<終戦の日、日本国内には130カ所の連合軍捕虜収容所があり、岩手県釜石市に746人の捕虜がいた。彼らが引き揚げるまでの1カ月間についてつづられたノンフィクション「降伏の時」(筆者:中山喜代平〔本名:稲木誠〕)を4回に分けて公開する。今回はその2回目、舞台は1945年8月18日から9月2日の釜石捕虜収容所だ。> ※ここまでの話(戦後75周年企画:連合軍捕虜の引き揚げの記録を初公開 ~あの日、何があったのか【Part 1】)はこちら 勝者の叫び 18日の朝、大橋、釜石両収容所の職員が事務室に集まり、吉田中尉が今後の管理方式を皆に伝えた。それが終わるとすぐ、俘虜代表の将校たちに事務室に集まってもらった。大橋収容所側は米軍のダックウェイラー少佐とジーグラー大尉、釜石収容所側は米軍のグレイディ大尉、英軍のブラックストン中尉、蘭軍のシテンヘーハー中尉が席に着いた。 私が英語で今後の運営について説明すると、彼らは一つ一つうなずいて、胸の喜びを隠しきれない様子だった。ジーグラー大尉が明日から点呼の時刻を朝は6時10分、夕刻は午後7時に改め、喫煙時間を午後10時までに延ばしたいと語り、異議なく散会となった。 東京方面では海軍の横須賀鎮守府、藤沢航空隊が降伏反対で騒いでいるようだ。新聞には東久邇宮内閣が成立したことや大西瀧治郎軍司令次長の自刃が報道されているという。 帰国の日を待つばかりとなった俘虜たちは20日朝から彼ら自身で点呼を行うことになり、号令、報告すべて彼らの様式に変わった。 ある班長はグレイディ大尉への人員報告をやりそこなって班員の失笑を買った。ここ数年間日本軍の点呼を受けてきて、今朝から突然、自国流の点呼報告に変わったのだから間違えるのも無理はなかった。 班長が報告をやり直すのを皆が面白そうに聞いていた。彼らにとって、緑に囲まれた山の中の点呼は苦難の末に取り戻した自由をはっきり自覚させるものだった。 「俘虜たちは収容棟に大きな受信機を持ち込んで英語の放送を聞いています。一体何の放送でしょう」 21日午後、大橋収容所庶務係の高橋軍曹が事務室で話しているので、私は様子を見に行った。収容棟の一隅に大型受信機が置かれ、それから出る声を20~30人が静かに聞いている。紙面に書き取る人もいた。これまでに見たこともないほどにたくさんの真空管を付けた受信機で、ジーグラー大尉が製作したものだという。 オーストラリアからアジア全域の連合軍将兵に対し、これから開始する日本進駐について指令を出しているのだった。一語一語ゆっくりアナウンスしているのは間違いなく書き取らせるためという。 放送を聞いている俘虜たちの間に見知らぬアジア人が1人いた。私の視線がその男に注がれているのに気付いて、ジーグラー大尉は鉱業所で一緒に働いていた友人だと私に説明した。 俘虜と一般工員の接触は禁止されていたのだが、終戦となるとすぐ収容所に入り込んで海外放送を聞いているこの男は、以前から俘虜と接触していたのではなかろうか。謀略はなかったか。私にはピンと感じられるものがあるが、敗戦の今となってはそんな詮索もあとの祭りだ。 受信機についても疑問が湧く。彼らは以前から海外放送を盗聴していなかったか。ジーグラー大尉は将校だから労務に出なくても良いのに、自ら希望して電気修理室に働きに出ていた。あれは海外放送の盗聴を狙っていたのではないか。 彼らの謀略についてあれこれ推理しているうちに、いつの間にか、アジア人の姿は収容棟から消えていた。 ===== 22日の朝、事務室に置いてあるラジオが、米軍の先遣隊が26日に神奈川県に進駐すると放送した。本土で迎え撃つはずだった米軍が、勝利者として東京のすぐ近くの神奈川県に乗り込んでくるというのだ。 そのニュースを追いかけるように仙台俘虜収容所長から電報が来た。 「敵国ノ要求ニモトヅキ各収容所ノ所在地ヲ明瞭ナラシムルタメ八月二十四日一八00マデニ万難ヲ排シ左ノ如ク標識ヲ設置スベシ 高サ20フイートノ大キサノPOWノ文字ヲ黄色ヲ以テ黒地ニ書キ之ヲ南ヨリ読ミ得ル如ク収容所ノ適宜ノ数個所ニ標識ス」 「POW」とは戦争のとらわれ人、俘虜のことだ。南から飛んでくる航空機が発見しやすいように、黒地に黄色の大文字で俘虜収容所の標識を出して置けという。