<生きている以上、バカの存在を避けて通ることはできない......という理由から生まれた『「バカ」の研究』。各界の論客が傾向や対策法を研究した本だが、例えば「SNSにおけるバカ」はどんな特徴を持つのか> 『「バカ」の研究』(ジャン=フランソワ・マルミオン 編、田中裕子 訳、亜紀書房)とは、ずいぶん攻撃的なタイトルである。そもそも、なぜバカを研究する必要があるのか? その意図について、自称「あなたの忠実なバカ」である編者は次のように述べている。 わたしたちはみな、毎日ほぼ例外なく、バカなことを見たり、読んだり、聞いたりしている。それと同時に、自分もバカなことをしたり、思ったり、考えたり、言ったりしている。わたしたちは誰もがいつでもバカになりうる。(「はじめに:警告」より) 人生のどこかでバカになってしまうことは、多かれ少なかれ誰にでもあるわけである。確かにそのとおりだろう。しかし、それだけなら大したことにはならないはずだ。バカなことをしてしまったり、言ってしまったとしても、「バカだった......」と自覚し、反省できれば、それはそれで意義のあることなのだから。 人間である以上、多少の間違いは犯すのだから、やってしまったことを認めさえすればいいだけの話だ。 ただし、それでも問題は残されているという。私たちが誰かにとってのバカになった場合、それに気づける人は少ないということだ。また、多くの"よくいるありきたりのささいなバカ"の中には、ハイレベルでトップクラスの大バカ野郎も紛れ込んでいるものだと編者は指摘する。 たいていの職場や親族にいるこうした大バカ野郎の言動は、そのままスルーできるほどささいなものではない。その常軌を逸する愚かな言動、理不尽で意味不明な傲慢さに、わたしたちは途方に暮れ、嘆き、苦しむ。大バカ野郎は、自分の主張を決して曲げず、他人の意見に聞く耳を持たず、こちらの感情を無視し、尊厳を傷つける。そのせいでわたしたちはすっかり意気消沈し、この世に正義などないのではないかという気持ちにさせられる。(「はじめに:警告」より) つまり私たちは生きている以上、バカの存在を避けて通ることができないということなのかもしれない。そこで本書ではさまざまな領域から論客を招き、世の中にあふれるバカの傾向や、その対策法を明らかにしているわけである。 「なぜこんなにも他人を裁くのが好きなのか」フーコー 今回はその中から、パリ第3(新ソルボンヌ)大学名誉教授、メディア映像音響研究センター創設者・名誉会長のフランソワ・ジョスト氏による「SNSにおけるバカ」に焦点を当ててみたい。 ジョスト氏は著者『デジタル時代の行動における悪意』[未邦訳]の中で、SNSをドイツ人哲学者のカントにならって〈悪意の先験的条件〉と呼んでいる。「ネット上で悪意を表明するのを可能にする条件」こそがSNSだということである。 【関連記事】 1件40円、すべて「自己責任」のメーター検針員をクビになった60歳男性 ===== 〈悪意の先験的条件〉は、大きく3つに分けられるそうだ。 ひとつ目は、著述家で映像作家のギー・ドゥボールが述べた〈スペクタクルの社会〉だ。ここではすべての経験が可視化される。つまり、人間の生活がスペクタクル化され、うわべだけになる。状況主義者(シチュアシオニスト)であるドゥボールは、これを次のように定義した。「スペクタクルとは、イメージの集まりではなく、イメージによって媒介される社会的な人間関係のことである」(180ページより) この定義は、そのままフェイスブックに転用できるという。フェイスブックでは、写真(イメージ)こそがユーザーの人格となり、それが「友だち」との関係性を築くということだ。 すなわち"フェイスブック社会"では、イメージこそがあらゆる媒介の中心にあるということであり、したがってツイッターの場合でも似たようなことが言える。 ふたつ目の特徴は、何でも手当たり次第に他人を裁こうとする傾向だ。一九八〇年、ミシェル・フーコーはこのように述べている。「なぜ人間はこんなにも他人を裁くのが好きなのか。おそらく、人類に与えられたもっとも簡単にできることのひとつだからだろう」(181ページより) 近年は動画投稿サイトやネットコミュニティサービスが多様化したため、個人がコメントを書き込める場が増えた。しかもユーザーはハンドルネームによって身分を隠せるため、リスクを負うことなく過激な発言ができる。 その結果、「『裁き愛」にますます拍車がかかった」とジョスト氏は表現しているが、いわば「炎上」の土壌が明確に出来上がっているわけである。 性別や年齢に関係なく、我々はたいていバカだから 個人主義や自己中心主義は、決して目新しいものではない。しかし、「世界は自分中心に回っている」と思わせる(錯覚させる)効果のあるインターネットが、それをさらに肥大化させたことは否定のしようもないだろう。 例えばフェイスブックの「ライブ動画配信」は、スマートフォンで撮影した自分の周囲の世界を他の人たちに見てもらうための機能だ。早い話が誰でもニュースメディアになれるわけで、それこそが"肥大化した自己中心主義の新たな症状のひとつ"だということである。 ただし、それが開かれた機能である以上、他の人も同じことをしているということにもなる。だから各人の中には必然的に「誰よりも有名になりたい」という欲求が芽生えるのだ。すなわち、そんな「自らの存在意義のために有名になりたいという欲求」こそが、SNSの3つ目の特徴であるという。 【関連記事】「売春島」三重県にあった日本最後の「桃源郷」はいま...... ===== (1)生活のスペクタクル化、(2)何でも裁きたがる傾向、(3)有名になりたいという欲求......こうしたSNSの三つの特徴は、〈悪意の先験的条件〉であるのと同様に、〈バカの先験的条件〉とも言えるかもしれない。(182ページより) だが、これら3つが「バカの定義」であるならば、「SNSでバカな発言をするのは、いったいどういう人物なのか」という疑問にぶち当たることにもなる。SNSユーザーのプロフィール欄には詳細が記載されないため、人間性も性別も、年齢さえも分からないからだ。 ジョスト氏は自身が行った調査をもとに、(書きことばのスペルミスが多いなどの理由から)若者が多いのではないかと推測しているが、そこにはいささかの疑問も残る。なぜなら性別や年齢に関係なく、程度の差こそあれ、我々はたいていバカだからだ。 バカに関するこうした考察は、バカだけでなくアホやまぬけにも有効だ。性別、年齢、社会的立場も問わない。あらゆるタイプのバカ、アホ、とんま、まぬけ、うすのろ、脳たりん、おたんこなす、ぼんくら、抜け作、とんちんかん、ふぬけ、ボケ、たわけ、愚鈍、愚者、痴人、おたんちん、たわけ、あんぽんたん、ドジ、パッパラパー......本書『バカの研究』は、こうしたすべての人たちにスポットライトを当てている。これはあなたたちのための本だ。ただし、あなたたちは自分のことだと気づかないかもしれないが......。(「はじめに:警告」より) 編者もこう主張している。つまり私たちはみなバカであり、それを自覚することが大切なのだ。そうした境地まで到達できれば、本書をより深く味わい、笑い、ちょっと傷つき(でも、バカだからすぐに復活し)、いろんな意味で楽しめるのではないかと思う。 『「バカ」の研究』 ジャン=フランソワ・マルミオン 編 田中裕子 訳 亜紀書房 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) [筆者] 印南敦史 1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。新刊は、『書評の仕事』(ワニブックス)。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。 ※画像をクリックするとアマゾンに飛びます9月29日号(9月23日発売)は「コロナで世界に貢献した グッドカンパニー50」特集。利益も上げる世界と日本の「良き企業」50社[PLUS]進撃のBTS