<終戦の日、日本国内には130カ所の連合軍捕虜収容所があり、岩手県釜石市に746人の捕虜がいた。ここに発表するのは、彼らが引き揚げるまでの1カ月間について克明につづられた未発表のノンフィクションだ。その全文を4回に分けて公開する> 第二次世界大戦中、日本国内の130カ所に連合軍の捕虜収容所があったことは、いま日本の歴史としてどれほど記憶されているだろうか。 日本軍はアジア・太平洋地域で捕らえた約14万人の連合軍捕虜のうち、約36000人を輸送船で日本に送り、国内各地の炭鉱や鉱山、造船所や工場などで働かせていた。捕虜たちの生活は過酷を極め、終戦までに約3500人が死亡した。死因は飢えや病、事故や日本軍による虐待、連合軍による爆撃などだった。 岩手県釜石市にあった釜石捕虜収容所も、連合軍による砲撃を受けた1つである。当時、岩手県には釜石捕虜収容所(正式名:仙台俘虜収容所第5分所)と大橋捕虜収容所(正式名:仙台俘虜収容所第4分所)の2カ所があり、日本製鉄釜石製鉄所と、日本製鉄大橋鉱業所が使役企業となって捕虜を働かせていた。 連合軍捕虜の国籍はオランダ、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドで、釜石と大橋の両収容所にそれぞれ約400人が収容され、終戦時には釜石市内に746人の捕虜がいた。 釜石市は1944年7月14日、米海軍による本土初の艦砲射撃に見舞われた。東北地方有数の軍需工場である釜石製鉄所を沿岸部に擁していたため、長崎に原爆が投下された8月9日に再び、米英軍による艦砲射撃にあった。この砲撃と爆撃により、釜石収容所では32人の捕虜が亡くなった。 1945年8月15日。正午の玉音放送によって日本が終戦を迎えると、それまで捕虜を管理していた日本軍と、捕らわれの身だった連合軍の間で立場が逆転した。連合軍の巡洋艦が釜石港に現れ、捕虜598人が引き揚げていったのは9月15日のことだ。釜石市の収容所関係者にとっては、捕虜たちを連合軍に引き渡したこの日が、任務を終えた終戦の日だった。 ここに発表するのは、釜石捕虜収容所の所長を務めていた故・稲木誠の手記である。稲木は1944年4月から釜石と大橋の両収容所長を兼務し、1944年7月からは釜石収容所長の専任となった。 稲木は戦後、時事通信社の記者となり、自身の戦争体験を『茨の冠』(1976年、時事通信社)と『巣鴨プリズン2000日』(1982年、徳間書店)などの形で発表したあと1988年に他界したが、これらの他に「降伏の時」(ペンネーム:中山喜代平)と題した未発表の原稿を遺していた。1945年8月15日から9月15日までの1カ月間について、捕虜が引き揚げるまでの日々をつづった原稿用紙132枚のノンフィクションだ。 捕虜問題に詳しい恵泉女学園大の内海愛子名誉教授と、国内の連合軍捕虜について緻密な調査を元に『連合軍捕虜の墓碑銘』(草の根出版会)を上梓した笹本妙子氏に本稿「降伏の時」を見てもらったところ、終戦時の収容所の実態と敗戦処理を日本人側から克明に捉えたものとして稀に見る貴重な記録だという。稲木がこの間につけていた「分所長忘備録」や元捕虜の手記などと照らし合わせても、捕虜が引き揚げるまでのタイムラインにほぼ間違いはないと思われる。 戦後75年が経ち、故人の未編集の原稿を発表するに当たって旧字を改めるなど幾分かの手直しはしたが、資料的側面を優先し大幅な改編は避けた。また戦時中の呼び方として、「俘虜」(捕虜のこと)は原文のままとした。 なお、本稿に登場する釜石収容所の先任将校の終戦時の年齢を米軍資料で照合すると、蘭軍のジョージ・パイマ軍医は41歳、ビクター・シテンヘーハー中尉は37歳、米軍のフランク・グレイディ大尉は32歳、英軍のビビアン・ブラックストン中尉は37歳、エリック・マーズデン中尉は28歳。