これまでは警報や灯火管制で警戒し、来襲には高射砲や迎撃機で対抗した敵機だが、今度は彼らが上空から発見しやすいようにしておけという薄気味悪い命令だ。 こんな仕事は誰も乗り気になれない。標識役を担当させられた三河軍曹は、指定の24日になってようやく腰を上げ、鉱業所の職員に手伝ってもらって、収容所の屋根に黄色のペンキでPOWの大文字を書きつけた。 俘虜患者の入院打ち合わせのため本所へ行ってきた工藤衛生軍曹は、米軍の航空機が25日から日本中を偵察し、収容所の俘虜に救恤品(きゅうじゅつひん)を投下するという情報を伝えた。 25日は朝から皆が物音に聞き耳を立てていたが、正午近くになって爆音が聞こえてきた。皆が戸外へ飛び出すと、東南の釜石方面から、谷間沿いにこちらへ上ってくる機影が見える。機影はみるみる大きくなり、翼が山の木枝に触れるのではと危ぶむほどの超低空で飛んできた。機体が谷間を覆うように迫り、爆音があたりを圧倒して通過した。 偵察機は地上の人の群れを発見して、両翼を交互に振った。操縦士の姿も見えた。俘虜たちは一斉に狂喜して叫び、口笛を吹きならした。 「カムオン!」「ヘイ! ヘイ! ヘイ!」「ピーッ」「ピーッ」 上半身裸体で、胸にアルミの認識票をつるした彼らは、手を挙げ足を踏み鳴らして狂喜した。友軍機が再び頭上を通過すると、何もかも忘れたように歓声を上げて追って走った。 私はこの光景を見ていられなくて、所長室に入り窓を閉めた。爆音は2度も3度も低空で迫り、俘虜たちは狂喜して歓声を上げた。彼らの勝利の叫びは、私の敗北の苦悶だった。 <この無念! 切腹して内臓をつかみ出して彼らの眼前に叩きつければ気が晴れるか!> 私は爆音で窓ガラスがビリビリと響く室内で敗戦を呪い、憤怒に身を焼いていた。 偵察機が去り、周囲の騒ぎが静まって間もなく、近くに住む人が偵察機からの投下物を拾ったと、アメリカ煙草1個を事務所に届けてくれた。そのラッキーストライクの包み紙には鉛筆書きの文字があった。 It will only be a few more days. Ens. W. F. Harrah. 2221 E. Newton, Seattle, Wash. もう数日のことだ ワシントン州シアトル東ニュートン 2221 W. F. ハラー 海軍少尉 と読み取れた。先刻、機上に姿が見えた操縦士が投下したものと思われた。私はそれを大橋収容所の米軍将校ダックウェイラー少佐へ手渡した。 ===== 捕虜患者は、釜石から盛岡陸軍病院に送られた Google Map 患者との別れ 26日は、俘虜患者との別れの日となった。俘虜患者21人と俘虜衛生部員3人を盛岡陸軍病院へ送ることになったのだ。前夜の21時頃には、東北軍管区司令部命令で派遣されたという将校1名、兵士28名が大橋に到着した。俘虜患者が大橋駅から鉄道で盛岡へと送られるが、途中で襲撃事件でも起きては一大事というので護衛兵が派遣されたのだった。 移送当日、11時の出発を前に大橋駅に貨車2両が準備されていた。急なことで客車を用意できず、大橋―釜石間は貨車で、釜石―盛岡間は客車で送ることになり、釜石駅で患者を乗り換えさせる人員として有志の37人も釜石駅まで同乗することになった。 白い包帯を巻いた患者たちが仲間に付き添われて到着した。重傷者は手製の担架で運ばれて、貨車の床に毛布を敷いて横たえられた。その中に、オランダ軍医のパイマ中尉もいるはずだった。これが永遠の別れになるのではとの思いに駆られて、私はその貨車の内に入った。 ――パイマ軍医は釜石収容所の健康管理の柱だった。南方のジャワから東北の釜石に送られてきた俘虜は、雪というものを生まれて初めて見た者も多く、気候風土が全く変わったことや俘虜としての絶望的な生活のため、病人が多く、私の着任前に十数人が死んでいた。パイマ軍医は患者の治療にとどまらず、栄養対策にも次々に手を打ち、一年後には病人がほとんどいなくなるまでになった。 パイマ軍医は私が医務室に行くと、肥満した身体でおもむろに立ち上がり掌(たなごころ)を丸めた手で敬礼するのだった。