<中東現代史のひとつの結節点であることは間違いない。今回の変化はどのような意味があるのか......> イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)の間で関係正常化に向けた合意が結ばれたことが、8月13日発表された。今後は投資や観光、治安管理など具体的な内容について協議を進め、正式に二国間での平和条約の締結に進むことになる。仲介にあたったトランプ大統領はツイッターでこれを「偉大な快挙(huge breakthrough)」と呼び、自らが主導した外交成果を自画自賛した。バイデン候補との間で支持率の差が広がり、苦しい大統領選挙に向けて、外交上の成果をひねり出した形だ。 合意の前兆 今回の動きは、全く予見されていなかったわけではない。これに先立つ今年の5月、UAEはパレスチナ自治政府向けの新型コロナウイルス対策の医療援助物資を、テルアビブ空港への直行便に載せて運ぶという選択をして、自治政府を驚かせていた。テルアビブ空港の利用は、イスラエル外務省との交渉に基づくものであったが、他方で受け取り手のパレスチナ自治政府には事前に何の連絡もされなかった。イスラエルの空港の利用は、イスラエルとUAEの相互承認を意味しかねないとして、自治政府のシュタイエ首相は受け取りを拒否した。今から思えば、あれは今回の布石のパフォーマンスだったともいえるだろう。 いずれにせよ、アラブ諸国としてイスラエルとの国交回復に向けて正式に動き出す国が出てきたことは、中東現代史のひとつの結節点であることは間違いない。アラブ諸国はパレスチナをどう位置付けてきたのか。今回の変化はどのような意味があるのか、振り返ってみる必要がある。 捨て去られた「アラブの大義」 中東地域において、イスラエルは周辺アラブ諸国と国交をもたず、孤立した状態が長く続いてきた。1948年の第一次中東戦争で、イスラエル建国のために武力によって占領されたパレスチナの解放を、同じアラブである同胞諸国が共通の課題として掲げたためだ。全イスラーム教徒の聖地であるエルサレムを異教徒の手に渡さないためにも、パレスチナの解放は「アラブの大義」と呼ばれた。アラブ連盟の会合ではほぼ毎年、パレスチナとの連帯が謳われ、大義の尊重が確認されていた。 われわれ外国人にも関わる日常的な側面で、この緊張関係を象徴したのが、イスラエルの入国スタンプ問題だった。イスラエル国家の存在を承認しないアラブ諸国では、パスポートにイスラエルの入国スタンプがあるとビザが下りない、という問題である。近年ではイスラエル入国時にそもそもスタンプそのものが押されなくなったため、あまり問題ではなくなった。だがそれ以前は、中東諸国を旅するには、先にアラブ諸国を回り、最後にイスラエルへ向かうか、別紙に入国スタンプを押してもらうというのが、バックパッカーの間での常識だった。 こうした敵対的なアラブ包囲網の連帯を最初に破ったのは、意外にも、かつてはアラブ民族主義運動の旗手であったエジプトだった。アメリカの仲介によりサダト大統領は1978年、キャンプ・デービッド合意に調印し、翌年イスラエルとの間で平和条約を結んだ。この動きは当時、アラブ諸国の間で大きな裏切りと捉えられ、エジプトは一時期、アラブ連盟を除名されることになった。その時点ではまだ、パレスチナをめぐる対立はアラブ・イスラエル紛争と呼ばれており、アラブ諸国全体で占領を打破しようという機運が高かったためである。 主導者であったエジプトを失い、アラブの連帯は急速に勢いを失う。1982年にレバノンのサブラ・シャティーラ難民キャンプで虐殺が起きたとき、アラブ諸国は沈黙し、パレスチナ難民を守ることも、外交的に圧力をかけることもできなかった。キャンプ住民のパレスチナ人女性が「アラブ〔諸国の同志〕はどこにいるの?!」と泣き叫ぶ様子は、国際的に高い評価を受けた映画『戦場でワルツを』のラスト・シーンにも当時の実写が収録されている。イスラエル建国から30余年が経過し、数次にわたり繰り返された中東戦争で敗戦が続く中、アラブ諸国の間でパレスチナ解放は達しえない理想となりつつあった。 ===== 紛争の構図の変化 そして紛争の構造は、アラブ・イスラエル紛争からパレスチナ・イスラエル紛争へ変わり、一地域内での問題へと矮小化されていくことになる。その変化を決定づけたのは、1993年のオスロ合意といえるだろう。それまでヨルダンを通じた共同代表としてしか和平交渉に参加できなかったパレスチナが、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルの相互承認により、直接対話で交渉することができるようになった。パレスチナ側を代表する機関として自治政府が作られ、立法評議会選挙が行われることで、一部の住民の間のみとはいえ民主的にパレスチナを代表する政治アクターが選出されることになったからである。 