<1000万人規模の巨大都市が各地にあり、経済成長と中間層の拡大が見込まれるインドは、6億人がトイレのない生活を送り、毎年20万人が汚染された水によって死亡する国でもある。しかもそれは、農村部だけの話ではない。共同通信社記者の佐藤大介氏が、トイレ事情からインドの実態に迫ったルポ『13億人のトイレ――下から見た経済大国インド』(角川新書)より一部を抜粋する> 地下水の減少も進んでいる インドは都市部を中心に人口が増加し、総人口でも2027年には中国を抜き、世界一に躍り出ると予測されている。しかし、都市部を中心に排出される下水の量が処理量を大きく上回っているように、水をめぐる問題はインド全体に大きくのしかかっている。その最たるものが、深刻な水不足だ。 2018年6月、インドの政府系シンクタンク「インド行政委員会(ニティ・アーヨグ)」は、国内で6億人が水不足に直面し、毎年20万人が汚染された水によって死亡しているという報告書を発表し、話題を集めた。ニューデリーなど21都市で、2020年までに地下水が枯渇する可能性があるとの見通しも示し、インドが「史上最悪の水不足の危機」に陥っているとして、一刻も早く有効策を取るよう警鐘を鳴らしている。 水不足の原因として指摘されているのが、急速な都市化と人口増加に伴う水使用量の増加だ。生活用水だけではなく、農業用水や工業用水も需要が増しており、報告書では、2030年までに水の需要が供給の2倍になると見積もっている。下水道や処理施設が不十分なため、排水を浄化して再利用する「水のリサイクル」は機能しておらず、重要な水源となっているのが地下水だ。インド全体の水供給量のうち、4割ほどを地下水に頼っているが、過剰な取水によって地下水の水位は大きく減少している。21都市で地下水が枯渇するとの予想は過剰取水が原因で、1億人に影響を与えると予測している。 インド全土の年間降水量は4000立方キロメートルほどだが、その8割ほどが6~9月の雨季に集中しており、水源として利用できるのは約690立方キロメートルにとどまっているとされる。一方で、水使用量の8割を占めるとされている農業部門では、そうした貴重な雨水を十分に活用できていない。インドの農業耕作地に対するかんがい普及率は34.5%にすぎず、農家の多くは地下水を用いている。人口が増えると農作物の需要も増え、それに伴って地下水の使用量も増えていき、過剰取水に歯止めがかかっていない。 アジア開発銀行(ADB)がまとめた「アジア水事情」によると、「家庭用の水道の安全性」「都市部の水の安全性」「国の水安全指数」などに関する評価で、インドは5点満点の1.6点と最低点をつけた。地下水の取水量は251立方キロメートル(2014年)と、主要20カ国・地域(G20)の中で最も多くなっている。過剰取水で地下水の水位がどんどん低下していくだけではなく、7割の下水が処理されずに放出されている状況では、貴重な地下水の汚染も進んでいく。不衛生な水が飲料水として用いられることも多く、世界122カ国を対象にした水質に関する調査で、インドの順位が120番目だったことが、その現状を物語っている。 ===== 日本貿易振興機構(ジェトロ)の調べによると、地下水を確保するために重要となるインドの降水量は、2000年~2017年の平均量が、1951年~2000年までの平均量よりも7%減少した。一方で、2000年~2017年でインドの人口は約30%増加している。人口と水需要、未処理のまま河川に排出される下水が増える一方で、地下水は減り続けているのだ。 「スラムドッグ$ミリオネア」のロケ地 インドで政治の中心は首都ニューデリーだが、経済の中心となればムンバイだ。旧名である「ボンベイ」の方が、多くの人の耳には親しみがあるかもしれない。古めかしい政府庁舎が中心部に集まるニューデリーとは違い、ムンバイは商都らしく数多くの高層ビルがそびえる。世界経済に影響を与える重要拠点として存在感を高め、インド国内はもちろん世界中から資本が流入しており、ムンバイがあるマハラシュトラ州をインドでトップクラスの「富裕州」に押し上げている。 ムンバイの街を歩くと、目に飛び込んでくる光景が三つある。一つは建ち並ぶ高層ビル、もう一つが日常茶飯事となっている激しい交通渋滞、そしてあちこちに点在するスラムだ。横浜市とほぼ同じ面積に約2000万人(横浜市は約375万人)の人口を抱えるムンバイでは、4割ほどの人たちがスラムに住んでいるとされている。その中には、地方の農村などから「富裕州」へカネを稼ぎにやって来た労働者たちも少なくない。高層ビルとスラムが同居する光景は、富と貧困が交錯するムンバイの現実をそのまま表している。 