稲木は29歳だった。 ===== 1945年8月9日、米軍による釜石市への艦砲射撃。米国国立公文書館蔵 COURTESY POW RESEARCH NETWORK JAPAN 降伏の時 中山喜代平 1945年8月15日午前10時、私は三陸海岸の丘陵地の中に立っていた。 岩手県釜石市の中心部から北へ2キロあまりの谷間は緑に覆われた別天地だった。夏草のにおいがムンムンとして、蝉の声があたりに満ちていた。釜石の焼け野原を忘れさせる自然があった。 「ここなら大丈夫だ」 丘陵に囲まれた谷間を見回して、私はようやく安全な場所を見つけたと思った。海からの艦砲射撃に対しては山がさえぎってくれる。空襲に対しては木立に合わせて擬装を施せば発見される恐れはない。広島に落とされた新型爆弾が釜石製鉄所に落とされても、ここなら山が守ってくれる。 7月14日と8月9日、敵の艦隊が三陸海岸に現れ、海からの砲撃で製鉄所を徹底的に破壊し、市街地の大部分を焦土にした。死者773人、焼失家屋2930戸と言われる大打撃だった。 釜石俘虜収容所長として400人近くの連合軍俘虜を管理していた私は、2度の艦砲射撃で30人近くの俘虜を失い、20人あまりの負傷者を抱えた。収容所も焼失したので、製鉄所の近くにあった八雲国民学校を借りて仮収容所とし、体育館に一般俘虜を、その控室に俘虜患者を収容し、われわれ所員と衛兵は職員室に宿泊した。 2度目の艦砲射撃でトンネル内に退避した俘虜は、入り口をふさいだ砲弾から発生したガスで中毒症状を起こしていた。さらに火傷を負った患者たちを、火事の際に収容所から持ち出した救急用の薬と、16キロ先の大橋収容所から届けてもらった薬や包帯で手当てした。仮収容所では、製鉄所と大橋収容所から送り届けられる握り飯、缶詰で給食を続けた。 八雲国民学校に移動最中に、釜石駅の線路を襲った軽爆撃機の爆弾の破片が遠くから飛んで来て、校舎の屋根を貫いて落下し、1人のアメリカ人俘虜の顔面に当たり即死させた。 広島に投下された新型爆撃の威力が知られるようになるに連れ、さらに安全な場所が望まれた。収容所の場所は陸軍省が決めることになっている。1度目の艦砲射撃の翌日、被害視察に釜石に来た仙台俘虜収容所長の北島中佐に「もう俘虜を釜石には置けない」と報告したが、「今後の措置については陸軍省に伺いを出すから、別命あるまで、管理を続けるように」とのことだった。 しかし、本土決戦が差し迫っていると伝えられるなか、もう指示を待っていられない。現地で安全な場所を探し出して、こちらから意見具申をしようと考えた。 海と空からの攻撃、そして新型爆撃に対して身を守ることができる安全な場所を毎日、炎天下のなか探し回って、ようやく北の郊外に見つけたのがこの谷間だった。 収容所の建物と施設は釜石製鉄所が提供する取り決めになっていたので鈴木労務課長に一緒に来てもらったが、課長も賛成してくれた。あらかじめ土地所有者に連絡していたので、60歳近い上品な老人が現れ、軍や製鉄所が望むなら譲りましょうと言ってくれた。ここは女遊部(おなっぺ)と呼ばれる地域の南端にあたり、以前は人が住み井戸もあったという。 収容所建設の意見報告書を早急に提出するため、建物の配置、排水溝の場所などを地勢に合わせて考えていると、鈴木労務課長は私を促すように言った。 「今日は重大放送があるそうですから、帰りましょう」 それは是非とも聞かなければならないので、製鉄所の自動車で帰途についた。帰って重大放送があると告げると、職員は既にそれを知っていた。皆は本土決戦の放送と思い込んでいた。 ===== 大東亜戦争直後に日本が占領した南の島々は、1942年のガダルカナル島の戦い以後、ニューギニア、マーシャル群島、トラック、サイパン、グアムと次々に敵の手に奪われた。1945年に入ると敵はフィリピンのルソン島に上陸し、3月には硫黄島、6月には沖縄が奪われた。