<6億人がトイレのない生活を送るインドで、モディ首相が2014年に提唱した政策「スワッチ・バーラト」。5年間で野外排泄をゼロにする目標を掲げ、実際に2019年、モディは目標達成を宣言した。だが本当に改善されたのか? 共同通信社記者の佐藤大介氏が、トイレ事情からインドの実態に迫ったルポ『13億人のトイレ――下から見た経済大国インド』(角川新書)より一部を抜粋する> 使われていないトイレ ニューデリーから車で南に約6時間。幹線道路の両脇には畑が広がり、点在するレンガ工場からは煙がのぼっている。横道に入り、陥没して水溜まりだらけの粗末な舗装道路を進んでいくと、インド西部ラジャスタン州のヒンダウン市に着いた。広大なタール砂漠を有するラジャスタン州だけあって、通りには牛のほかにラクダも闊歩している。そこからさらに1時間ほど車を走らせると、キビ畑に囲まれた小さな集落が現れた。人口約1800人のアンダンプラ村だ。傾きかけた電柱には、細い電線がたるんでつながっている。電気の供給も不十分なこの村が「野外排せつゼロ」を宣言したのは、2018年10月のことだ。村内を歩くと、学校など公共施設の塀にトイレの使い方を示した絵が描かれていた。 カメラをぶら下げながら歩いている外国人の姿が珍しかったのか、中心部にある広場で村人に話を聞いていると、どこからともなく人々が集まってくる。いつの間にか、周りには20人ほどの男たちで人だかりができていた。そこで、彼らにある質問をしてみることにした。 「皆さんの中で、家にトイレがある人は手を挙げてくれませんか」 そう尋ねると、1人だけが手を挙げた。そこで、もう一つ、別の質問を投げかけてみた。 「では、皆さんの中で、今でも野外で用を足している人は手を挙げてください」 そうすると、全員が笑いながら手を挙げた。私が少し驚いたような表情を浮かべていると、初老の男性が手を挙げながら口を開いた。「昔から外で用を済ませてきたんだ。今になって変える理由もない」。妙に力強い言葉に、その場にいたほかの男性たちが次々と首を横に振る動作をした。日本では否定を示すような動作だが、インドで首を横に振るのは、同意や肯定を意味している。誰もが、その男性の言い分に納得している様子だった。 トイレは妻のたっての希望でつくられた アンダンプラ村にあるトイレは10基ほど。家にトイレがあるかとの質問に、唯一手を挙げたポラン・サイニ(50)の自宅庭には、そのうちの2基があった。トイレを設置したのは2018年末。1基当たり約2万5000ルピー(4万円)の費用は銀行から借金して充てた。キビの栽培と飼っている水牛のミルクを売って生計をたてているサイニにとって、年収の10分の1程度にあたる額だ。だが、そのトイレをサイニは使っていない。 「せっかくトイレをつくったのに、使わないのはもったいなくないですか」 「そうかもしれないけど、トイレを掃除したり、水を管理したりするのが面倒だ。それに、地下にあるタンクが(汚物で)いっぱいになれば、回収する費用もかかるだろう」 「じゃあ、トイレに行きたくなったら、どこで用を足すのですか」 「あそこだよ」 サイニは、笑いながら裏庭の雑木林を指さした。そこは、以前から「トイレ」として使ってきた場所でもある。自宅庭にあるトイレは、2基のうち1基が使われないままになっており、農作業の道具などを収納した物置と化していた。 ===== 自分では使わないのに、なぜトイレをつくったのか。それは妻のプレムアティ(45)が望んだからだった。 「政府が『女性のためにトイレをつくろう』と宣伝しているので、妻がそれに感化されてしまったのですよ」 苦笑いしながら話すサイニの傍らで、プレムアティは恥ずかしそうな表情を浮かべていた。 「どうしてトイレをつくってほしいと思ったのですか」 「政府がトイレをつくろうと呼びかけているのを見て、トイレのある暮らしをしてみたいと思ったのです」 「外で用を足すのとは違うでしょう」 「そうですね。外だと周りの目も気になります。トイレをつくって最初はどうやって使うのかわからなかったのですが、今はもうすっかり慣れました」 プレムアティは、話し終えると照れたような笑みを見せた。近隣の女性たちも、サイニ宅のトイレを使いに訪れるという。村の男性たちにとっては負担にしか感じないトイレの設置も、女性たちには生活だけではなく、気持ちの変化をもたらすきっかけとなっていたのだ。 「野外排せつゼロ」のカラクリ 一方で、当然ながら湧いてくる疑問がある。ほとんどの男性が野外で用を足しているのにもかかわらず、なぜアンダンプラ村は「野外排せつゼロ」を宣言したのかという点だ。その疑問を確かめるために、村人から住所を聞き、村長のチャンドラパル・ベニウェル(47)の自宅を訪れた。 ベニウェルは、キビ農家を営む傍ら、アンダンプラ村など三つの村長を務めている。アポなしで訪れたのにもかかわらず「インドのトイレについて取材をしている」と話すと、庭にテーブルと椅子を用意し、紅茶を振る舞いながら対応してくれた。高級そうなサングラスと腕時計を身につけ、右手の薬指にはゴールドの指輪が光っている。村の男性たちとは違って、どこかこざっぱりとした印象だ。 ひととおり日本の話題やインドでの生活、アンダンプラ村の印象などを話した後、単刀直入に尋ねてみた。 「アンダンプラ村では多くの人が、いまだに野外で用を足しています。それなのに、アンダンプラ村が『野外排せつゼロ』というのは、実態と違うのではないですか」 外国人記者に余計なことを聞かれたと、顔をしかめられるのではないかと思ったが、それは杞憂だった。