簡単な英語で事務的に話すことは、すべて俘虜の健康についての要請だった。食糧が乏しくなる状況で、栄養を確保するための要求だった。 俘虜患者のための牛乳が手に入らなくなると、大豆を食糧係に請求して、豆乳を作って患者や体弱者に与えた。冬季の野菜不足を補うため、馬鈴薯の生汁を作りビタミンCを補給した。牛骨から脂油、骨髄、スープを作ってから、牛骨をパン釜で乾燥し粉碎機にかけて骨粉を製造した。 これは牛骨すべてを完全に人間の栄養とするもので、俘虜の体力増進ばかりでなく、私たち職員の栄養にも役立った。俘虜の健康は1年間で見違えるほど良くなり、毎月、本所への報告書に記入する俘虜の平均体重も増えてきて、東北軍管内の十数カ所の収容所の中でも最も健康状況の良いところと言われるようになった。パイマ軍医の貢献に対し、私は俘虜全員の前で表彰した。 思えば、私が収容所の中で最も顔を合わせていたのがパイマ軍医だった。その俘虜の健康管理の功労者が、火傷患者として盛岡陸軍病院へ送られるのだ――。 パイマ軍医は後頭部と両手を真白い包帯に包まれ、貨車の床に身を横たえて、私を見つめている。話したいことは山ほどあるのだが、今は何も言えない。握手や肩を抱く西洋の習慣を身につけていない私は挙手の敬礼をして叫んだ。 「グッドバイ! グッドラック!」 パイマ軍医は私を見つめて、何度もうなずいた。 ===== 貨車の一隅には、オランダ軍のブライストラ少尉も横たわっていた。 ――ブライストラは8月9日、2度目の艦砲射撃で収容所が火焔に包まれた時、全員外に出ろと叫ぶ私の目の前を彼は走って行った。海岸で火傷者の手当てをしている際に彼は私に行った。 「私よりひどくやられた人たちの手当てを先にさせているのです」 半袖、半ズボンで露出していた皮膚に火傷を負い、彼も入院することになった。 彼は戦前名古屋でビジネスをしていたそうで、収容所で日本語通訳をしていた。私は彼の立ち合いの下に、俘虜の時計の保管箱を開いて調べたことがあった。彼らが時計を日本人との物々交換に使わないよう箱にまとめて保管したが、錆びついたりしないよう調べたのだった。 約30個の時計はネジを巻くと皆コチコチと動いた。当時は市販の時計はなくなっていたので、特に腕時計は誰もが欲しがっていた。 「この中でどれでも欲しいものを使ってよろしいですよ。どうぞ、どうぞ」 ブライストラは商人のように目を細めて私に勧めた。私は断った。あの時、彼の勧めに乗ったら、今ごろは窮地に立たされたことだろう。 彼は俘虜側の情報収集係だったから、私は彼を通じて俘虜たちを元気づけてやろうとブライストラの部屋を訪れたことがあった。私は世話話の後で何気なく言った。 「戦争というものはいつか終わるものさ。その時は君たちをジャワまで送って行くよ」 「本当ですか! 本当ですか!」 ブライストラは暗夜に光明を見つけたように、目を丸くして喜んだ。 「いや、君たちの帰国の前に、京都見物でもさせてから送って行くよ」 戦局の話はタブーとされていたのに所長が戦争が終わったら皆をジャワまで送って行くと言い出したので、彼は喜んだ。あの当時は彼らが前途に希望を失い、健康状態にまで響いていると思われたので、景気の良い話をしてやったのだが、彼らを無事送り帰すのは私の夢であり望みだった。 だが現実は思いもよらぬ砲撃で大打撃を蒙り、ブライストラ少尉までも包帯姿で盛岡陸軍病院へ送ることになってしまった――。 ===== 「それでは発車よろしいですか」 大橋駅長は私に確かめてから右手を挙げた。発車の汽笛が別れを惜しむかのように、ひときわ高く緑の山々に響き渡った。白い包帯の患者たちを乗せた貨車は、ゆっくりゆっくり動き出した。 別れだった。私は小高い石の上に立って、挙手の敬礼で、一人一人に別れを告げた。 敗者の退場 27日午前10時頃、遠くに航空機の鈍い爆音が聞こえ、それが近付いて来ると「POW」の標識を発見したらしく、収容所の上空を旋回し始めた。航空機の胴体の下部が開いたかと思うと、黒い物が次々に投下され、それがパッと緑のパラシュートに開き、ドラム缶を吊るして大空を散歩でもするようにブラリ、ブラリと下りてきた。 