日本の若人は航空機に爆弾をつけたまま、敵に体当たりする特攻攻撃を繰り返したが戦勢を盛り返すことは出来なかった。 グアム、マリアナを基地とする敵のB29は日本の大都市、中都市に爆弾の雨を降らせ、焼け野原とした。敵が日本本土に上陸するのは必至となった。それでも国民は戦う覚悟だった。敵上陸の主戦場は南九州や関東の九十九里浜と予想されていたが、ここ三陸海岸に来ないとは誰も断言できない。先日の艦砲射撃の後には、敵の小部隊が夜陰にまぎれて上陸して来ないかと神経をとがらせていた。 敵の上陸に備えて収容所でも計画を作り、各人の分担を決めていた。庶務の三河軍曹が衛兵、警戒員、職員を指揮して俘虜全員を内陸部の花巻方面へ移動させる。所長である私は衛兵10人を指揮して敵の進出を阻止するという計画だ。 いよいよ本土決戦の放送だと、皆が緊張していた。仮収容所の西側の製鉄所の社員住宅地帯は攻撃にも無傷で残っており、そこで重大放送を近所の人たちに聞かせてやろうと玄関前にラジオを出している家があるという。私は職員と衛兵を引率して行き、そこの主人に一緒に聞かせてもらいたいと挨拶した。製鉄所職員で、ラジオマニアの松原鹿男さんだった。 ラジオの前に20人あまりが立っていると放送が始まった。国歌が吹奏され、悲壮な声が流れてきた。奥深い皇居の彼方から初めて聞く天皇の声だった。 「......朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ......堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス......」 夢ではない。天皇が国民に終戦を訴えているのだった。 5月にドイツが降伏してから、日本は独力で連合国に立ち向かわなければならなくなった。8月9日にはソ連が満州に進攻した。いよいよ本土決戦だと思っていたところ、突然の終戦だった。天皇直々の命令だから、これより確かなことはない。 われわれはすぐに仮収容所である国民学校に帰って校庭に二列横隊に整列し、皇居に対し敬礼を捧げた。 「捧げー銃(ササゲーツツ)!」 終戦を命令した天皇への敬礼だった。敗れた祖国、生命を国に捧げた戦友たちに対しての敬礼でもあった。 早速、製鉄所で戦災の後片付けに働いている俘虜たちの作業を中止して、仮収容所に帰るよう指令を出した。 終戦と言われても、釜石収容所は難題を抱えていた。2度目の艦砲射撃からまだ1週間だ。20人以上のガス中毒と火傷の患者が体育館の一室に横たわっている。俘虜患者の手当てに当たるはずのオランダ人軍医のパイマ中尉も火傷を負って、患者の1人として体を横たえていた。 釜石製鉄所病院から医師と看護師が2回ほど来て手当てをしてくれたが、彼らが働く小佐野分院でも患者が廊下にあふれ、今も数百人が治療を待っている状態なので、今後はこちらまで手が回りかねるという。 国民学校がある釜石から西へ16キロのところに、連合軍俘虜を400人近く抱える大橋収容所があり、俘虜軍医が2人いて医務室もベッドも薬もある。ここの患者をそちらに送りたいが、軍命令が2つの収容所間の俘虜の接触を禁じていた。連合軍の上陸を前に、俘虜の反乱、謀略を防止するためだった。 だが天皇の終戦命令で事態は変わった。戦争は終わったのだ。 ===== 釜石収容所から八雲国民学校に移動し、大橋収容所に移動した Google Map 国民学校の職員室で衛兵司令、警戒長も出席しての会議が開かれた。敗戦を悲しむ余裕などなかった。 皆の考えは一致していた。俘虜患者を大橋収容所の医務室に送ろう。一般俘虜も大橋へ送り、大橋収容所の炊事場、入浴場を使わせてもらう。宿泊所は最近竣工した350人収容能力のある大橋会館を鉱業所から借りようということになった。 交渉は思ったより早くまとまった。