<人気落語家が語る、いまを生きる落語家が観客に伝えられる落語の神髄とは> いま最もチケットが取れない人気落語家、柳家喬太郎――。落語家生活30周年を迎えてもなお演者として進化し続ける喬太郎の、多彩な表情を収録した写真集『喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集』(橘蓮二著、CCCメディアハウス)が7月、発刊された。 著者の演芸写真家・橘蓮二による喬太郎へのインタビューの一部を今回、抜粋して掲載する。 *『喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集』刊行記念<落語&トーク>(2020年8月31日までの期間限定公開) . ◇ ◇ ◇ 〝昭和40年代の風〞を吹かす! 蓮二 師匠は昭和38年生まれで、自分は36年生まれなんですよ。よくよく考えると、まだ戦争が終わって20年経っていないときに生まれているんですよね。 だから子どもの頃って、大金持ちの子も小屋みたいなところに住んでいる子も、ときには境遇の違いを感じることはあっても、一緒に遊んでいるときは関係なく混ざりあって生きていたんですよ。今はそういうことは見えづらいですけれど、実は裏では線引きされていたりして、かえって生きづらいですよね。 喬太郎 そこなんですよね。そもそも落語って、そういうもんだと思うんです。でもその分、ものすごく考えられないような残酷なことも描いているじゃないですか。逆に芸能としてどうだろうと思うから、今演じなくなっちゃった。落語事典なんか読むと、「こんなのがあったんだ」っていう噺があるわけですよね。内容は陰惨で、とてもできない。 蓮二 以前、喬太郎師匠が「ハッピーエンドは残酷」って言っていて、それはホントにその通りで、自分の中に残っているんですよ。 喬太郎 なんでそんなこと言ったんだろうと思いますけれど。 蓮二 中途半端というか一方的な「よかったよかった」で、今までの葛藤は何だったんだ、っていうのは、やはり残酷だと思いますよ。 喬太郎 おとぎ話だって、相当残酷だったりするじゃないですか。「かちかち山」だってあれ、婆さんを爺さんに食わしちゃうんですよ、狸汁に見せかけて。落語が好きになってそういうものに出会うと、「人間ってそういうことなんだな、ここまで残酷なこと考えるんだな」とも思うし。 でも、なんだろうな。蓮二さんがさっきおっしゃったような優しさとかそういったものも共存してあるわけだし、そういうものがごっちゃごちゃになって人間の体の中にあるんだと思うんですよね。落語で優しさを描くときに、ことさら以上に実は描いてない感じが落語のよさなんじゃねえかな、っていう気もしますよね。 <関連記事:六代目神田伯山が松之丞時代に語る 「二ツ目でメディアに出たのは意外と悪くなかった」> <関連記事:太田光を変えた5冊──藤村、太宰からヴォネガットまで「笑い」の原点に哲学あり> ===== 蓮二 今って、ネットがものすごく身近じゃないですか。すごく助けられることも多いけれど、自分で手間暇かけて調べるというよりも、受け身での理解なので、わりと情報が流れていきやすい。 今ほど便利じゃない時代は、工夫しないと物事が動かないから、発想が飛びますよね。それと喬太郎師匠が同じ時代に生きてきた中で、つかこうへいさんや横溝正史作品とか共通の嗜好を知ると、うれしくなる。 喬太郎 高座でそんなことを言っちゃいけないと、思っていたんです。だって、僕の中にある個人的なことですから。つかこうへいやウルトラマン、金田一耕助の話なんて落語と全然関係ないじゃん、むしろ一番乖離していると思うから。 でも、新作やったりとか、若手の会で勉強しなきゃと思っていろいろやっているうちに、なんかしゃべんなきゃならなくなってくるんですよね、そうそうネタもないし、実はこんなのが好きでとか、自棄(ヤケ)になって話したりするんですよ。 古典落語やるには小唄端唄を習ってとか、そういうのを芸の裏打ちとしたほうが本当はいいでしょう。だけどやっぱり最後は胆力だったりするわけなので、開き直っちゃって、もう勝手に好きな歌、歌っちゃったりするわけですよ(笑)。