<爆発的な感染拡大が進行しているのは事実だが、アサド政権が隠蔽工作を続ける切実な裏事情とは> シリア国内における新型コロナウイルスの公式の感染者数は、通貨リア・ポンドの公式の対米ドル為替レートと同じくらい正確だ──シリアの首都ダマスカスでは最近、こんなブラックジョークが人気を博している。 内戦と経済制裁、経済危機への対応に追われてきたシリアでは以前から、新型コロナウイルスの感染が爆発的に拡大しているとの噂がささやかれてきた。アサド政権は絶対に認めないだろうが、フォーリン・ポリシー誌はこの噂が事実であると確認。当局がかたくなに否定する背景には、なんとも皮肉な裏事情があることが分かってきた。 7月20日午後4時、高熱と呼吸困難で苦しそうな様子のアナス・アル・アブドラ(仮名)が、ダマスカス市内のムジタヒド病院に運び込まれた。12時間後、彼は死亡し、すぐに郊外の砂漠地帯にあるナジハ墓地に埋葬された。 ナジハ墓地と言えば、シリアの悪名高い刑務所で命を落とした無数の人々が埋葬されてきたといわれる場所。だが最近の衛星写真を分析すると、この地に新型コロナウイルスによる死者が多数埋葬されていることがうかがえる。 悲嘆に暮れるアブドラの遺族に向かって医師は、新型コロナに感染していたと伝えた。だが死亡証明書には肺炎による死亡としか記されておらず、家族は困惑している。 反政府陣営を支持する聖職者であるアブドラの父は情報機関に目を付けられていたため、弾圧を恐れてカタールで避難生活を送っている。だがアブドラは、危険を顧みずにアサド政権に歯向かえば残忍な処罰を受けるという不文律があるにもかかわらず、国内にとどまっていた。 彼は当局の標的ではなかった。だが結局は、シリア政府の非効率なコロナ対策のせいで殺されてしまった。 入院した先はダマスカス市内に3カ所ある新型コロナ対応の大型病院だったが、アブドラは人工呼吸器なしで呼吸ができず死に至った。彼の兄が匿名を条件にこう語ってくれた。「死者数を少なく見せたい政府に頼まれて、医師が本当の死因を隠したのかどうかは分からない。頭が混乱している。でもこれ以上は話せない。微妙な立場だから」 隣国ヨルダンは国境閉鎖 シリア政府の発表では、新型コロナ感染者数はわずか2500人ほどで、死者数は約100人。だがこの数字は実態のごく一部にすぎないと、筆者が話を聞いた10人以上のシリア人は口をそろえる。その中には、家族が新型コロナで死んだのではないかと疑念を持つ人や、怖くて感染した事実を報告しなかった人、接触者を追跡できず、患者と医療従事者の身を守る最低限の装備さえ足りない現状に不満を募らせる医療関係者などが含まれている。 【関連記事】無防備なシリア難民に迫る新型コロナの脅威──越境支援期間の終了で人道危機に拍車 【関連記事】伝えられないサウジ、湾岸、イランの新型コロナ拡大 ===== これまでに少なくともダマスカスの高位聖職者6人とメディア幹部3人、裁判官2人、新憲法の起草を目指すシリア憲法委員会の複数の委員らの感染が確認されている。隣国ヨルダンがシリアからの感染流入の激化を受けて、シリアとの国境を閉鎖したことも、シリアでの爆発的な感染拡大を裏付ける証拠と言える。 アブドラの兄との会話を機に、筆者はアブドラが暮らしていたダマスカス市内のアルミダン地区で自主隔離生活を送る多くの人々に話を聞くことができた。彼らは、同じような立場の人がもっと大勢いると主張する。 アブドラの甥とその隣人はどちらも新型コロナの症状が出ているが、国営の病院に行くのはできる限り避け、自宅で療養したいと話す。「隔離センターに行くのは怖い。刑務所みたいな場所だから」と、アブドラの甥は言う。「政府が怖いんだ」 「隔離センターは拘置所みたいで、民間人も拷問されて殺される」と、隣人が付け加える。彼らの言葉には、長年にわたって政府に抑圧され、体制批判の容疑がかかればすぐに投獄されてきた多くのシリア人が抱える国家への深い恐怖心がにじみ出ている。 こうした一種の「感染隠し」が、表向きはシリアの感染者が少なく抑えられている理由の1つだ。現体制に批判的な人は、どんな形であれ当局の目につきたくない。また、ろくな設備もない病院に入院しても、放置されて死ぬだけだと申告を避ける人もいる。 だが、シリアにおけるコロナ禍の実態把握を妨げているもっと大きな問題は、政府の積極的無策ともいえる姿勢だ。 