<14歳で「早熟の天才」として注目され、18歳で「小4なりすまし」炎上、その後「あの人は今」的な状態だったTehuこと張惺。SNSでの「臨死体験」経験者である彼が、承認欲求との向き合い方を語った> 「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」 子供の頃は並外れた才能の持ち主だったのに、大人になったら平凡な1人として埋没してしまうことを意味することわざは、とてもよく知られている。 本当に神童が凡人になるかどうかは分からない。が、Tehu(てふ)は誰もが認める早熟の天才だった。 本名は張惺(ちょう・さとる)。灘中学校の2年生だった2009年にiPhoneアプリ「健康計算機」を開発したのをきっかけに、さまざまな活動で注目を集め始めた彼は、大人たちから「次世代のリーダーの1人」と褒めたたえられていた。しかし同時にSNSで炎上を繰り返したことで、「もっとも有名な10代の嫌われ者」でもあった。 現在25歳になった彼は、果たして天才のままなのか。それとも、凡人になってしまったのか。それ以前に最近は、何をして、何を考えていたのか。 『「バズりたい」をやめてみた。』(CCCメディアハウス)を最近出版したTehuに、今までとこれからについて大いに語ってもらった。 10年間の学びをまとめた「承認欲求」という言葉 ――本を書こうと思ったのは、何が理由ですか? 知り合いの編集者から「普段どんなサブスクをしてますか?」ってテーマの企画を提案されたんですけど、打ち合わせがてら雑談をしていて「承認欲求に向き合うって難しいよね」という話をしたら、「サブスクの話も面白いけど、承認欲求についての話も聞いてみたいたいよね」という流れになりまして。 それでなぜか、承認欲求についてたくさん話すことになったんです。最後にはサブスクにもちゃんとつながっているとは思うんですが。 それを読んだ別の編集者からオファーを頂いたのでまとめました。 僕は14歳で注目されるようになって、18歳で事件を起こして(※後述)、20歳ぐらいから実質的な隠居と言いますか、「あの人は今」的な状態になったんです。だから世の中的には「昔はチヤホヤされていたけれど、今は消えた人」みたいな扱いで、僕のことをバカにしている人もいるかもしれない。 でもこれまでの10年間を改めて振り返って、何をしてきたのかを見つめ直した経験が自分の中で学びになっているんです。その学びをまとめたのが「承認欲求」という言葉なんだと、この2年ぐらいずっと考えてきて。それで思考が整理されたタイミングでオファーが来たので、本にまとめようと思いました。 頭の中でずっと考えていたことなので、誰かと共有しようとは思っていなかった。でも僕みたいな稀有な経験をしていなくても、承認欲求は誰もが持っているものだと思うんです。 ただ、世の中の流れとしては承認欲求を刺激するコンテンツがどんどん増えているので、そこに向き合うことがとても難しくなっている。そんな中でどうやって個を喪失せずに生きられるか。 僕自身は喪失しかけてギリギリ戻ってきた「臨死体験」経験者なんですけど(笑)、それを伝えることで誰かのヒントになればと思ったのが、まとめたきっかけです。 ===== 『「バズりたい」をやめてみた。』より(写真:柴田ひろあき) ――Tehuさんは、自身が10代で注目を集めたのはネットの力が大きかったと思いますか? ネットそのものもそうですが、ちょうど中学生だった2010年頃から、匿名から実名になる流れがあったのが大きいと思います。この頃からTwitterやFacebookを使い始める人が増えて、各業界の中から注目される人が現れ始めましたよね。 同時に、フォロワー数がアカウントの価値を明確にするようになりました。今でこそ「この人、フォロワーは何人だろう」と当たり前のように見ますが、2010年以前にはあり得ない考え方だったと思っています。そしてフォローという概念により、僕自身が自分の承認欲求を熟成していったんだと思います。 自分の承認欲求がどう育っていったかは本に書きましたが、その承認欲求が開花するタイミングとデジタルネイティブがもてはやされた時期とかぶってるんです。後の体験から考えればタイミングが悪かったのかもしれないけれど、いま振り返るとそれも含めて稀有な経験をさせていただけたし、そういう時代背景があってこその自分だったと思うんです。 僕のことを考えるなんて時間と思考の無駄 ――この本では自分の生い立ちから始まり、Tehuという「炎上ゴジラ」を経て、バズらない「さとる」になるまでを書いています。過去の恥ずかしい自分を振り返って書き残す作業は、結構勇気がいったのでは? 3年前の僕だったら、できなかったと思います。ただこれは2年間、誰かと共有するためではなく、自分のこれからのために清算しようと考え続けてきたことだったので、それを誰かに見せること自体には心理的なハードルを感じませんでした。 だって、検索すれば僕の過去の恥ずかしい発言なんていっぱい見つかるから。いまだに掘り返されたりするんですよ。それに比べたら自分の過去を自分の言葉で語るなんて、全然恥ずかしくない。 本にも書きましたが、僕ではない人が街中で暴れた映像を、僕がやったようにいまだに語られることもある。そんなのに比べたら、自分で何を言おうが全然マシかなと。 この本の締めくくりに、「己の承認欲求どころか、他人の承認欲求に踊る阿呆になるな」ってことを書いたんですけれど、僕がそこにいないにもかかわらず、今もなお僕の幻影を探し求めている人はいます。いい幻影でないのが残念なんですが、仕方ありません。いまだに僕にメンションを振る人もいれば、「あいつ消えたよね」と、笑う人もインターネットの世界にはいます。 