「ヘイ! ヘイ! カムオン」 俘虜たちは歓声を上げ、グループに分かれて、それぞれの獲物を目指して山へと走った。 夢想も出来なかった光景が眼前に展開された。つい先日までは爆弾の雨を降らせ、家を焼き人を殺し続けた敵の大型機だった。それが今日は慰問品をパラシュートで投下している。敗残の私たちはぼう然と眺めているだけだった。 仙台俘虜収容所から、国際赤十字の利益代表が明日、大橋収容所を訪れるから丁重に迎えるようにと指令が来た。さっそく俘虜代表将校たちと事務室で打ち合わせを行った。 部屋に入って来たダックウェイラ―米少佐は吉田中尉と私に、シガレットを3個ずつくれた。ジーグラー米大尉は右手に丸めて持ってきた週刊誌を私にくれた。先刻パラシュートで投下されたドラム缶の中に詰められてあった慰問品だった。 打ち合わせが済んで独りになって週刊誌を開くと、広島に投下された原子爆弾の記事があった。巨大な雲の柱の写真がその威力を示していた。アインシュタインの相対性理論の説明から始まり、科学者総動員の原子力開発計画、原子爆弾製造、広島への投下、人類史上最大の災害が報道されていた。科学知識の乏しい私が読んでも、火薬を使わない今回の爆弾が、想像を絶する爆発力のものであることが分かった。 高度な科学の発明を日本人の私が読んでも分かるほど平易に書かれてあった。私はこのような優れた記事を、日本の新聞や雑誌で読んだことがなかった。これは画期的発明にふさわしい画期的記事だと思った。そして日本はジャーナリズムの世界でもアメリカに敗れたと思った。 私は、もう一度タイムの科学欄を開き、良質の紙に鮮明に印刷された原子爆弾の記事を読んだ。そして日本の完敗を悟った。 ===== 28日の正午近くになって、国際赤十字代表が到着した。北欧の中立国の領事館員3人だという。彼らは事務室で俘虜代表の将校たちと会見し、人員、死亡者、帰国予定、赤十字救恤品の受領状況を尋ねた。収容所の管理状況を聞かれたグレイディ米大尉は「管理は良かった」と答えた。 一行は収容棟の中を見て回ってから、釜石にある製鉄所のクラブへ向かった。吉田中尉と私も同行した。製鉄所のクラブでは、相手が国際赤十字代表だというので、食糧を手に入れるのが難しいなか洋食の品物を揃えて客をもてなしてくれた。製鉄所の総務部長も挨拶に現れ、昼食に同席した。 製鉄所は俘虜300人あまりを鉱石、鉄屑、石灰石などの積み込み、施盤、熔接、機械修理その他で働かせていたから、敗戦となると連合軍がどのように出てくるものか、使用者としての不安は大きかった。その上、2度の艦砲射撃によって製鉄所の工場は集中砲火を浴びてほとんど機能を喪失しており、再建できるか問題視されていた。製鉄所の総務部長は、はた目にも痛々しいほど憔悴していた。 昼食が始まると、グレイディ大尉は前日に投下された救恤品の中にあったという、牛の舌の缶詰を開いて皆に勧めた。彼にとっては珍味のものらしいが、私は薄気味悪く感じ手を出すことも出来なかった。 食事が終わってくつろぎの時間になったので手洗いに立ち、廊下に出ると領事館員の一番若い男がいて声を掛けてきた。 「あなたの収容所では、艦砲射撃と爆撃で俘虜は何人死んだの」 「トンネル内でガス中毒でやられたり、収容所から逃げ遅れて焼死したりで32人死にました」 「えー、32人だって。そんなにたくさん俘虜が死んだのでは、君はズーだよ」 20歳を越えたばかりの赤毛の男は、自分の首に手を当てて、処刑のしぐさをして笑った。 <何も知らないやつが何を言うか。私たちは命がけで俘虜を守ってきたのだ!> 私は辱めを受けたように憤慨したが、同時に足元の大地が割れ崩れるような衝撃を受けた。この中立国の若い男は、俘虜を虐待した者は厳重に処罰するという例のポツダム宣言のことを言っているらしいが、32人の死の原因は連合軍艦隊の砲撃と爆撃である。非戦闘員に対する無警告砲撃は国際法違反だから、責められるのは連合軍のほうなのだ。 だがこの男の考えは、現実を捉えているのかもしれない。私は砲弾が飛んでくる最中、燃え盛る収容所の中に逃げ遅れた捕虜を助けに飛び込んだ。だが敗戦となってみると、32人の俘虜の死亡の責任を取って追及されるのは自分かもしれない。敗北とはそのようなものらしい。 