ムジタヒド病院に勤務するある整形外科医は、明らかに新型コロナの症状を示す親戚30人に検査を受けさせたいと考えているが、実現していない。既に父親は新型コロナに感染して死亡した。だが保健省から感染経路を聞かれたことはないし、そもそも同省には感染拡大を抑え込もうという意欲すら感じられない。 「病院は1日1万人の検査をする必要があるが、せいぜい10%程度しかできていない」と、この医師は語る。「ムジタヒド病院に人工呼吸器は13〜15台しかなく、ダマスカス全体でも130台程度だ」 このままでは、今後数週間でダマスカス市民の4人に1人が感染する恐れがあると、医師は警告する。「政府は分かっているはずだ。それなのになぜ真実を明らかにしないのか、理解できない」 忠誠派もアサドに不満 元外交官のバサーム・バラバンディは、シリアに新型コロナをもたらしたのはイラン人だと考えている。アサド政権はイランの支援を受けており、ダマスカス近郊にはイラン革命防衛隊と、イランの代理勢力でレバノンの武装組織ヒズボラの要員が駐留している。イランは新型コロナの感染爆発が最初に起きた国の1つだが、「その震源は今、イランからシリアに移った」と、バラバンディは言う。アサド政権は3月にロックダウン(都市封鎖)を実施したが、経済のダメージが大き過ぎて、すぐに解除してしまった。 【関連記事】無防備なシリア難民に迫る新型コロナの脅威──越境支援期間の終了で人道危機に拍車 【関連記事】伝えられないサウジ、湾岸、イランの新型コロナ拡大 ===== シリア政府が表向きの感染者数を少なく抑えているのは、イランとつながる体制忠誠派の支持をつなぎ留めるためのようだ。「感染者が増えれば、現体制の正当性が傷つく」と、バラバンディは指摘する。 約9年に及ぶ内戦中にアサド政権を支えた忠誠派は今、見返りを求めている。だがアサドには提供できるものが何もない。期待された復興事業も、アメリカを中心とする経済制裁でストップしている。 6月にアメリカで発動されたシーザー・シリア市民保護法は、シリア政府や軍の高官に対する支援を禁じるものだ。同法の効果もあり復興投資はすっかりしぼんでしまった。 「忠誠派は、『現体制は食料も電気も供給できない。今度はウイルスでわれわれを殺す気か』と不満を募らせている。だから政府は感染者数を低く抑えて、万事うまくいっている印象を与えようとしている」と、バラバンディは語る。 シリアでは人口の半分以上が失業しており、80%以上が貧困ライン以下で暮らしている。ロシアと中国がコロナ対策に一定の支援をしてきたものの、国全体のニーズを満たすほどではない。 WHO(世界保健機関)は、マスクや手袋や消毒剤などのPPE(個人用防護具)440万点と、1日1000件以上の検査が可能なキットを提供してきたというが、ウイルスを封じ込めるためには十分ではないことを認めている。 アクジェマル・マグティモバWHOシリア事務所代表は、最大の問題として、医療従事者の圧倒的な不足を挙げる。シリアの医師たちは長年の内戦を嫌い、国外に出て行ってしまったのだ。経済制裁と、アメリカのWHOへの拠出中止も、シリア支援に打撃を与えている。 もとよりアサドは、一般市民の苦しみに心を痛める指導者ではないが、今は忠誠派にも背を向けつつあるようだ。 多くの市民は、政府が暗黙のうちに集団免疫の獲得という荒療治を選んだのではないかと危惧している。そして自分たちが必要とする支援は、永遠に届かないのではないかと絶望感を募らせている。 From Foreign Policy Magazine 【関連記事】無防備なシリア難民に迫る新型コロナの脅威──越境支援期間の終了で人道危機に拍車 【関連記事】伝えられないサウジ、湾岸、イランの新型コロナ拡大 【話題の記事】 ・「中国はアメリカに勝てない」ジョセフ・ナイ教授が警告 ・中国からの「謎の種」、播いたら生えてきたのは......? ・地下5キロメートルで「巨大な生物圏」が発見される ・ロシアが北朝鮮の核を恐れない理由 ・ハチに舌を刺された男性、自分の舌で窒息死 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます2020年9月8日号(9月1日発売)は「イアン・ブレマーが説く アフターコロナの世界」特集。主導国なき「Gゼロ」の世界を予見した国際政治学者が読み解く、米中・経済・テクノロジー・日本の行方。PLUS 安倍晋三の遺産――世界は長期政権をこう評価する。