<知っておくべきワクチンの基礎知識と世界で進む開発・獲得競争──最前線で何が起きているのか。乗り越えるべき課題は? 感染症対策の第一人者・國井修氏が徹底解説する。本誌「日本人が知らないワクチン戦争」特集より> ワクチン、またそれを用いた予防接種とは何か。簡単に言うと、病原体、すなわち「敵」をヒトの体内で認識・学習させ、それに対抗できる「特殊部隊」を作り、本物の「敵」の来襲に備えるものである。 ヒトの病原体に対する抵抗力を「免疫力」(「疫(えやみ、やまい)」から「免れる」)と呼ぶ。敵の特徴や武器に応じてヒトの体内で特別に作られる特殊部隊を「獲得免疫」といい、なかでも重要なのが「抗体」だが、どのような敵に対しても防御する一般部隊「自然免疫」もヒトは生まれながらにして持っている。 私はアマゾンの奥地、アフリカのサバンナ、インドのスラム街などでも働いたことがあるが、あれほど過酷で、目を覆うほどに汚い環境の中でも、病気にならない、またかかっても死なずに自然に治癒する人が多いことに驚かされた。 確かに、コレラ、赤痢、マラリアなどの感染症に倒れる人もいる。しかし、それ以上に症状も出ずに元気に暮らす人も多いのだ。人類が持つ自然の、また獲得し鍛えられていく「免疫力」に畏敬さえ感じたものだ。 今回のコロナ禍でも、感染しても軽症で自然に治癒する人が8割以上、無症状を含めればかなりの数に上ることが分かっている。特に50歳未満で基礎疾患がなければほとんどが無症状か軽症で、重症化したり死亡したりする人は少ない。新型コロナにも打ち勝つ免疫力を持つ人は多い。 しかしながら、勝てない人々もいる。今も世界では高齢者を中心に毎日5000人前後の死亡が報告され、院内感染によって機能不全となる医療機関や停滞する社会・経済活動がある。だからこそ、新型コロナの感染を予防する、または重症化を防ぐワクチンの登場に期待が集まるのだ。 以前、ワクチンと言えば、生きてはいるが病原体の威力を弱めて使う「生ワクチン」、病原体を殺して使う「不活化ワクチン」、病原体が作る毒素の毒性を消して使う「トキソイド」の3種類だった。最近ではバイオテクノロジーの発達で、さまざまなワクチンの製造方法が開発されている。DNAワクチン、mRNAワクチン、ウイルスベクターワクチン、組み換えタンパクワクチンなどと呼ばれるものである。 開発中の主なワクチンの種類とメカニズム 本誌2020年10月27日号21ページより 簡単に言えば、以前は病原体自体を培養して、それを弱毒化・死滅させるなどして使っていたが、新たな方法では病原体の設計図(遺伝子情報)を使って、敵の一部やそれに似たものをヒトの体外や体内で作り、体内でそれらを認識させ、特殊部隊(=獲得免疫)や一般部隊(=自然免疫)を強化するものである。 ===== その設計図としてDNAやmRNAを使ったり、無害な別のウイルスの中に設計図を忍び込ませてそれを運び屋(ベクター)としてヒトの体内に入れたり、昆虫や植物、哺乳動物の細胞などで「敵の一部」(特に、ヒトの細胞に侵入する際に鍵の役割をする新型コロナの表面にあるスパイクの抗原タンパク質)や「敵に似たもの」(ウイルス様粒子)を作ってヒトに投与するなどの違いがある。 ワクチンはいつできるのか 一般に、生ワクチンは「生きた敵そのもの」を使うので獲得する免疫力が強いと言われ、これまでもBCG、ポリオ、麻疹、風疹などで多くが開発・使用されてきた。欠点としては、ウイルスを弱毒化してもそれによって感染が引き起こされるリスクがゼロではないことだ。 不活化ワクチンも、生きていなくとも「敵そのもの」なので、生ワクチンには劣るが免疫を獲得でき、これまでインフルエンザや日本脳炎などで実績もある。 ただし、両方のワクチンとも製造するには培養を含めて時間や手間がかかり、例えばインフルエンザワクチンでは鶏の受精卵を10~12日温めてからウイルスを注射し、2日後に増殖したウイルスを採集する。