来て俘虜700人あまりを引き取っていく。県警察本部でもこの一大事を重視して、本部長が出かけて来たのだ。 私は引き揚げの手順を説明し、先方との折衝には私が当たり、大橋収容所から引き渡し、次いで釜石収容所の者たちが乗船すると告げた。本部長は先方の上陸に備えて、埠頭にテント、机、ベンチなどを準備してはと助言してくれた。私は休憩所までは考えていなかったので、さっそく製鉄所労務課に電話して、その準備を依頼した。 6日が来た。 職員は事務室に待機して、引き揚げ船入港の知らせを待った。合図があればすぐにそれぞれ分担の仕事に取り掛かる手はずだった。だが正午を過ぎてもどこからも何も知らせがない。釜石へ偵察に下りて行った鎌田軍属は夕方薄暗くなるまで見ていたが、入港船は一隻もないと電話をよこした。 この報告で待機は解除となった。朝から何度も事務室に顔を見せていたジーグラー米大尉は、とうとう来ないと知って皮肉な笑い声を上げた。 「これが、わがアメリカ陸軍のやり方さ。何時も『ハリアップ・アンド・ウェイト』(急げ、そして待て)さ。コレヒドールの戦いでも、たびたびこれをやられたのだ。ハハハハ......」 それでもさすがに、失望の色は隠せないようだった。 脱走 翌7日の朝、ダックウェイラー米少佐は事務室へ来て乗用車を手配してくれと言った。引き揚げ船が遅れたのかもしれないから釜石へ行って見たいという。一日千秋の思いで待っている皆の気持ちだった。そこで鉱業所から乗用車を借りて、少佐と私が釜石へ下りて行った。 湾内には漁船が2、3隻浮かんでいるだけだった。東北端の岬まで行っても船らしいものは見えない。少佐は車を引き返させて、南へ海岸沿いに走るよう運転士に命じた。 三陸海岸を40分以上も走って行くと、1メートル以上もする雑草が道路の真中にまで繁茂して、車を先に進めることができなくなった。空と海とが接する水平線の彼方まで目をこらし続けてきたダックウェイラー少佐はついに諦めて、運転士に引き返すように命じた。 やれやれ今回も駄目かと、事務室でひと休みしていると、外からの電話を受けた高橋軍曹が大変なことを言った。 「俘虜の人たちが盛岡行きの列車に乗って行ったと、釜石駅長が知らせて来ました。19人で横浜まで行くと、切符も買わずに乗車したそうです」 信じられないような出来事だ。これは脱走ではないか。日本の軍隊なら重営倉の厳罰ものだ。 彼らは無事に横浜まで行けるのだろうか。途中で日本の復員兵にでも襲われたら外交上の大問題になるだろう。まったく、えらいことをやってくれる。すぐに将校たちに事務室に来てもらい相談した結果、追跡して説得しようということになった。 ===== 果たして追い着けるか。警護に来ている憲兵の中で土地の事情に詳しい伍長にも協議に加わってもらった。 乗用車で追跡し、釜石から宮古へ出てから北上山脈を横断して盛岡へ行く約170キロの経路では、いくらスピードを出しても到底間に合わない。ここから遠野へ出て、花巻経由で盛岡へ行くのなら約140キロだから間に合うだろう。 ただし遠野へ出るには、笛吹峠を越えるしかない。その道は険しく、やっと車が通れる道中だから、腕の確かな運転手とエンジンの強力な車が必要だという。 よし、それでいこうと話は決まり、説得役にイギリスのマーズデン中尉、運転手は彼ら兵士の中から選ばれた腕利き、案内役に憲兵上等兵、そして私と計4人が鉱業所から借りた乗用車で出発した。 笛吹峠の山頂を通過して、下りになってからが危険の連続だった。闇を貫くライトが深く険しい谷を映し出した。車が前のめりになって転落しそうになり、身を固くすることが何度もあった。 「冒険し過ぎたな。これは引き返した方が良いな」 「しかし道が狭くて、車の向きを変えられません」 正しく憲兵上等兵の言う通りだった。方向を変えようとすれば、路肩が崩れて谷底へ転落する。前進するほかない。運転手の腕に頼り、神に安全を祈るのみだ。 