三河軍曹より、鉱業所が承諾してくれたと電話報告があった。ちょうどその時、釜石憲兵隊から上等兵が来て重大な情報を告げた。 「敵の潜水艦が釜石港に侵入して来て、潜望鏡を海面から出して陸上の様子をうかがっています。奴らは上陸するかもしれないから注意してくださいと分隊長が申していました」 敵が上陸すれば釜石警備隊、釜石高射砲隊との衝突は必至だ。それに俘虜が巻き込まれると大変なことになる。 私はより内陸部にある大橋への移動開始を決心した。陸軍省へ報告して承認を受ける時間の余裕はない。今こそ独断専行の時だ。私は電話で大橋収容所長の吉田中尉を呼んだ。 「俘虜を大橋へ送りますからよろしくお願いします。医療や給食でお世話になります。急ぐので本所への報告は後でします。この措置の責任は、すべて私がとります」 吉田中尉も、こちらの切迫した事情を知っているので賛成してくれた。 大橋へは、一般俘虜については鉄山から製鉄所へ鉱石を輸送する狭軌鉄道の軌道車で輸送することになった。俘虜患者については、鉄道を使えば途中で空襲があった際に停車して患者を担架で降ろさなければならなくなるため、製鉄所のトラック4台で送ることにした。 すべて順調に進んだ。本土決戦に備えて計画を練り各人の分担を定めていたのが、終戦のこの日に役立った。 「第一班出発します」 製鉄所の三村警戒員が緊張の面持ちで、俘虜のグループとともに軌道車乗り場へ急いで行った。全員が出発した後、最後のトラックの助手席に私が着き、三浦軍属が運転席に収まった。トラックは軽い震動を立てて動き出した。 三浦はオート三輪車の運転免許は持っているが、自動車の免許は持っていないという。以前に自動車を2、3回動かしたことがあるから、ゆっくり転がしていけば大橋までは大丈夫ですよとのんきに構えている。 「あれ、この車はどうも変です。だんだん左の方へ寄って行きますよ」というので気を付けて見ると、なるほど左へ寄って行く。三浦はハンドルで方向を正すが、車は自然に左へ寄って行く。これはえらいことになったと思ったが、左にある甲子川の水は枯れているから落ちても死ぬことはあるまいと覚悟を決めた。 ===== 光の世界 目指す行き先は釜石鉄山だった。戦争を支える鉄の鉱石は、この山から掘られていた。大橋収容所の俘虜400人もそこで働いていた。 1944年4月22日、青森県弘前市の歩兵連隊から赴任して来た私は、釜石駅前から収容所のオート三輪車に乗せられ、この道で大橋へ向かった。最初の3カ月間は大橋収容所と釜石収容所の兼務を命じられたので、鉱山と製鉄所を3、4日ごとに往復した。あれから1年4カ月、戦局は大きく傾き、敵艦隊に砲撃されて釜石収容所は焼失し、大橋収容所へ援助を求めて急いでいる。 朝からの出来事が、まるで夢のように感じられる。夏草の生い茂るなか新しい収容所の候補地を決めると、天皇の放送で戦争が終わり、今は俘虜一行を連れて大橋に移動している。独断で行っている大橋収容所との合体措置が、融通の利かない軍隊でどのように判定されるのかも分からない。 日が暮れた。三浦軍属はスイッチを入れた。ライトの強い明りが前方を照らした。昨晩までは厳重な灯火管制が敷かれていて、夜間に屋外で灯火をともす者は敵機に所在を知らせる利敵行為として罰せられた。だが三浦軍属は、何のためらいもなくライトをつけた。 この人は砲兵軍曹として戦場に赴き、負傷して召集解除になり軍属として赴任してきた。東北の人は無言実行型が多いなか、三浦軍属は有言適当型なので仲間には煙たがられていたが、それでも実戦経験が時々ものをいった。 7月14日の正午過ぎ、製鉄所溶鉱炉付近に爆発音が上がった。さては空襲だと戸外に飛び出し、高炉の上空を探したが敵機は見えない。その時、「砲撃だ! 軍艦から砲撃だ!」と叫びながら三浦軍属は釜石港を指差した。洋上に砲火を吐く戦闘艦があった。