卵1個で大人1人分しか採れないため、大規模な製造施設も必要だ。 これに対し、バイオテクノロジーを駆使すれば、病原体自体は接種しないので感染リスクがない上、遺伝子情報を得た後は開発への着手が早く、迅速かつ大量に製造できるという利点がある。欠点は研究開発の実績が乏しく、有効性や安全性に不透明な点が多いこと。ウイルスベクターワクチンも、無毒であっても他のウイルスを運び屋として使うので、それ自体に免疫ができて、2度目以降の投与で効果が下がることがある。 いずれのワクチンも、効果を上げるために複数回接種したり、アジュバントと呼ばれる強化剤を添加するなどの工夫もなされる。有効性と安全性、年齢や性差による違いなどもしっかり把握する必要があるため、これまでワクチンの研究開発には10年以上の年月がかけられてきた。 では、新型コロナに有効なワクチンはいつできるのだろうか? WHO(世界保健機関)の最新情報(10月15日)によると世界で研究開発中のワクチン候補は198あり、うち42が臨床試験中で、最終の第3相試験に入ったものが10候補ある。 過去のデータからは、基礎研究や非臨床試験から臨床試験に行き着くのが1割弱、臨床試験の最終段階をクリアするのはその2~3割とされている。現在の進捗状況では、今年末までに2候補の治験結果が判明し、うまくすれば来年初めまでに承認・接種開始となるワクチンが登場する可能性もある。特にヨーロッパでの「第1号」は英アストラゼネカらが開発中の「AZD1222」と予想されている。 世界で進むワクチン開発競争 本誌2020年10月27日号22ページより しかし最終的に、効果が強く長く持続するワクチンが開発されない可能性もある。HIVでは過去30年以上で250以上の治験が行われたが、市場に出たワクチンは1つもない。また開発に成功しても、その予防効果が100%で持続する、とは限らない。50%程度、短期持続でも承認を受ける可能性がある。 実は治験中ながら、実質的に使用されているワクチンもある。中国のシノファームなどが開発するもので、軍人、さらに医療、運輸、食品市場などの労働者が既に接種した。また、ロシア政府は世界初の人工衛星にちなんで名付けられたワクチン候補「スプートニクV」を8月上旬、臨床試験の第2段階の終了時に世界初で認可し、9月から4万人のボランティアが接種している。 ===== このような治験完了前の緊急使用は、偽薬を使ったグループと比較した信頼性のあるデータが不足し、有効性と安全性の判断が困難であるため、懸念を示す専門家は多い。 富裕国の買い占めを防ぐには そんな状況下、世界では既にワクチンの獲得競争が始まっている。 原稿執筆時点でアメリカは6種類のワクチン候補の製薬企業と交渉して8億回分、イギリスは3億8000万回分、日本は2億8000万回分のワクチンを確保し、EU、オーストラリア、セルビア、スイスなども合意に至っている。交渉中も含めるとこれまでに直接交渉で確保されたワクチンは69億回分超と言われる。 これには批判も多い。2021年末までに世界中で生産できるワクチンの量は20億~40億回分が限界で、また世界で最も進んでいる5つのワクチン候補の開発に成功しても、少なくとも2022年までは世界人口の3分の2はカバーできないとの指摘がある。その限られたワクチンの多くを、世界人口の13%しかない高所得国が買い占めようとしているからである。 さらに懸念されているのが値段だ。有効なワクチンが開発されても、開発した企業が高額特許料を取り、開発途上国に行き渡りにくいワクチン価格に設定される可能性もある。 主要メーカーからのワクチン争奪戦 本誌2020年10月27日号23ページより これに対し、新型コロナとの闘いで決め手となるツールである検査、治療、ワクチンの研究開発を促進し、特に低中所得国で必要とする人々に届けようとの国際協力・連携が進んでいる。「ACTアクセラレーター」と呼ばれるパートナーシップである。 