ベニウェルは顔色を変えるわけでもなく、当然のことといった表情で「まだ多くの人が野外で用を足しているのは事実です」と、あっさり認めてしまったのだ。 「いろいろな形でトイレを設置して使うように指導しているのですが、なかなか時間がかかりますね。トイレの数は少しずつですが増えています。もちろん、日本から見たらまだまだだと思うかもしれませんが、トイレのなかった村からすると大きな進展なのですよ」 ベニウェルはそう笑いながら話し、悪びれているような様子はまったくない。 ===== たとえ村人の中に野外で用を足している人がいたとしても、トイレを一定程度設置して、使える環境を整えたのなら「野外排せつゼロ」と宣言してもいい。それが、アンダンプラ村が「野外排せつゼロ」を宣言できた理屈だった。驚いたのは、その「理屈」はベニウェルが勝手に思いついたのではなく、政府の担当者から説明されていたという点だ。事実をねじ曲げた「誇張」は、政府のお墨付きだったのだ。そうなってくると、モディが高らかに宣言したインド全土での「野外排せつゼロ達成」は、ずいぶんと怪しくなってくる。 トイレ設置が進んでも野外排せつが減らない そうした疑念を裏付けるデータがある。経済問題を扱うインドの非政府組織(NGO)「r.i.c.e.(Research Institute for Compassionate Economics)」が、四つの州を対象にして行ったトイレの設置や使用状況、野外排せつに関する調査だ。r.i.c.e.が調査を実施したのは東部ビハール州、中部マディヤプラデシュ州、北部ウッタルプラデシュ州、そしてアンダンプラ村のある西部ラジャスタン州。いずれも農村部が多いエリアで、この4州がインド全体の農村部人口の約4割を占めている。「スワッチ・バーラト」がスタートした2014年と、ゴール間近い2018年の2度にわたって調査を行っており、農村部でトイレ普及がどれだけ進んでいるか、その傾向を知ることができるというわけだ。 最も興味深いのは、2018年の段階で4州の人口の44%が、依然として野外排せつを行っていたというデータだ。2014年は70%だったことを考えると、4年間で大きく減少したことは間違いない。だが、ビハール州以外の3州は、2018年の時点で早々と「野外排せつゼロ」を宣言してしまっている。野外排せつをする人が減少しているのは事実だとしても、一気に「ゼロ宣言」まで行ってしまうのは、さすがに行き過ぎだろう。 2014年に「野外排せつをしている」と回答したのは、ラジャスタン州の76%を筆頭に、ビハール州(75%)、マディヤプラデシュ州(68%)、ウッタルプラデシュ州(65%)で、いずれも6割以上を示していた。その割合は、2018年にはマディヤプラデシュ州で25%、ウッタルプラデシュ州では39%にまで減少しているものの、ラジャスタン州は53%、ビハール州が60%と、この2州では依然として高い水準を維持している。アンダンプラ村で多くの男性がいまだに外で用を足していることを考えれば、この数字は決して実態とかけ離れたものとは言えないだろう。 r.i.c.e.は報告書の中で、「スワッチ・バーラト」によって野外排せつをする人が減る効果が出ているとしながらも、「(スワッチ・バーラトの)ウエブサイトはトイレの普及を大げさに見せている。野外排せつを2019年10月2日までに根絶できないのは、ほとんど明らかだ」と言い切っている。この調査で興味深いもう一つの点は、家庭へのトイレ設置が進んでも、野外排せつが減ることには直結していないことだ。 ===== 調査にあたったr.i.c.e.の研究員、ナザール・カリドによると「今も野外排せつを続けていると答えた人のうち、およそ半数は自宅にトイレがある」という。そういえば、確かにアンダンプラ村のサイニも、自宅にトイレがありながら使っていなかった。 「トイレの清掃や管理が面倒との理由で、野外で用を足す方が楽で便利と思ってしまうのです。そうした人々の考え方を変えない限り、野外排せつはなくなりません」 カリドの指摘は、インドの農村部を中心に、長年続いてきた外で用を足す習慣をなくすのが、いかに難しいかを表している。 だが、そうした実態をインド政府が知らなかった、というのも考えづらい。少なくとも、州政府(インドでは州ごとに選挙で州首相が選出され、議会運営を行う)レベルでは足元の状況について、詳しく把握していたと考えられる。r.i.c.e.の調査からもわかるように、その実態はあまりにもあからさまで、容易に知ることができるからだ。 依然として野外排せつはなくならない。ところが、「スワッチ・バーラト」の達成期限は刻一刻と迫ってくる。そうした中、難局を乗り切るための秘策を思いついた切れ者が、政府職員の中にいたのだろう。 「いつの間にか『スワッチ・バーラト』の達成は、トイレをどれくらい設置したかという『数』に重点が置かれるようになった。トイレを増やせば、人々が野外で用を足さなくてもいい環境が整う。そうすれば、誰もが自ずとトイレを使うはずだ。それは即ち、野外排せつの根絶を意味する。州政府や中央政府は、そのように解釈するようになったのです」 カリド研究員の説明は、アンダンプラ村の村長から聞いた話と重なった。 『13億人のトイレ ――下から見た経済大国インド』 佐藤大介 著 角川新書 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)