そうすると、お客さんが笑う、うれしそうにしたりとか。そういう反応があると、「あ、そうだよね、同じ世代だもんね」とか「そうです、それやっぱり見てますよね」とか思うんですよね。 ことさらに現代を語れって言われるときには困っちゃうけれど、「1963年生まれの僕が、見てきた、感じてきたことでいいんだよね」って思ったら、すごく楽になった。 でも、それもそう思ったわけじゃなくて、あとから振り返ってみて思ったこと。だからきっと、弾けられるんですわ。そりゃ、流行とかファッションとかを熱く語れる人がいたらおしゃれで素晴らしいし、社会を経済を語れる人も素晴らしいし、すげえなと思うんだけれど。身の回りのことしかしゃべれない僕みたいな人でも、それは僕の身の回りのことだから、実際、今まで生きてきたことだからいいんだ。 蓮二 そこにみんな共感するんですよ。 喬太郎 己を語るか、作品を語るかみたいなことだと、なんだかものすごく語らなきゃならないみたいだけれど、普通に作品語ってたって、その人が生きてきたことが当然自分として出るわけなので。 そうすると、たとえば「芸は人なり」って言葉はそこにもあるんじゃん、と思ったりするんですよね。そこでどこまで脱線するかとか、保っていくかとか。 たとえばじゃあ、タバコって「吸う」んじゃなくて、「呑む」ものだよね、って思ったときに古典落語をやると、「ちょっとお前はん、タバコばっか呑んでないでさ」っていうのは、こっちのほうがいいよねと思うけれど、新作落語で「お前、禁煙禁煙のこのご時世に、よく今タバコなんか呑んでんな」って言ったら、ちょっとそぐわないですよね。今は、タバコは「吸う」ですよね。そこを考えるのが、プロの感性と仕事だと思うんです。 こういうふうに言葉にしちゃうと大げさになっちゃうんだけれど、噺家の仕事って極論ですけれど、「生きてることが仕事なんじゃねえか」と思いますよね。生きてること自体が仕事になってる。 まあたぶん、それってほかの仕事とかでもそうだと思うんですけれど、そんな気がしますよね。だからどう生きるかってのもあるけれど、人様にほめられるような生き方なんかできないんだけれど、でもそういうふうにしなきゃと思うと、またいびつなものになるし。 <関連記事:六代目神田伯山が松之丞時代に語る 「二ツ目でメディアに出たのは意外と悪くなかった」> <関連記事:太田光を変えた5冊──藤村、太宰からヴォネガットまで「笑い」の原点に哲学あり> ===== 蓮二 「己か作品か」って、別々のものじゃないんですよ。だから己を描いての作品になるし、作品を描いても結局、己になる。 喬太郎 そうなんですよね。でも、ちょっとそれの呪縛になっちゃった感じはあったかな。談志師匠が「伝統を現代に」とか「江戸の風」とかおっしゃっていたこともあったけれど。 蓮二 自分らは江戸に生きてないんで。 喬太郎 わかんない。 蓮二 江戸の風は、吹かないんですよ。吹きようがないんですよ。昭和40年代の風だと、いくらでも吹かせられるんだけどな(笑)。 喬太郎 そう、俺があんだけ嫌がってた80年代の風ビュンビュン吹かせますよ~。ビュンビュン吹かせちゃうよ、俺。 『喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集』 橘蓮二著 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) <関連記事:六代目神田伯山が松之丞時代に語る 「二ツ目でメディアに出たのは意外と悪くなかった」> <関連記事:太田光を変えた5冊──藤村、太宰からヴォネガットまで「笑い」の原点に哲学あり> ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年9月1日号(8月25日発売)は「コロナと脱グローバル化 11の予測」特集。人と物の往来が止まり、このまま世界は閉じるのか――。11人の識者が占うグローバリズムの未来。デービッド・アトキンソン/細谷雄一/ウィリアム・ジェーンウェイ/河野真太郎...他