<パルチザンのスローガンを刻んだとされる「スローガンの木」の解説員の女性を保衛員は恐怖で支配していた> 北朝鮮のデイリーNK内部情報筋によれば、咸鏡北道(ハムギョンブクト)の延社(ヨンサ)郡で最近、47歳の保衛員(秘密警察)の男性が殺害される事件があった。犯人は、この保衛員の妻である。そしてこの事件と前後して、保衛員の愛人だった30代の女性が自ら命を絶った。 これだけ聞くと、日本でも珍しくない痴情のもつれによる出来事と思えるかもしれない。たしかに、そういった要素はある。しかし事件の詳細を見てみると、北朝鮮ならではの特徴も浮かび上がる。 保衛員の愛人だった女性は、現地の革命戦績地で長年にわたり「スローガンの木」の解説員をしていた。 革命戦績地とは、金正恩党委員長の祖父・金日成主席の率いるパルチザンが、抗日武装闘争を行っていた(と、北朝鮮公式の歴史では)されている場所のことだ。当局は、金日成主席の愛国心を見習えと、毎年多くの人々に見学を強制する。 そして「スローガンの木」とは、パルチザンの隊員らが森の中の木に祖国独立への想いを込めたスローガンを刻んだとされるものだ。 1986年、金日成氏が白頭山密営を訪れ、スローガンが刻まれた木を探せとの指示を下した。それをきっかけに、全国的にスローガンの木を探す活動が展開された。発見されたスローガンには朝鮮独立を求めたものもあれば、金日成氏を指導者として称えるものや、金正日氏の生誕を祝うスローガンが刻まれた木まで存在し、金氏ファミリー神格化の材料として使われている。 そのほとんどは当局がプロパガンダ目的でねつ造したものだとされるが、北朝鮮では文化財同然の扱いを受けている。アルゴンガスを注入したガラスケースに覆われ、メンテナンス費用は1本あたり年間数千ドルとも数万ドルとも言われている。 そんな「大事な木」の由来を、戦績地を訪れた人々に説明するのは、北朝鮮においては重要な仕事だ。出身成分(身分)が良いことはもちろん、才色兼備であることが求められる。 一方、男性の方は「スローガンの木」の担当保衛員だった。所属するのは、拷問や公開処刑で金正恩体制の恐怖政治を支えてきた保衛部である。 <参考記事:北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは...> 故意であれ過失であれ、スローガンの木を傷つければ重罪に問われる。実際に延社郡では2007年7月、スローガンの木を伐採して中国に売り払い、その利益で別荘を建て女性をはべらせてベンツを乗り回すなど、贅沢三昧の暮らしをしていた外貨稼ぎ機関の地方責任者が、公開処刑されている。 保衛員はこうした行為を取り締まると同時に、解説員たちの思想生活を監視する役目を負っている。解説員たちには非常に怖い存在だ。 保衛員と女性の愛人関係がどのように始まったかについて、現地情報筋は言及していない。しかしどうやら、保衛員は女性を恐怖で支配していたようだ。 独身のまま30代の半ばになった女性に対し、戦績地を管理する党関係者たちは、困ったことや悩みがあれば相談に乗ると、親身になって繰り返し話しかけた。そうするうちに、女性が保衛員との「不倫関係」を告白。この機にすべて清算したいと助力を求めたのだという。 彼女によれば、保衛員は「オレを捨てて他の男と結婚などしたら、結婚式の当日に殺してやる」と脅迫していたのだという。2人は10年以上にわたり、戦績地の施設内で毛布を敷き、男女の行為を続けていた。しかし、権力を笠に傲岸不遜に振舞うほかの保衛員たちの前例を考えるに、女性がそのような関係を持つようになったのも、暴力と恐怖の結果だったように思える。 <参考記事:若い女性を「ニオイ拷問」で死なせる北朝鮮刑務所の実態> 相談を受けた党関係者は、力を貸すと約束した。しかし、彼や同僚、その家族などを通じて情報が流出し、保衛員の妻が夫の裏切りを知った。怒りの余り、睡眠中の夫を刃物で殺害したという。 一方、情報が流出した事実は、女性本人の耳にも入ってしまった。女性は羞恥心から、職場で自ら命を絶ったという。あるいはそうせねば、戦績地での「行為」をとがめられ、彼女は当局によって裁かれる身になっていたかもしれない。 [筆者] 高英起(デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト) 北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)、『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)、『北朝鮮ポップスの世界』(共著、花伝社)など。近著に『脱北者が明かす北朝鮮』(宝島社)。 ※当記事は「デイリーNKジャパン」からの転載記事です。