私が勤務するグローバルファンド、WHO、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団など9つの国際機関・財団などが中心となり、他の国際機関、大学・研究機関、民間企業なども参加・協力している。過去にも感染症対策で国際協力が行われたが、今回は前例のない規模と広がりを持つ、画期的な協力体制だといわれる。 ACTアクセラレーターは、「2021年中旬までに低中所得国の5億人に新型コロナの検査と2億4500万人への治療、2021年末までに低中所得国の10億人を含む世界の20億人にワクチンを提供する」という目標を設定した。私が統括する局の専門家、WHOや英インペリアル・カレッジ・ロンドンなどの専門家などが投資計画を策定し、これらの目標達成のため380億ドルの資金調達を進めている。しかし、執筆時点で世界から調達できた額はわずかに30億ドル。必要額の10分の1にも満たない。 ACTアクセラレーターは、先進国政府によるワクチン買い占めを防ぎ、開発途上国の人々にも公平にワクチンが行き渡るような仕組み、ワクチン共同購入ともいえる「COVAX」を構築した。これにはワクチン事前買取制度(AMC)と呼ばれる制度が導入されている。経済力のある国がある一定の金額(人口の20%分のワクチン費用の15%)を前払いしてワクチンを購入する権利を得る一方で、その資金を研究開発の加速化と開発途上国へのワクチン供与に充てる。 ワクチン接種の優先順位は COVAXの魅力としてリスク低減がある。製薬企業との直接交渉では、その企業のワクチン開発が失敗した場合、資金は基本的に返金されないが、COVAXではアストラゼネカ、モデルナなどが作る9種類のワクチンを対象としており、加えてさらに9つのワクチン候補を専門委員会が審査し、参加を検討している。いくつかのワクチン候補が失敗してもほかで成功する可能性があるのだ。 ===== モデルナ社のmRNAワクチンは臨床試験の最終段階に(米メリーランド州) AMANDA ANDRADE-RHOADES-THE WASHINGTON POST/GETTY IMAGES また、COVAXでは20億回分のワクチン接種を目指して共同購入するため、各国が直接交渉するより価格を下げやすい。現時点で企業が設定しているワクチン価格は、例えばモデルナは1人分2回接種で64~74ドル、ファイザーとビオンテックのワクチンだと1人分2回接種で39ドルだが、COVAXでは1回分3ドルで中低所得国に提供する計画だ。 10月9日時点で、富裕国の77カ国・地域がCOVAXに参加し、これにより低中所得の92カ国へのワクチン普及を促進する。中国も10月9日に参加を発表したが、執筆時点でアメリカ、ロシアは不参加のままだ。それでもCOVAX参加国は世界人口の8割以上を占め、COVAXの立ち上げ資金として約17億ドルが集まった。ただし、2021年末までに20億人にワクチンを送り届けるには約160億ドルを要し、いまだに大きな資金ギャップがある。 この資金ギャップが埋まらなければ、また埋まっても20億人より多くにワクチンを届けるには、発展途上国は実質的に自前でワクチンを購入しなければならない。ここで特許料によるワクチン価格が問題となる。 現在、緊急事態や公共の利益のために特許権の制限を可能にする「TRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)」の適応や、製薬会社との交渉を引き受けて特許権を一括管理し、ジェネリック(後発医薬品)メーカーなど第三者も製造できるようにする「医薬品特許権プール(MPP)」などが検討され、その動向が注目される。 仮に効果的なワクチンが開発され、資金が集まっても、乗り越えるべき課題は少なくない。 1つ目は、早期において限られたワクチンを誰に接種するのかという課題だ。