<メルケル独首相はナワリヌイ氏の毒殺未遂について、ロシア政府を非難──だが両国を結ぶ大規模パイプライン事業の存在がさらに強いメッセージを発信する障害に> ロシアの反体制活動家アレクセイ・ナワリヌイに毒物が使用された事件は、国際社会に厄介な問題を突き付けている。ロシア政府に強いメッセージを発信するにはどうすればいいのか、という問いだ。 ナワリヌイは、シベリアからモスクワに向かう旅客機の中で意識不明の重体となった。旅客機は緊急着陸し、ナワリヌイはシベリアのオムスクにある病院に入院。その後、家族らの希望でドイツに移送され、鎮静剤などで昏睡状態にあったものの、現在は意識を回復したという。 ドイツ政府は、ナワリヌイが神経剤のノビチョクを投与されたことを示す「疑いのない証拠」があると主張する。ノビチョクは旧ソ連時代に開発され、2018年には英ソールズベリーでロシアの元スパイであるセルゲイ・スクリパリとその娘に使われた。ロシア政府はナワリヌイの事件について、一切の関与を否定している。 9月4日には欧州議会議員100人がEUに対し、この事件について国際的な調査を求める書簡を提出した。EUの議長国は、現在ドイツが務めている。この事件にドイツが果たしている役割を考えても、議員たちの訴えは大きな意味を持つ。 ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、最も著名な反体制派の「暗殺を試みた」とロシアを厳しく非難した。「これ以上はないというほど明快な言葉だった」と、イギリスの駐ベラルーシ大使を務めたナイジェル・グールドデービスは言う。「メルケルは全てを投げ出し、カメラをにらむようにして語っていた。そんな細かな部分が事の重大さを物語っている」 だがメルケルは今、ロシアとドイツを結ぶパイプライン「ノルドストリーム2」の建設停止を求める圧力に直面している。バルト海の底を通るこのパイプラインは2005年に独ロ両国が建設に合意したもので、完成が間近に迫っている。開通すればロシアからドイツへの天然ガス輸送量が大幅に増え、経済活性化につながると期待される。 メルケルはこの事業とナワリヌイ事件は切り離して考えるべきだと表明してきたが、国内外の反発は大きい。特にアメリカは、自国エネルギーの輸出を促進したい狙いと、ドイツがロシアのエネルギーに過度に依存することへの懸念から、ドイツ政府への圧力を強めてきた。ただしドナルド・トランプ米大統領はナワリヌイへの毒物使用について、「まだ証拠は何も見つかっていない」としか述べていない。 ===== 建設中のノルドストリーム2(2019年9月) STINE JACOBSEN-REUTERS 現在は国際戦略研究所の上級研究員を務めるグールドデービスは「不思議なことに、トランプ政権はノルドストリーム2の建設をやめさせたいはずなのに、ナワリヌイ事件についてはほとんど言及していない」と指摘する。 「逆にメルケルはナワリヌイ事件を強く非難しているが、ノルドストリームについての発言はほとんどない。こうしたドイツとアメリカの立場の違いから矛盾が生まれ、さらに悪化していくのか。それとも意見の調和は可能なのか。その点が問われている」 パイプラインから撤退? ロシア政府の経済顧問を務めたアンダース・オスルントは、ロシアにどのような制裁を科すにしても、アメリカの主導の下で行うべきだと主張する。「実行しやすいのは、ロシアのソブリン債を制裁対象として、外国市場での借り入れコストを引き上げる方法だ」と、オスルントは言う。「ロシア経済は、2014年にアメリカとEUが行った制裁の傷痕がまだ十分に癒えていない」とも、彼は言う。 ロシアを含む各国で諜報活動に携わった元CIA工作員のスティーブン・ホールは、制裁がどれだけ効果を持つかは疑問だと言う。「制裁については既に手詰まり感がある」と、ホールは本誌に語った。「西欧諸国が本気でウラジーミル・プーチン(大統領)に対抗したいなら、制裁よりも効果的な方法を見つけなくてはならない」 アメリカの元駐ロシア大使で、反トランプの急先鋒でもあるマイケル・マクフォールは8月、ワシントン・ポスト紙に寄稿。ナワリヌイ事件へのトランプの対応を批判し、「ロシアについては善と悪の境界が明白であり、トランプは悪の側にいる」と書いた。 そうなると全てはEUに、しかも加盟国で一番の経済大国であるドイツに託される可能性がある。だがドイツが総工費95億ユーロ(約1兆2000億円)規模のパイプライン事業を中止するには、国外で起きた殺人未遂について国内世論が高まることが必要だ。しかも、この事業にはヨーロッパ12カ国から約100社が参加している。中止によって甚大な経済的損失を被るのはドイツだけではない。 昨年12月には、アメリカがこの事業の参加企業を対象にした制裁を決定し、主要な参加企業の一部が建設作業を停止していた。メルケルは、ドイツがアメリカの圧力に屈したようには見えない形でこの事業から手を引くには、今がチャンスだと計算しているのかもしれない。 ===== 英バーミンガム大学ロシア東欧研究所のリチャード・コノリー所長は「対ロ制裁が行われる可能性はない」と予想する。「そのような制裁を科すには、EU加盟国の満場一致の同意が必要だ。各国に対して、ナワリヌイのために深刻な社会・経済的損失を被る準備があると表明しろと言うのは、無理な話だ」 仮に制裁が行われたとしても「資産凍結や、一部の個人の渡航禁止」のように、極めて小規模なものにとどまるだろうと、コノリーは言う。ナワリヌイ事件をめぐる騒動の出口は、すぐには見つかりそうにない。 <本誌2020年9月22日号掲載> 【関連記事】ナワリヌイ毒物中毒にロシア「毒が入ったのはドイツに移送中」と示唆 【関連記事】メルケル首相「正直、苦痛だ」......相次ぐロシアのサイバー攻撃にEUが制裁 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます9月22日号(9月15日発売)は「誤解だらけの米中新冷戦」特集。「金持ち」中国との対立はソ連との冷戦とは違う。米中関係史で読み解く新冷戦の本質。