「近頃になく食べ過ぎたから、少し運動しなければ」 若い男は、私に与えた衝撃など気付かない様子で、楽し気に廊下を往復していた。 ===== 火葬 29日の朝、1人の俘虜が事務所にやって来て、火葬を始めると告げた。火傷患者として大橋収容所の医務室に運ばれてきた俘虜が、連合国側の勝利を知ってから10日あまりで不帰の人となったのだった。 収容所の上手にある材木置き場の空き地に白木の柩が置かれ、30人ほどが集まっていた。グレイディ米大尉、シテンヘーハー蘭中尉の姿もあった。 長身の1人が司祭となり、厳かに十字を切り、手に捧げ持った聖書を声高に読んだ。柩の下に積み重ねられた木材に火が放たれた。炎は燃え広がり、高く昇って柩を覆った。挙手の敬礼で、赤い炎を見ていると私はひと月あまり前の大渡川の川原の火葬を思い出した。 ――夕暮れ時だった。釜石湾に近い川原のあちこちに火葬の煙が上り、亡き子の名を呼ぶ母親の嘆き声も聞こえた。 軍属の鎌田さんは7月14日の艦砲射撃で奥さんと幼児を失った。山の手の防空壕に直撃弾を受け、中に避難した妻と子が死んだ。鎌田軍属はその遺体を近所の人に頼み、断水、停電となった収容所に来て、近くの井戸水を樽に組み入れてリヤカーで運ぶなど懸命に働いた。 そして翌日の夕方に収容所の近くの川原で、妻と子の遺体を火葬にしたのだ。鎌田軍属の妻は色白で大柄な女性だった。幼い息子はニコニコと元気だった。 その2人の遺体が炎の中にあった。夜のとばりが下り始めて火は輝きを増し、海からの潮風にパチパチと音を立てて燃えた。あのとき鎌田軍属は、じっと火を見たまま、動こうとしなかった――。 私の目の前で炎の中にいる人は、味方の砲撃にさらされて火傷を負い、勝利を知らされながら、帰国を目前にして息絶えてしまった。なんと悲しいことだろう。 炎に包まれた柩の主は戦争の悲惨を訴え、抗議の声を上げているようだった。 赤、白、青のパラシュート 8月30日午前10時ごろ、鈍い爆音が遠くから聞こえて、やがて大型機2機が大橋収容所上空を旋回し、パラシュートを1つまた1つと、4、5個投下した。パラシュートは、これまでの緑色と違って、赤、白、青、オレンジと色とりどりの花のように開き、大空に舞うように、ゆるやかに降下した。俘虜たちは歓声を上げて、宝を探しに周囲の山へ走った。 パラシュートの赤、白、青はオランダ国旗の3色で、それぞれ勇気、純潔、信義を意味していた。オレンジ色はオランダ女王がオレンジ家の王女であることにちなんだ色だった。 この日連合軍は、8月31日であるオランダ女王の誕生日を祝って、国旗の3色と王家のオレンジ色のパラシュートを投下したのだ。 オランダと言えば、この大橋はオランダにゆかりの深いところだ。その昔、黒船が来航して日本の防衛体制の整備が急がれていた時に、オランダの製鉄技術書「リエージュ国立鋳砲所における鋳造法」を手引書にして、日本初となる洋式高炉製鉄に成功したのが、大橋なのだ。安政四年(1857年)のことだった。 もともとオランダは鎖国日本に西洋文明の光をもたらし、医学をはじめ科学の各分野で日本の近代化を助けてくれた。 大空に赤、白、青、オレンジと大輪の花のように開いたパラシュートがオランダ女王の誕生を祝うものだと知る日本人は誰もいない。また3色とオレンジ色のパラシュートに歓声を上げているオランダ俘虜は、足を踏み鳴らしている大橋の土地が、祖国の書物を手引書として誕生した近代製鉄事業の発祥の土地だということを知らない。 青空に舞うパラシュートは緑の山に沈んで行った。 ===== この日、「俘虜が日本人に襲われることのないように十分に警戒せよ」と仙台俘虜収容所長から指令が来た。 艦砲射撃を受けた8月9日夜には、無差別砲撃で肉親や友人を殺された人たちが憤慨して俘虜を打ち殺せと騒いでいるとの情報があって、収容所では外部からの攻撃に備えて衛兵を周囲に立哨させ、私も万一の際にすぐ指揮できるようにと周囲が見下ろせる小高い坂の上で夜を過ごした。 今度は敗戦に逆上した人々が俘虜を襲うかもしれないという。職員会議を開いて検討した結果、収容所を見下ろす西の小山に衛兵を一時間交代で立哨させることにした。