私たちの頭には空襲しかなかったのに、私たちが背伸びして探すのとは反対方向の洋上に軍艦を発見して艦砲射撃だと叫んだのは、さすが砲兵軍曹だった。 終戦の今日、早くも灯火管制の禁を破る判断も彼の人生哲学によるものだった。 ライトに照らし出される道路の両側には、土埃にまみれた雑草が毒々しいほどに濃い緑に繁っていた。夏虫が戦いを挑むように飛んで来て、ライトに突き当たった。久しぶりに目にする光の世界だった。 大きな包みを背に道を行く人の後ろ姿がライトによって映し出され、後方の闇の中に消えて行った。しばらくすると、また親子連れの姿が現れては消えた。敗戦を知って世帯道具を背負って移動する人たちだった。 これまでニュース映画で見てきた戦地の難民の姿が、目の前でライトに映し出されているのだ。これが夢ならどんなに幸いだろうと思われる。私は虚無の世界へ突き進む索漠とした気持ちを抱いたまま、トラックの助手席に身を任せていた。 トラックは無事、大橋収容所の門前に止まった。荷物は職員が降ろしてくれるので、私は俘虜の宿泊する会館を見に行った。それは大橋収容所の上手の道路沿いにあった。竣工したばかりのため、ペンキのにおいが残っていた。中に入ると館内すべてのライトが灯されて、天井も壁も床も光に満ちて輝いていた。 板張りの床は舞台の方へ緩やかに傾斜しているのがやや不便だったが、350人が足を伸ばして眠るだけのスペースはあった。毛布は大橋収容所の倉庫から全員に行き渡るように運び込まれてある。 3、4人の俘虜が私に近付いてきて話しかけた。 「戦争は終わったのですね!」 彼らの顔はライトを浴びて喜びに満ちていた。 「そうだ。戦争は終わった。君たちはもうすぐに帰れるよ」 私の口から終戦を確かめると、彼らは小踊りして喜んだ。私は返事をするのに舌がもつれるようで、自分がひどく疲れているのを知った。 収容所に戻り医務室に行くと、ベッドに収容された患者たちは、もう大丈夫という面持ちで私にうなずいてみせた。 「心配ない。全部OK」 アメリカ軍医のタッカー中尉は私の姿を見つけて元気に叫んだ。彼も終戦の喜びに興奮していた。 私は事務室2階の宿直室に布団をのべて身を横たえた。そこは以前、大橋収容所との兼任当時によく寝泊まりをした部屋だった。今は何を考える力もなくて、泥のような眠りに落ちて行った。 ===== 世界の変転 8月16日。目覚めるとそこは大橋収容所の宿直室だった。 昨日までは夜中に巡察に起きたり、空襲警報のたびに防空壕への待避を指揮したりしていたため睡眠不足が続いていた。昨晩は久しぶりに眠り続けることができたのだが、覚めると虚しく悲しい朝だった。 朝の点呼に整列する俘虜たちの顔は晴れやかな血色だった。私は改めて大橋収容所長の吉田中尉に医療や給食で世話になる礼を述べた。私が兼任していた当時に大橋のアメリカ軍先任将校をしていたジーグラー大尉の部屋を訪れ、釜石の一同が世話になる挨拶をすると、彼は待ち望んでいた日が来たと喜んでいた。 釜石地区警備司令官と憲兵分隊長に大橋移転を報告するため、私はオート三輪車で釜石へ下りて行き、製鉄所の労務課にも寄った。そこで係長から意外な話を聞いた。この人たちは終戦の動きを東京本社からの極秘情報で知っていたというのだ。 製鉄所は、新収容所の候補地選定、大橋への移動と、一転二転する私たちの行動に対し迅速に協力してくれていた。今から考えると、中央の動きをキャッチしていたから出来たということか。私の方は何も知らずに、収容所の生き延びる道を必死に探し求めていたのだった。 「俘虜の人たちは着のみ着のまま焼け出されたから大変でしょう。作業服や石鹸をあげましょう」 と、製鉄所はその日のうちに全員のために作業着、シャツ、脚絆、タオル、石鹸などをトラックに積んで大橋まで送り届けてくれた。 服はスフ入りの品物だが、戦争で衣類は手に入らなくなっていたので、製鉄所は戦勝者へ大サービスをしたのだった。