平たん地に出て、ようやく息苦しい緊張から解放された。これで命拾いしたと思った。青笹という地名は知っていた。その隣が遠野だった。 遠野の柳玄寺には私の先祖の墓があった。私は軍隊に入る前日に墓参りし、身命を投げうって戦うことを誓った。 だが戦いは敗北に終わった。そして今は、帰国の日を待ちきれなくてキャンプを飛び出した連合軍の兵士を追跡している。まともとは思えぬ出来事が続いている。 闇の中から盆太鼓の音が響いてきた。戦場から若者が帰らないなかで旧暦の盆太鼓が打ち鳴らされている。フィリピン、ニューギニアはじめ南方へ行った人たちは兵器、弾薬、食料が続かずに苦しんだ。私と同期の者も多数南方へ出発して行った。以来、音信はない。この敗戦で果たして何人が帰って来られるだろう。暗く重い太鼓の響きは英霊を弔うかのようだ。 <闇の夜に泣かぬ烏(カラス)の声聞けば生まれぬ先の父母ぞ恋しき> 突然、頭の中に禅問答の公案が浮かんできた。父が生前に、鎌倉の禅寺で出された公案だといって口ずさんだ言葉だった。否定に否定を重ねた奇妙な言葉の中に私は私なりに、生まれぬ先の父母ぞ恋しきという「いのち」を感得していた。 出発の時は一途に、追跡、説得の思いで飛び出したのだが、ようやく彼らの切ない望郷の思いにまで考えが及ぶようになった。彼らの脱走を思いとどまらせようと、懸命に追跡するわれわれも切ない思いだ。脱走も追跡もともに切ない「いのち」の所業なのだ。 民家の灯が遠くに見えてきて、車は花巻の町に近付いた。私が幼年期を過ごした懐かしい町だが、今は先を急がなければならない。思い出にふける暇はない。 ===== 「あそこが花巻駅です。この道路を北へ行けば盛岡です。大丈夫、時間内に行けます」 助手席の上等兵は腕時計に目をやって声を上げた。東北本線沿いの国道は整備されていて、夜中で人通りもないので、車は一段とスピードを上げた。ようやく心にゆとりを感じると、私は何か話をしないではいられない気持ちになった。近く帰国するマーズデン中尉に、収容所管理に苦労してきた話をした。これまで実情を俘虜に知らせることを禁じられてきたのだが、今は聞いてもらいたいことだった。 「そうです。あなたは管理に成功したのですよ。われわれは、他の収容所と比べて健康がすぐれているのを承知しています」 面長な顔に茶色のひげをつけたマーズデンは、イギリス流の口にこもった発音で率直に誉めてくれた。この人は大人しくて収容所では目立たない存在だった。それが7月14日の艦砲射撃の際に収容棟の屋根に火がついたのを発見すると、真っ先に屋根に上り消火した。砲弾が近くに落下する最中の、勇敢な行為だった。私は数日後に俘虜全員の並ぶ前で彼を表彰した。今日も一刻を争う緊急の時に説得役を引き受けてくれている――。 車が盛岡駅前に滑り込むと、憲兵は停車場司令部に駆けて行って、釜石からの19人がプラットホームで上り列車を待っていることを確かめてきた。 マーズデン中尉と私はプラットホームへ急いだ。薄暗い電灯の下に立っている十数人の姿が見えた。マーズデンが呼びかけると、驚いた様子だが大部分の者は素直に応じた。5、6人が走って逃げた。橋への階段を駆け上がるのをマーズデンが追って捕まえた。 「カムバック・プリーズ! カムバック」 私は見えも外聞も忘れて、大声で「カムバック」を2、3度、闇に向かって叫んだが何の反応もなかった。 プラットホームに20~30人いた日本人は何事かと眺めていた。日本人将校が何やらわけのわからないことをわめいて外人を追っている。人々は分からないままに驚いて見ていた。 マーズデン中尉に従って残ったのは16人だった。闇へ逃げた3人は諦めなければならなかった。中尉が探す必要はないという。 その夜はもう釜石行きの列車がないので、宿泊所を探すことになった。憲兵上等兵が盛岡陸軍病院に泊めてもらう話をつけてきて、手際良くバスまで準備し、彼自身は明朝、乗用車を大橋鉱業所へ運ぶという。 