<邁進する一帯一路構想でシーレーンが焦点に──中国から運河建設を迫られるタイのジレンマ> 太平洋における米中の新冷戦は、ひとまず脇に置こう。インドと中国の間では既に、はるかに熱い戦争が始まっている。今年6月にはヒマラヤ地方の係争地域で両国軍が衝突し、少なくとも20人が死亡した。 海上では、中国がインド洋の主要航路沿いに軍事基地や商業の拠点を確保する「真珠の首飾り」構想で、インドを包囲しようとしている。 インド洋、ひいてはインドの支配をうかがう中国の戦略にとって、最大の脆弱性はマラッカ海峡だ。シンガポールとスマトラを隔てるこの狭い海路は中国の海上貿易の生命線であり、海軍が南アジアに展開する主要な航路でもあり、さらに西へと覇権を拡大する入り口になる。 中国としては、インドとの対立と、アフリカや中東、地中海、さらにその先を目指す戦略的野心を考えれば、敵対する可能性のある国々の間を航行する海峡への依存は、なるべく弱めておきたい。 そこで、陸路と海路でアジアとヨーロッパを結ぶ経済圏構想「一帯一路」だ。その一環として、タイ南部のクラ地峡を拡張して運河を建設し、中国からインド洋に通じる第2の海路を開こうとしている。 この長大なタイ運河(クラ運河)が完成すれば、中国海軍は南に1100キロ以上迂回してマラッカ海峡を通過する必要がなくなり、南シナ海とインド洋に新たに建設した基地の間で船舶を迅速に移動させることができる。 つまり、中国にとって、タイ運河は極めて重要な戦略的資産となる。タイとしては、最大300億ドル規模の中国の運河建設を認めれば、「首飾り」に永遠につながれることになるかもしれない。 長年にわたり物議を醸してきた運河の構想は、タイの政治エリートの間で支持を広げつつあり、今月中に議会の特別委員会が提言をまとめる。批判的な立場を貫いてきたバンコク・ポスト紙も、社説で支持をにじませた。 タイにおける中国の工作が、世論の形成に一役買っている面もあるようだ。さらに、2014年5月の軍事クーデターを同盟国のアメリカが認めなかった後、タイは中国寄りに強く傾いている。 タイ運河の建設は、インドを包囲したい中国のもくろみにも合致する。中国海軍は近年、積極的に西へ西へと進出しており、ベンガル湾とインド洋に食い込み、東アフリカのジブチに「物流拠点」と称する軍事基地を設置した。さらにミャンマー、バングラデシュ、パキスタン、イラン、そしてロシアとも軍事演習を行っている。 【関連記事】中印衝突で燃えるインドの反中世論 【関連記事】核弾頭計470発、反目し合う中国とインドを待つ最悪のシナリオ ===== 中印国境での衝突を想定して演習に励む中国軍兵 CHINESE PEOPLE'S LIBERATION ARMY TIBET MILITARY COMMAND この地域全体で進められている港湾整備プロジェクトは、中国のインド包囲網を一段と強化するだろう。これに対してインドも、将来的に海上で中国と衝突する可能性を想定した軍備強化を進めている。ヒンドゥスタン・タイムズ紙が8月に報じたところによると、インドはベンガル湾南部に位置するアンダマン・ニコバル諸島の空軍力と海軍力を大幅に増強する計画だという。同諸島は、マラッカ海峡からインド洋に至るシーレーンが交差する戦略的要衝であり、タイ運河が実現すれば、そこを通過する船舶に目を光らせることもできる。 タイ政府の危うい賭け マラッカ海峡は、昔からグローバルな通商の重要な回廊だった。イタリアの冒険家マルコ・ポーロは、1292年に中国(元朝)から海路帰郷するときここを通った。1400年代には、中国(明朝)の武将・鄭和がここを通って南海遠征を進めた。 現在のマラッカ海峡は、中東の石油を東アジアにもたらし、アジアの工業製品をヨーロッパや中東にもたらす船が年間8万隻以上通過する。現在のシンガポールの繁栄は、この海峡の南端に位置することによって得られたものだ。 タイ運河があれば、タイもその繁栄の一部にあずかることができる──。タイ運河協会はそう主張している。運河の東西の玄関には工業団地やロジスティクスのハブを建設して、アジア最大の海運の大動脈をつくるのだ。 その主張には一定の合理性がある。