こうした流れの中で、アラブの連帯はさらに意味を失っていった。ヨルダンはイスラエルとの間で1994年に平和条約を締結し、経済活動などでの協力を進めた。パレスチナ系住民の多いヨルダン国内では、その後もこの合意の撤回を求める運動が労働組合を中心に続いているが、政権を動かせるほどの影響力はない。そして今回、26年ぶりにアラブ諸国との間で新たに交わされたのが、UAEとイスラエルの国交正常化の合意だった。中東和平交渉の傘の下とはいえ、対イスラエル和平という数十年来のタブーを実質的に破ることに対して、非難の声を上げたのは、もはやパレスチナ人のみであった。 マナーマ会議の先に 湾岸アラブ諸国とイスラエルの間で進む関係正常化は、大筋の流れとして、昨年6月にバーレーンのマナーマで開かれたトランプ主導の経済会合の延長線上に位置づけられる。この時の会議でクシュナー米大統領上級顧問は、政治的解決案に先立ち、中東和平の経済的側面を話し合うとして、対パレスチナ投資の資金協力について協議を行った。とはいえ、パレスチナ、イスラエル双方の代表は不在であり、集まったのはバーレーン、サウジアラビア、UAEなどの閣僚と起業家に限られた。中東和平を掲げるものの、この会議の真の目的が、湾岸アラブ諸国とアメリカ、その支援を受けるイスラエルとの間での関係構築にあったといっても過言ではないだろう。 今年1月にトランプ大統領が中東和平の政治案として「世紀のディール」を発表した際も、UAE代表はホワイトハウスで開かれたレセプションに参加していた。今回の共同声明でも、そのときの賛同姿勢に対してアメリカ側から謝意が述べられている。クシュナーは近日中にまた一国がイスラエルと関係を正常化することを示唆しているが、このときにUAEと共に同席していたバーレーン、オマーンはその有力な候補だ。だがそれは、アメリカやイスラエルが称揚するように、積年のパレスチナ問題が解決され、中東が平和な状態に向かうことを意味しない。 中東和平は進むのか 今回の関係正常化合意では、UAEがイスラエルによる西岸地区の入植地の併合停止を条件として求めた、という内容が、あたかもパレスチナでの和平を推進したかのように報道されている。だがこれは、アラブ諸国内での「裏切り」を正当化するための虚飾に過ぎない。7月1日に予定されていた併合の動きは、国際的に強い批判を浴びたイスラエル自身によってもともと遂行が延期され、アメリカの反応をうかがう様子見の状態が続いていたからだ。UAEの動きがそこに取り立てて何かの変化をもたらしたわけではない。 マナーマ会議のときのように、中東和平の推進を隠れ蓑に、実質的な経済協力を進めていくスタイルは、今回の国交正常化でも踏襲されている。そうした意味では、今後ともアラブ諸国が形式的に「大義」を傘に着ながら、自国の利益優先の協定を結ぶというやり方を、今回のUAEの合意は確立しつつあるといえるだろう。合意の共同声明が述べるように、これが「UAEとイスラエルの勇気の証だ」とすれば、それは1940年代以来のアラブ諸国の協調の枠組みを破棄し、経済利得のためにパレスチナという大義を捨てることを決断した「勇気」のことを指す。それが「この地域の大きな潜在力を解き放つ新しい道」を描いたことは間違いない。 中東域内政治の枠組みで、注目されるのはサウジアラビアの今後の動向だ。パレスチナ自治区内での抵抗運動をほぼ制御下に置いたイスラエルは、近年ではイランの脅威を強調することで国内世論の支持を得ている。湾岸地域でのイランの最大のライバルであるサウジアラビアを公式に味方につけることができれば、この地域の地政学を大きく動かすことになる。そしてアラブ和平イニシアチブを主導し、イスラエルとの和平に積極的な姿勢を2000年代から示してきたサウジアラビアが、その方向に一歩を踏み出す日は、それほど遠くないだろう。 他方で当事者であるパレスチナ側が、和平協議に加われる見通しはきわめて暗い。パレスチナ自治政府は13年間にわたり、ファタハとハマースの間で二つに内部分裂したままで、指導力は地に落ちている。2005年以来、後任をめぐる選挙が行えないまま84歳を迎えたマフムード・アッバース大統領は、健康不安説が何度も浮上している。トランプ政権によるエルサレムへの大使館移転に抗議して、自治政府はアメリカ主導の交渉への参加をボイコットしており、今後の和平協議にも復帰する見通しは立たない。 このままでは当事者不在のまま、交渉が進められ、イスラエル兵による厳重な警護の中、地元エルサレム住民の怨嗟を浴びながら、アブダビ首長国のムハンマド・ビン=ザイド皇太子がアル=アクサー・モスクで礼拝にあげる日もそう遠くはないかもしれない。そして今度はシャロンのときのように、大規模な抗議運動を起こせる力が、パレスチナの民衆の間にはもはや残っていないかもしれない。