オーストラリア・シドニー北部の海岸近くで暮らすリンゼイ・ダフティさんは、元気な白髪の97歳。18歳だった1942年2月、日本軍が同国への初の爆撃として北部港湾都市ダーウィンを奇襲した日に、爆弾を投下する爆撃機の操縦席パイロットの顔が見えたことをしっかり覚えている。 ダフティさんが砲火を経験したのは初めてで、そのとき、対空砲班の僚友を見殺しにすることになるのではと不安になったのも忘れてはいない。 「残念ながら私たちは全く不意打ちされた」とダフティさんは語る。「レーダーの用意はなく、戦闘機もなく、低空飛行を狙うボフォース軽対空砲もなかった。ただただ、できるだけのことをするしかなかった」 ダフティさんは今も、75年前の9月2日に日本が降伏文書に調印し、第2次世界大戦の太平洋戦争が終わったときに感じた静かな安らぎを忘れない。 日本はドイツ、イタリアと枢軸同盟を組み、アジア太平洋域を侵略し占領した。 1942年2月19日に始まって43年11月まで、ダーウィンは数十回の空襲を受けた。これは「オーストラリアでの真珠湾攻撃」と呼ばれることもある。 当時、ダーウィンは連合国軍の主要拠点で、近隣の南太平洋諸島での展開を支援する船舶や飛行機の基地ともなっていた。 ダフティさんは42年に入隊してすぐにダーウィンに送られた。到着して間もない2月19日、日本軍の240機が2回に分けてダーウィンに爆弾を投下。民間人のほかオーストラリア軍と米軍の計240人が死亡した。オーストラリア政府の記録によると、日本軍はダーウィン港で船舶8隻を撃沈した。 ダフティさんは日本軍の長距離戦闘機について語る。「爆撃は激しかった。急降下爆撃機も零式艦上戦闘機(ゼロ戦)も来た。樹木すれすれの高度まで降下してきた」 ダフティさんによると、10人ほどだった自分の班は身を守るものがほとんどなく、地面は岩だらけで塹壕を掘るにはあまりにも固く、おまけに近くには爆薬が積み上げられていた。 幾度となく空襲が続き逃げ惑ううち、近くの炸裂で石ころが雨のように降り注いだと振り返るダフティさんの顔には、それでもほほえみが浮かぶ。何とかその場を逃れるとき、僚友の手をしっかり握っていたのだという。「なんとも決まり悪いね」 45年、シドニー北部の軍需品倉庫で働いていたとき、広島と長崎への原爆投下を受けて日本軍が降伏したことを知った。特に歓喜は起こらなかったという。「ただ、ひそやかな安堵感だけがこみ上げてきたよ」 (Jonathan Barrett記者、Jill Gralow記者)[ロイター]Copyright (C) 2020トムソンロイター・ジャパン(株)記事の無断転用を禁じます 【話題の記事】 ・コロナ感染大国アメリカでマスクなしの密着パーティー、警察も手出しできず ・巨大クルーズ船の密室で横行するレイプ ・新たな「パンデミックウイルス」感染増加 中国研究者がブタから発見 ・韓国、ユーチューブが大炎上 芸能人の「ステマ」、「悪魔編集」がはびこる   ※画像をクリックすると楽天ブックスに飛びます2020年8月11日/18日号(8月4日発売)は「人生を変えた55冊」特集。「自粛」の夏休みは読書のチャンス。SFから古典、ビジネス書まで、11人が価値観を揺さぶられた5冊を紹介する。加藤シゲアキ/劉慈欣/ROLAND/エディー・ジョーンズ/壇蜜/ウスビ・サコ/中満泉ほか