<テロが多い国でも、イスラム教指導者が襲われるのは異例中の異例> インドネシアのイスラム教指導者でカリスマ的存在である著名なウラマ(法学者)が9月13日、公開の場で行われていたイスラム教のイベントで壇上に駆け上がった若者に刃物で襲われ負傷する事件が起きた。 イスラム教指導者が公衆の面前で刺されるという異例の事件に政府、イスラム教組織などが素早く批判と事件の真相解明を治安当局に求める事態となり、折からのコロナ禍で頭を抱える政府にさらに頭の痛い事件となっている。 事件は9月13日午後5時20分頃、スマトラ島南部ランプン州の州都バンダル・ランプン市内で開催されていたイスラム教の行事で発生。壇上に座っていたカリスマ的指導者の一人として著名なシェ・アリ・ジャベル師(44)が、駆け上がってきた若者に刃物で襲われた。シェ・アリ師は右上腕部を刺され直ちに病院に運ばれて治療を受け、深さ約4センチの傷を負ったが命には別条はなく、容疑者もその場で取り押さえられ、逮捕された。 容疑者は24歳の若者、背後関係不明 ランプン州警察によると逮捕されたのはアルフィン・アンドリアン容疑者(24)で現在犯行動機について取り調べが進んでいる。同警察が地元マスコミなどに明らかにしたところによると、アンドリアン容疑者の家族から「同容疑者が以前精神的に不安定なことによる通院歴がある」との申し出があり、犯行は通常の判断ができなかった精神的問題に起因するものだとの主張があったという。 しかし同警察ではアンドリアン容疑者の犯行時の精神状態について独自に専門家による鑑定・診察をするとして、それ以外の犯行動機の可能性も視野に入れて広く捜査しているとしている。 一部ではアンドリアン容疑者とインドネシアのテロ組織との関係や中東のテロ組織「イスラム国(IS)」とのつながりを示唆する情報も出ているが、現時点でそうした組織的な背景の存在を示す明らかな証拠や情報はない、と治安当局はしている。 襲撃場面がSNSで全国に拡散 シェ・アリ師が壇上で襲撃される様子は動画で撮影されていて、直後からネットなどを通じて拡散した。壇上の椅子に座るシェ・アリ師の右側から突然容疑者が壇上に駆け上がって飛びかかりシェ・アリ師の右上腕部を手にした刃物で差す様子、そして被害に遭ったシェ・アリ師が立ち上がって容疑者に向かおうとする直後に周辺にいた人々が容疑者を取り押さえて殴る蹴るしている模様が異なるアングルからとらえられて映っている。インドネシア人の多くがこうした衝撃的な映像を目にしたのだ。 ===== インドネシアは世界第4位の人口約2億7000万人の88%がイスラム教徒という世界最大のイスラム教徒大国であり、そのイスラム教のカリスマ指導者がナイフで襲われるという今回の事件はあまり前例のない事件だけに大きな衝撃をもって受け止められている。 政府、イスラム教団体が即座に犯行非難 「インドネシア・イスラム指導者(ウラマ)評議会(MUI)」のアッバス師は直ちに声明を発表して「イスラム指導者へのこうした襲撃は平和への敵対行為であり、社会の安寧を破壊する行為である。イスラム教において尊敬されるべきウラマの命が危険にさらされることは憂慮すべき事態である」として政府と治安当局に事件の真相解明を求めた。 一方政府も素早い対応をみせ主要閣僚の1人であるマフード調整相(政治法務治安担当)が「シェ・アリ師への攻撃はインドネシアの平和に対する敵によるものであり、統一を破壊するものである。公正な法の裁きとともに背後関係を明らかにしなければならない」と述べ、治安当局に全国で活動するイスラム教指導者の身辺安全確保を指示したことを明らかにした。 インドネシアでは爆弾によるテロや自爆テロ、銃撃などはイスラム教テロ組織の常とう手段として以前から犯行の事例はあったが、刃物による襲撃はテロの手法としては珍しい部類に入るという。 2019年10月に首都ジャカルタ近郊バンテン州で当時のウィラント調整相(政治法務治安担当)がナイフで腹部を刺される事件が発生した。この時の容疑者はその後の調べでISに感化され、インドネシアのテロ組織「ジェマ・アンシャルット・ダウラ(JAD)」と関係があるテロリストであることが判明している。ここ数年で刃物による要人襲撃はこのウィラント調整相以外には報告されていないという。 今回はイスラム教の指導者を狙った犯行であることからイスラム教テロ組織と事件を直接関連付けるのは現時点では難しいとの見方がある。 しかし一方で、シェ・アリ師は数多くのテレビ番組や雑誌、新聞に登場してイスラム教を説くカリスマ的指導者として人気が高かったことなどから怨恨や逆恨みといった私的な動機、さらに「イスラム教をビジネスにしている」との曲解に基づく襲撃の可能性もありうるとして今後の犯行動機の解明が待たれている。 インドネシアはコロナ禍による感染者と死者数の増加が深刻化しており、首都ジャカルタ州政府は14日から「大規模社会制限(PSBB)」の緩和策を撤回して、厳しい制限を再度布告するなど、コロナ対策に四苦八苦しているのが現状だ。 それだけにこれまで安全とされてきたイスラム教指導者への襲撃事件が実際に起きたことで、政府や治安当局はさらなる対応策が迫られることになった。 [執筆者] 大塚智彦(ジャーナリスト) PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など 【話題の記事】 ・ロシア開発のコロナワクチン「スプートニクV」、ウイルスの有害な変異促す危険性 ・巨大クルーズ船の密室で横行するレイプ ・パンデミック後には大規模な騒乱が起こる ・ハチに舌を刺された男性、自分の舌で窒息死   ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます9月22日号(9月15日発売)は「誤解だらけの米中新冷戦」特集。「金持ち」中国との対立はソ連との冷戦とは違う。米中関係史で読み解く新冷戦の本質。 ===== カリスマ指導者が襲われた瞬間 襲撃されたカリスマ指導者シェ・アリ・ジャベル師と襲撃の瞬間の映像 KOMPASTV / YouTube