現在の海運業界の運賃や燃費を考えると、タイ運河の建設は経済的に割に合わないと指摘する声もあるが、安全面から考えて、マラッカ海峡の通航量が限界に達しつつあるのは事実だ。 タイ運河の位置については複数の候補がある。現在有力なのは9Aルートと呼ばれ、東はタイ南部ソンクラー県から、西はアンダマン海のクラビまで約120キロにわたり、深さ30メートル、幅180メートルの水路を掘るというものだ。 だが、タイにとってこのルートは、自国を二分する危険がある。9Aルートはタイ最南部の3つの県を、北側の「本土」と切り離すことになる。それはマレー系イスラム教徒が住民の大多数を占めるこの地域の住民がまさに望んできたことだ。 近年、この地域では分離独立を求める反体制運動が活発化しており、しばしば国軍(タイ政治で極めて大きな力を持つ)と激しい衝突が起きている。そこに運河が建設されれば、二度と埋めることのできない溝となり、タイは今後何世紀にもわたり分断されることになるだろう。 【関連記事】中印衝突で燃えるインドの反中世論 【関連記事】核弾頭計470発、反目し合う中国とインドを待つ最悪のシナリオ ===== パナマ運河がいい例だ。かつてコロンビア領だったパナマ地峡では、1903年に分離独立を求める運動が起こり、運河建設を望んだアメリカの介入を招いた。結果的にパナマは独立を果たし、1914年にはパナマ運河が開通したが、以来パナマは事実上アメリカの保護領となっている。 1869年に開通したスエズ運河も、1956年にエジプトが国有化を断行するまで、イギリスとフランスの利権をめぐる軍事介入が絶えなかった。そしてエジプト政府は今、運河の向こう側に広がるシナイ半島で、イスラム反体制派の活動に苦慮している。 パナマ運河との共通点 今のところ、タイの領土的一体性は保たれている。だが、タイ運河が実現すれば、東南アジアの地政学は大きく変わるだろう。必然的にこの地域の安全保障パートナーとして、中国の介入を招くことになる。一度そうなれば、容易に追い出すことはできなくなる。パナマに聞いてみるといい。 中国は、カンボジア南西部のシアヌークビルと、ミャンマーのチャウピューの港湾整備計画と合わせて、タイ運河を「真珠の首飾り」の一部をなす戦略的水路と見なすだろう。もしタイに反中政権が誕生して、首飾りを壊すようなことがあれば、中国が最南部の分離独立運動を支援して、軍事介入に踏み切り、運河の支配権を握る可能性も排除できない。ここでもパナマが参考になる。 こうしたリスクに気付いたのか、タイのサクサヤム・チドチョブ運輸相は最近、運河ではなく鉄道や高速道路を建設するほうが望ましいと語った。また、地峡の両端に港を建設する計画と、陸橋を建設する計画の調査予算を確保したことも明らかにした。 タイ運河はアメリカとその同盟国、あるいは戦略的要衝を軍備増強して中国の拡張主義に対抗し得るインドには大きな脅威にはならないかもしれない。しかし一方で、ミャンマーやカンボジアなど、近隣の貧困国の独立を一段と脅かす恐れがある。これらの国は市民社会が比較的弱く、中国に介入されやすいからだ。それこそがタイにとっての絶対的な危険だ。 マラッカ海峡がシンガポールを豊かにしたのは、シンガポールが外国の影響を比較的受けないオープンな経済を持っているからだ。タイは、中国に危険な賭けを始める前に、その教訓を慎重に検討する必要がある。 From Foreign Policy Magazine <2020年9月15日号掲載> 【関連記事】中印衝突で燃えるインドの反中世論 【関連記事】核弾頭計470発、反目し合う中国とインドを待つ最悪のシナリオ 【話題の記事】 ・大丈夫かトランプ 大統領の精神状態を疑う声が噴出 ・中国からの「謎の種」、播いたら生えてきたのは......? ・地下5キロメートルで「巨大な生物圏」が発見される ・中国は「第三次大戦を準備している」 ・ハチに舌を刺された男性、自分の舌で窒息死 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます9月15日号(9月8日発売)は「米大統領選2020:トランプの勝算 バイデンの誤算」特集。勝敗を分けるポイントは何か。コロナ、BLM、浮動票......でトランプの再選確率を探る。