バスは私たち一行を乗せて、盛岡市北部の陸軍病院に向かって走り出した。私は闇に姿を消した3人が心配だった。日本語が出来ない彼らが京浜地区までたどり着けるだろうか。途中で暴漢に襲われることがなければよいが......。われわれの追跡を振り切って逃げ去った彼らの望郷の思いは、こちらまで痛切に伝わってくる。 打ちひしがれたような思いに沈んでいると、1人の元俘虜が揺れるつり革につかまりながら私の前に歩いてきて言った。 「あなたに迷惑かけて、どうもすみません」 「いや、気にしなくていいですよ」 思いがけない言葉だった。慌てる思いだったが、元捕虜の実直な挨拶は私を慰めてくれた。 病院にはあらかじめ連絡がついていたので、着くとすぐに部屋が割り当てられ、私は久しぶりに柔らかいベッドに休むことが出来た。 ===== 翌朝、廊下で見知らぬアメリカ軍医大尉に出会ったので敬礼すると、 「ここは病院だよ、ホテルではないよ」 と皮肉な言葉を浴びせられた。日本の軍医や看護婦も働いているが、陸軍病院の支配権は既に彼らの手に握られているようだ。 マーズデン中尉率いる一同は迎えに来たバスで盛岡へ行き、釜石行きの列車に乗った。この列車は多くのトンネルを通って行くので、蒸気機関の石炭の煙がトンネルのたびに室内にもうもうと立ちこめ、むせてせき込む人もいた。 列車が宮古を過ぎ三陸の海が見える頃、車掌が私の席に来て告げた。 「吉里吉里の駅長からの連絡ですが、上り列車に向こうの兵隊さんが6人乗っているそうです。船越駅で上り下りと行き違いになり、双方とも5分間停車します」 車掌も外国兵の乗車で事故など起きないよう心配しているのだ。マーズデン中尉に告げると、自分が6人を説得するから、君は動かないで車内の16人が動揺しないよう気を付けてくれと私に言った。 船越駅で、上りと下りの列車が止まった。マーズデン中尉は上り列車に乗り込んだ。1人だけ説得に応じたが他は応じないらしい。下車してプラットホームに立つ兵士の姿も見えた。 乗客が一斉に窓から首を出して、珍しい外国兵の動きを見ていた。マーズデンが帰ってきて、上り列車は汽笛を鳴らして発車した。 上り列車に乗り損ねた1人の兵士が、赤いほうせん花の咲くプラットホームに立っていた。彼はこちらの列車に乗ろうとしなかった。下り列車も汽笛を鳴らして動き始めた。 プラットホームに残った兵士は、「ガッデム(畜生)」と足元に唾を吐きつけて、小型サックを肩に、強い日差しの中を列車と反対の方向に歩き始めた。アメリカ兵らしいその男は、たった独りで異国の小さな駅で次の列車を待たなくてはならない。その焦慮と不安を思うのだが、どうすることも出来なかった。 大橋収容所へ戻ると、事務所のラジオが米軍の東京進駐のニュースを放送していた。このような動きが、俘虜として苦労を重ねてきた人々の心を揺さぶっているのだった。 ===== 衝突 脱出者はさらに増えた。9日には大橋収容所から21人、釜石収容所から36人、計59人が釜石駅から上り列車に乗った。 こう脱出が続いてはどうにもならない。これは脱出ではなく脱走だ。 われわれは俘虜を連合軍に無事に引き渡す責任を負わされ、そのため長い間苦労してきた。彼ら将校たちは、脱走者は後日処罰されるのだと冷静に構えているが、こちらは難しい管理の末に、すべてが水の泡と化してしまう。彼らが京浜に行く途中で事故にでも遭えば大問題だ。 吉田中尉と相談の結果、先方に規律維持を強く申し入れようということになった。そのため将校たちに事務室に集まってもらった。 ダックウェイラ―米少佐は室に入って来て、アメリカ煙草を2個、私にくれると差し出した。 「ノーサンキュー(結構です)」 私は断った。収容所がバラバラに崩壊しようとしている今、煙草に手を付ける気にはなれない。 皆の着席を待って私は口を開いた。この際ハッキリさせろと胸の奥でけしかけるものを感じた。 