最近、イギリスの諮問委員会が政府に示した助言では、優先すべきワクチン接種対象者として医療従事者や介護施設などの介護者、さらに死亡リスクの高い高齢者や基礎疾患(呼吸器・循環器などの慢性疾患、肥満、糖尿病、癌など)を持つ者が挙げられた。国によって、感染・死亡リスクの高い集団、感染・死亡した場合の社会的影響の大きい集団が異なることもあるため、早めにそれらを把握し、優先順位を決めておく必要がある。 2つ目は、ロジスティクス。今回候補になっているワクチンの中には、接種するまで2~8度での冷蔵保存、中には希釈して配分するまでマイナス70度の冷凍保存が必要なものもある。これには「コールドチェーン」(低温物流)が必要で、製造工場から各国の中央倉庫、さらに地方都市、農村の診療所または地域にまで送り届け、最終的に予防接種をするまで保冷し続けなければならない。灼熱の太陽の下、電気自体が通っていない農村もある。車道がなければ山道を歩いて数日かかる村にまで届けなければならない。 ワクチンが開発されなかったら 3つ目は、ワクチン忌避。WHOが挙げた2019年の「世界の健康に対する10の脅威」の1つにもなっている。これはワクチンの誕生以来、また世界中に横たわる根深い問題で、中には反ワクチン運動として、ワクチン接種の拒否や社会からの駆逐を訴える集団さえある。その主張は「自然に反する」「副反応で命が危ない」「自閉症や不妊になる」などだが、科学的に疑わしい研究などの主張や作り話、陰謀論、誤情報などが広がることもある。日本も例外ではない。 ===== アメリカの最近の調査では、新型コロナワクチンが開発された場合、接種を受けるかとの質問に男性の31%、女性の51%が受けないと答えた。現在、世界各地でマスクをしない権利が主張されているように、ワクチン接種を拒み、受けない権利を主張する人は少なくないだろう。 では、最終的に有効なワクチンが開発されなかったらどうなるのか。人間に病気をもたらすと知られている微生物は1400種以上(うちウイルスは200超)といわれるが、このうちワクチンで予防できる感染症は30に満たない。私が対策支援に関わっている世界三大感染症(エイズ、結核、マラリア)にも、ワクチンがあるのは結核予防のBCGのみ。それも成人にはあまり効果がない。 それでも、われわれはこれらの病原体との付き合い方、予防の仕方がほぼ分かっている。例えば、HIVワクチンはなくとも、HIVの流行爆発があったタイで1990年代に導入された「ソーシャルワクチン」政策がある。予防教育、避妊具使用の徹底化、地域住民の啓発などを組み合わせた総合的なパッケージで、これによって感染率を急激に下げた。 新型コロナでも、社会的距離の確保、手洗い、マスク着用などのパッケージをソーシャルワクチンとして徹底することで、感染率を下げ、流行を抑えられる可能性が見えてきた。以前はマスク着用に懐疑的だったアメリカでも、データの裏付けにより、米疾病対策センター(CDC)がマスクの適切な使用は有効性が70%のワクチンよりも効果があると発表した。欧州でもマスクを義務付け、従わない場合は罰則を科す国が増えている。 現在、ワクチンの研究開発は急ピッチで進み、その結果はもうすぐ見えてくる。ただし、抗原の変異や人口集団の多様性などを考えると、その有効性や安全性に結論を出すのはもっと時間がかかるかもしれない。 ワクチンは万能ではない。今なすべきことは、神経質になり過ぎず、ある程度の感染やリスクは容認しつつ、われわれができるソーシャルワクチンを駆使することだ。ハイリスクの人々を守り、感染した人々やその家族を非難・差別せず、現状に悲観するより、新たな未来を切り開くこと──それが新型コロナの最良のワクチンだ。 (筆者はジュネーブ在住。元長崎大学熱帯医学研究所教授。これまで国立国際医療センターや国連児童基金などを通じて感染症対策の実践・研究・人材育成に従事し、110カ国以上で医療活動を行ってきた) <本誌2020年10月27日号「日本人が知らないワクチン戦争」特集より>