でも僕のことを考えるなんて時間と思考の無駄だと思うんです。世の中には知らないことや面白いことがたくさんあるということを、この本と出合った人に伝えられるのであれば、それは恥ずかしさを越えて自分がやるべきことだと思います。 ===== 『「バズりたい」をやめてみた。』より(写真:柴田ひろあき) 「なぜ自分がそれをしているのか」を振り返ってほしい ――大炎上の際たるものと言えば2014年、18歳のときの「小4なりすまし事件」だと思います。あれは結果的に大バッシングされて今は鎮火しました。しかし、ネット上では今日も誰かに対する誹謗中傷はやむことなく続いていて、それに対して「嫌ならネットを見なければいい」という声もあります。 (※編集部注:「小4なりすまし事件」2014年11月、Tehuと大学の友人が小学4年生になりすまして衆議院解散に対する意見サイト『どうして解散するんですか?』を立ち上げ、そのクオリティの高さなどから即身バレしてしまった事件) 誹謗中傷に対して「ネットを見なければいい」とは確かによく言われますし、僕も今はほとんど見ていません。でも「見なけりゃいい」って言いますが、普通は見ますよね(笑)。 そもそも世に発信しているというのは承認欲求があるからで、承認欲求を満たすことが目的だったら、当然リプライは見るわけですよ。承認欲求を満たすためには表現するだけじゃなくて、反応がないと駄目なわけで。 でも「そこまでして人の悪口を言いたいのか」というのと同時に、「そこまでしてまで承認されたいのか」という問題もあると思うんです。 最近は誹謗中傷をした相手を訴える動きもあります。当事者にとっては、抑止力にはなります。でも、結局、同じ問題はくり返される。罰しても、見せしめにしても、世の中から悪いことはなくならない、ということは人類の歴史が証明しているじゃないですか。だから、僕らが本当に向き合わなきゃならない問題って何だっけ? という根本を忘れてはいけないと思います。 もちろん、叩く人も叩かれる人も、自分の内面に向き合うことで、なぜそういうことが起こったのか自分の中に原因を見つけることだって必要です。でも、目の前の問題だけに取り組もうとするからいつまで経っても変わらない。そこで、一歩引いて自分を客観視してみると、結果として気付けることもあるのではないかと思います。 ――なぜ承認欲求をこじらせてしまった挙句、叩いたり叩かれたりの不毛なやりとりが生まれるんでしょうね? 今も僕もこじらせてますし、皆こじらせてると思うんですけど、その言葉自体にあるネガティブなイメージを僕は持っていない。それは一つの選択で、芸能人とかがそうですが、選択し続けることでしかできない仕事もあると思います。 人に注目されて評価されることが価値に直結するわけですが、それを意識して選択しているかどうかが大事なんです。ずっと続けていると自分はただ注目されたいのか、それとも自分自身の意思でそれをやっているのかが分からなくなってくるんです。 自分の本音すら分からないのに話を進めてしまうから、極めて危険な方向に行きます。だから、よかったら一回自分を俯瞰して「なぜ自分がそれをしているのか」を振り返ってほしいです。その結果、控えめな生活に戻るとしても、そのほうが本人にとっての幸せにつながるかもしれない。 そういったことを各々の人にやってほしいという思いから、僕は知人のインフルエンサーにこの本を送っています(笑)。 ===== 人格としてのTehuとはそろそろおさらばかな ――本に対しての周りの人からの反応、ありましたか? 体当たり系の女性ライターの友人がいるんですけど、僕が『千と千尋の神隠し』を例にして、「Tehuという名前を捨てて『さとる』に戻ったことで人生が変わった」と書いたくだりを読んで、泣いたと感想をくれました。彼女もペンネームで活動しているのですが、「体当たりが過ぎた自分は、まさに千尋ではなく千になっていた」と。 彼女のように僕とどこか同じような思いをしてきた人には響く本だと気付きました。SNSのフォロワー数に関わらず、どこか少し無理して対外的な自分を演じて、発信を続けている人にも響くところがあるはずです。そういう人にも読んでもらえると嬉しいです。 名前やネーミングって、すごく大きな情報量を持つ何かを簡単に抽象化するじゃないですか。人によってその名前が表す抽象物に対する反応は違います。でも、人からの反応を気にして、その反応に自分を合わせにいくみたいなところがあると思うんです。 自分らしく生きていくことを考えたときに、他人の反応に自分を合わせていくことがどこか虚しいということを、僕はこの10年で学びました。 僕がTehuを使い始めたのは、ひと目で中国人と分かる名前にコンプレックスがあったという一面もあります(※編集部注:日本育ちだが、国籍は中国)。でも今は堂々と張惺に戻そうかなと思うし、今後日本人になるとしても、子供の頃は嫌っていた「張」っていう名字を残そうかなと思えるようになっています。 ――Tehuは封印して、今後は張惺で生きていきますか? あだ名としては残り続けるでしょうけれども、人格としてのTehuとはそろそろおさらばかなと。というより、時間を経て、あの頃のTehuはあのままではもう存在していないんです。 だからこの本は「追悼本」なんです。そのうちにTehuに関わった人たちの声を集めて、それをプリントアウトしてお焚き上げでもして、天に返そうかな。その模様を生配信して僕のバズ人生に終止符を打つのも一つの手ですね。軽くバズるといいなあ(笑)。 『「バズりたい」をやめてみた。』 Tehu(張惺) 著 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)