「引き揚げを目の前にして、このようにたくさんの脱走者が出るのは困ります。われわれは、彼らが東京に行く途中で、日本の復員兵にでも襲われなければ良いがと心配しているのです。規律を守らせて下さい。日本の軍隊では、このような無秩序は考えられないことです」 煙草を与えようとして断られ、気分を悪くしたダックウェイラ―少佐は、私の強い申し入れに腹を立てた。戦勝者の規律が敗者の規律に劣ると、敗戦将校に非難されたのだ。 「お前たちがわれわれの規律をぶちこわしたのだ! わしはお前が俘虜を殴ったことを聞いているぞ!」 少佐は顔を赤くし、口から唾を飛ばして軍人一徹の怒りを爆発させた。 誰も言葉を出す者はいなかった。ジーグラー米大尉が立ち上がり、みな部屋を出て行った。私も何も言うことが出来なくなった。 勝ったのにいつまでも収容所にいる必要はない、引き揚げだと2度も騙された、もうたくさんだ俺たちは自由なのだという脱走者に、もうしばらく辛抱してここで待っていろと言うのは難しい注文に違いない。それを日本に比べて劣るなどと非難するのは、身のほどをわきまえぬ暴論だった。 ===== それにしても、「俘虜を殴った」の一言は私の胸に突き刺さった。正当な処罰として記憶にしまわれていたことが、今になって古傷の痛みを噴き出した。 ――1945年5月に神奈川県川崎市の収容所から新しく釜石に移されてきた米、英、豪などの俘虜200人は米空軍による京浜地区の大空襲を見てきたので、味方の勝利を信じ始めていた。そのため日本側に対し反抗したり、挑戦的な態度に出たりする者がいた。 以前から釜石収容所にいたオランダの俘虜がわれわれの熱心な管理を理解し、ある程度協力的であるのに比べ、新来の俘虜たちの隠された敵意は、管理に当たる私たちにとって新たな問題だった。 そのような時に、アメリカ俘虜が製鉄所の作業場で、日本の警戒員に反抗して押し合う事件が起きた。殴り合いにまで行かなかったのは幸いだった。 グレイディ大尉がその俘虜を連れて所長室にやって来て、事情を説明した。その男は以前から反抗的態度を示すので労務日誌に記された要注意者だった。状況を調べると日本の警戒員の方も取り扱いが下手だった。 私は明日にでも作業の関係者と相談して、俘虜を他の作業グループに入れるか、警戒員を交代させるか決めようと思い、2人に帰ってよろしいと言った。 グレイディ大尉は私の部屋を出ながら言った。 「だがこれはあなたが処罰しなければならないでしょう」 私がなるべく穏便に済ませてやろうとしているのに、彼の方から処罰しなければと言われては黙っていられなくなった。新来者が来てからは、もっと強い態度で臨まなければしめしがつかないという職員の意見もあった。この際、もやもやした空気を一掃してやそうと思った。 「よし、それでは罰してやる。そこに立って、しっかり歯を噛め!」 私は平手で男の頬を打った。所長としての罰権の行使だった。傍にいたグレイディ大尉は 「そうしてもらいたかったのです。(That's what I wanted.)」 と言って男を伴って帰っていった――。 いじめるつもりは毛頭なく、規律維持のためだったが、俘虜を殴ったという事実は残った。今、ダックウェイラーにこのいきさつを説明すれば弁解になる。そもそも勝者と敗者の立場が逆転した今は、いきさつも理由も意味をなさない。 ===== 釜石収容所跡には現在、国土交通省の釜石港湾事務所が建っている 再び沿岸へ 釜石警備隊の兵舎が空いたので、釜石収容所の者はそこへ移ろうという話が持ち上がった。釜石湾に臨むその兵舎は300~400人収容の能力があり、炊事場、入浴場も備えていた。 グレイディ米大尉の希望もあるので、建物の所有主である釜石製鉄所に交渉して貸してもらうことになった。大橋から釜石まで鉄道で400人を運ぶ列車を手配するよう盛岡の停車場司令部に依頼し、大橋鉱業所にこれまで会館を借りた礼を述べ、警察署と憲兵隊に移転の報告をした。