俘虜の作業服は日本人には合わない特大サイズのものばかりだから、それが倉庫にそろえてあったとは準備があまりにも出来過ぎだった。 仙台俘虜収容所から経理の見習士官と下士官がやって来た。見習い士官は仙台俘虜収容所からの命令書を手にしていた。それは陸軍罫紙に次のように手書きされていた。 一、俘虜ハ敵側ノ注目ノ的ナルヲ以ツテ、之ニ対シテ保護ヲ加ヘルト共ニ給養衛生ニ注意スル等、外交交渉ニ支障ヲ来タシ、累ヲ他ニ及ボサザル如ク慎重ヲ期セラレ度シ 二、 遺骨、遺品等ヲ良好ニセラレ度シ 三、 即時、俘虜労務ヲ停止スルコトヲ得 俘虜の扱いは敵側の注目を集めているので敵側に引き渡すまで保護し給養衛生に注意すべきこと、遺品、遺骨などを良好に扱うこと、強制労務を直ちに停止すること――。 これを読んで私は気の抜けたビールに似た感じがしてならなかった。われわれは切迫した状況の中で俘虜に食べさせ、寝させ、患者を手当てするために全力を尽くしてきた。それに対して、この命令書は観念的な文字を並べているだけのように思われるのだった。 8月17日。大橋鉱業所長に会って、会館を貸してもらった礼を述べて収容所に帰ると、仙台俘虜収容所から明朝7時半までに集合するようにとの命令が来ていた。管内十数カ所の分所長会議の命令だった。 大橋収容所長の吉田中尉と私は、午後早くに出発しなければならなくなった。仙台俘虜収容所は7月の仙台空襲で焼失し、岩手県黒沢尻町に移っていた。東北線黒沢尻駅へは、大橋から釜石へ出て釜石駅―宮古―盛岡経由で行くよりも、ここから徒歩で仙人峠を越えて花巻経由で行く方が早いという。 ===== 炎天下の中、吉田中尉と山道を登り、やっとの思いで峠を越えた。仙人峠駅から花巻駅までの列車は遅れがちだったが、花巻駅で乗り換えた東北線の列車は更に遅れて、黒沢尻に着くと夜8時を過ぎていた。町は人通りも稀で暗く、一苦労して探し出した宿の部屋は床の間に飾りもなく、汚れた古畳で、荒れるにまかされていた。 翌朝、吉田中尉と会議室に入ると仙台俘虜収容所長の北島中佐が中央の席にいて、各地からの少尉、中尉の申告を受けていた。 「君のところはご苦労でした。何から何まで良くやってくれた」 中佐は私の姿を見ると、甲高い声を上げた。敗戦で沈滞した空気を何とか元気づけようとしている様子だった。大橋収容所と合体するという独断措置をどう判断されるかと思っていたが、声高に誉められて終わった。私はかえって空しい思いが湧いてくるのを感じた。 会議は1時間あまりで終わった。告げられたのは、日本側と連合軍側における俘虜管理体制の転換だった。点呼も食事献立も俘虜自身で行わせることになった。日本の衛兵は彼らを取り締まるのではなくて、彼らを保護し、特に外部から襲撃されることなどないよう注意することになった。 帰途の下り列車は勤労動員から帰郷する人たちで満員だった。アメリカの画報に出ている原爆の記事を周囲の人達に示しながら、その威力を自分の手柄のように大声で話す日本人がいた。吉田中尉や私の軍服姿は無視されるか、軽蔑の目が向けられる。 独断措置への誉め言葉、管理の転換、列車内の喧騒と軍人に対する冷ややかな視線を思うと、この1日間で世の中が驚くほどに変わったことを悟らずにはいられなかった。変わらないのは自分だけで、周囲のものは音を立てるほどの勢いで変転していた。 終着駅の仙人峠に着いた頃には日が西に傾きかけていた。戦争が終わり人々は帰宅を急ぐなか、私には重い任務が残されていた。自分の任地に戻るために、仙人峠を再び越えていかなければならなかった。 ※続き(戦後75周年企画:連合軍捕虜の引き揚げの記録を初公開 ~あの日、何があったのか【Part 2】 )はこちら 【関連記事】TBSアナ久保田智子「私の広島、私達のヒロシマ」 【関連記事】9.11を経験したミレニアル世代の僕が原爆投下を正当化してきた理由