<感染拡大を防ぐ切り札として各国が期待を寄せるワクチンだが、意外なところに利用の壁が──> 人口約2億7000万人の約88%がイスラム教徒という世界最多のイスラム教徒人口を擁するインドネシアで、蔓延する新型コロナウイルスの予防策として期待されるワクチン開発が、中国の製薬会社と現在鋭意進められている。 そのワクチン開発をめぐって副大統領の要職にあるイスラム教指導者が「ワクチンの成分がイスラム教徒の人々が体内に取り込むに際し、禁忌とされる成分がないかどうか調べ、お墨付きとなる宗教令を発布する準備をするように」と、イスラム教組織に対して指示したことが明らかになった。 現在インドネシアは東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国中、感染者はフィリピンに次いで2番目に多く、9月8日には20万人を突破した。また死者ではASEAN最悪の記録を更新し続けており、ジョコ・ウィドド政権も効果的なコロナ感染対策を打てず手詰まり状態が続いている。 開発中のワクチンの成分調査へ そんななか、2021年初めからの使用を目指して現在インドネシアの製薬会社が中国の製薬会社などと共同でコロナウイルスに有効とされるワクチンの開発を進め、現在はフェーズ3の臨床試験を実施している最中と伝えられている。 こうしたおり、マアルフ・アミン副大統領が8月初旬に自らも幹部を務めるイスラム教組織「イスラム聖職者(ウラマ)評議会(MUI)」に対して「コロナワクチンの成分が、イスラム教徒として体内に取り込めるハラル(イスラム法で許されたものという意味)であるかどうかに関する宗教令(ファトワ)を出す準備に着手するように」と伝えていたことがわかったのだ。 これは地元紙テンポが伝えたもので、8月5日にオンラインで実施された「COVID19パンデミックとその法的影響におけるMUIファトワの役割」と題するセミナーの基調講演で、アミン副大統領がファトワ準備をMUIに求めたと伝えた。 ===== アミン副大統領は講演の中で「ファトワはガイダンスを提供し、真のファトワは常に(イスラム教徒の)利益に向けられ、困難に直面しないためのものである」とファトワの意義を強調して、ワクチンの成分がイスラム教徒にとって「適切かどうか」を調査して、「ワクチン接種が禁忌に当たるかどうか」の判断基準を示すべきだとの考えを表明したものだ。 ファトワがもつ意味とその効果 インドネシアでは食品や飲料そして化粧品など、口あるいは皮膚を通して体内に摂取される飲食物、化粧品、歯磨き粉、薬品などについて、イスラム教徒が禁忌とする「豚肉、豚肉の成分に由来する物質、アルコール成分」などが含まれていないかどうかを検査・調査。摂取可能な製品には「ハラル・マーク」がMUIから発行され、イスラム教徒はその「ハラル・マークの有無」を確認して購入することが一般化している。 近年この「ハラル・マーク」は飲食物や化粧品、薬品などからさらに拡大、冷蔵庫などの白物家電、さらに物流倉庫などにまで適用されている。 たとえば冷蔵庫の場合、豚肉やアルコールを一切冷蔵、冷凍したことがない製品という意味合いであり、倉庫は「一切禁忌物を収納しない倉庫である」という認識で「ハラル・マーク」が目立つように掲示されて販売、提供されているのだ。 過去には「はしか」のワクチンにNO イスラム教組織「MUI」は2018年当時、使用が検討された「はしか」ワクチンに対して「豚の成分、人間の細胞成分に由来する物質が含まれており、イスラム教徒は摂取することが禁じられている」として同ワクチンを禁忌とする「ハラム(禁じられているもの、の意味)」に認定した経緯がある。 今回インドネシアでも猛威を振るっている新型コロナウイルスの感染対策に関して、これまでにMUIは「個人用防護具を着用している医療関係者のイスラム教徒としての祈りの手順」や「健康プロトコルに従ってコロナ陽性患者を治療、監視する際の手順」「家でのパンデミック下での祈りの手順」等のファトワを出している。 ===== つまり個人防護具を着用した医療関係者がその服装でイスラム教の祈りをする際に通常の手順を踏まなくても可能とする事例」を例外として認めることや「医療現場での手指、手袋などを消毒するアルコール成分をどうするか」などに関する見解としてファトワを発し、イスラム教徒に対して「ガイダンス」を与えている。 医療か宗教か、政府の迫られる判断 もちろんインドネシアでは国是「多様性の中の統一」で認められているキリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒に関してはこの「ファトワ」は無関係で、一刻も早い有効なワクチンの開発と投与への期待が高まっている。 しかし圧倒的多数を占めるイスラム教徒の指導的立場にあり、副大統領という要職にあるアミン副大統領の「ファトワの準備を進めよ」との発言は影響力が大きく、今後有効なワクチンが開発されてもその成分にイスラム教徒が禁忌とするものが含まれていた場合、果たして医療機関による投与の許認可が正式に得られるのかどうかが焦点となる。 保健省保健研究開発局担当者は「ウイルス対策はまだ研究段階だが、インドネシアではフェーズ3段階の臨床試験を現在実施している」としており、エリック・トヒル国営企業相は国営企業の「バイオファーマ社」が進めているワクチン開発では2020年末までに2億5000万回分のワクチンが準備できるとの見通しを明らかにしている。 官民、医療・研究機関がワクチン開発に全力を挙げている最中、イスラム教組織からの「成分によっては大多数の国民が服用、摂取できない可能性について調査開始」というニュースは、一部のイスラム教関係者からは「当然のこと」と歓迎されている一方で「コロナ感染対策という最優先課題に疑問を投げかけるもの」との見方もある。だが、圧倒的多数を占めるイスラム教徒を前に声を潜めざるをえないのが現状といえる。 ジョコ・ウィドド政権は「命に関わる医療か、宗教か」という難しい選択を今後迫られることだろう。 [執筆者] 大塚智彦(ジャーナリスト) PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など 【話題の記事】 ・ロシア開発のコロナワクチン「スプートニクV」、ウイルスの有害な変異促す危険性 ・巨大クルーズ船の密室で横行するレイプ ・パンデミック後には大規模な騒乱が起こる ・ハチに舌を刺された男性、自分の舌で窒息死   ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます9月15日号(9月8日発売)は「米大統領選2020:トランプの勝算 バイデンの誤算」特集。勝敗を分けるポイントは何か。コロナ、BLM、浮動票......でトランプの再選確率を探る。