ムンバイに500ほどあるとされるスラムの中でも、最も知られているのが「ダラビ地区」だ。東京ドーム約37個分の広さに100万人以上がひしめき合い、アジア最大のスラムとも称される。アカデミー賞を受賞したイギリス映画「スラムドッグ$ミリオネア」のロケ地にもなったことで、一躍有名になった。 ダラビ地区に入ると、細かい路地が入り組み、迷宮のように街が広がっている。舗装されていない路地に荷物を背負った男たちが行き交い、建物からは機械音が鳴り響く。小さな工場の窓をのぞくと、薄暗い中に差し込んだ日光が、一帯に漂うほこりを浮かび上がらせていた。ダラビ地区には、プラスチックやアルミなどのリサイクル工場や金属加工、革製品作りなどが産業として確立しており、多くの労働者が日銭を稼いでいる。工場エリアと住宅エリアに分かれて、ムンバイという大都市の中にもう一つの都市が形成されているようだ。 スラムの環境改善を支援するNGOに案内されて住宅エリアに入ると、日光の届かない細い路地は昼間でも暗く、排水溝をネズミが走り回っていた。部屋をのぞくと、10平方メートルほどの狭いワンルームに4~5人の家族がひしめきあって住んでいる。靴の修理工である夫と母、息子の4人で暮らすメラ・バンミ(40)の住む部屋も、その一つだ。公務員住宅の家政婦として毎月8000ルピー(1万2800円)の収入を得ているが、プロパンガスの価格や電気料金が上がり「生活がより苦しくなりました」と言う。息子が高校を出ても職が見つからないのも気がかりだ。 ===== 部屋を見渡すと、調理器具のほかに洗い場もある。傍らには大きな桶と仕切りのカーテンがあり、体を洗う場所としても使っているとのことだった。トイレは設置されておらず、地区内に点在する公衆トイレを使っている。1回の使用料金は2.5ルピー(4円)だ。 「何度も行けば、それだけ家計の負担になってしまいますから、多くても1日に2回までにしています。朝や夕方は、混んで並ぶこともあります」 そう話すバンミに、夫や息子はトイレを使わずに周囲で用を足すこともあるのではないかと尋ねると、笑いながら「そうかもしれませんね」と答えた。 バンミの暮らすエリアの住民たちが使う公衆トイレは、路地が交差して道のやや広まったところにあった。コンクリートで頑丈につくられた建物には、入り口に管理人の男性が座り料金を徴収している。中に入ると大小それぞれ五つほどの便器があり、薄暗いものの一定程度の清潔さは保たれていた。管理人に、ここで出された排せつ物はどこに行くのかと聞くと、なぜそんなことに興味があるのかと不思議そうな表情を浮かべながら「下水道につながっている」と答えた。それが本当かどうかわからない。だが、管理人は説明を付け加えた。 「ダラビは有名なスラムで人も多いから、政治家がいろいろな支援を提供してくるのです。ここにトイレがあるのもそれが理由ですよ」 ダラビ地区は貧困層の集まるスラムではあるものの、住宅エリアには水道や公衆トイレがあるほか、電気も通っている。最低限の生活インフラが確保されているせいか、狭い部屋からは「貧しさ」は伝わってくるものの、暮らしている人たちに悲愴感はあまりない。犯罪の発生率も低く、NGOのスタッフによると、スラムの中でも「五つ星」の場所だという。それだけに、スラムではあるものの、一定の収入がある人たちではないと住むことができなくなっている。 「非公認」のスラム では、「五つ星」のエリアに住めない人たちはどうしているのだろうか。 ダラビ地区で商店などが集まるエリアにある雑居ビルの2階。急なはしごを登って中に入ると、カーテンの縫製を行う作業場があった。部屋には大きな作業台が置かれ、5人ほどの男たちが黙々と作業をしていた。その一人、モハマンド・シャミ(37)はインドでも最貧州のビハール州で育ち、20年ほど前にダラビ地区へやって来た。「ムンバイは金持ちの街。行けば何か仕事があり、稼げるだろうと思っていました」と言うが、現実は違っていた。 ===== 朝から晩まで働いて、月収は8000ルピー(1万2800円)ほど。故郷に残してきた家族への仕送りもあり、食費を切り詰めても生活はギリギリだ。ダラビ地区の住宅エリアに居を構える余裕はなく、作業場の隅で寝起きをしている。シャワーはもちろん、トイレもない。公衆トイレの近くにある水道を利用して、時折水浴びをする。だが、公衆トイレにカネを払う余裕はなく、少し歩いた先の排水溝近くで済ませることが多いという。 「去年、母親が病気になって借金を背負いました。ストレスばかりの日々です」 シャミはそう話しながらため息をつき、部屋の片隅に目をやった。そこには、シャミが飼っているウサギが箱から顔を出し、こちらをみつめていた。疲れ切った心を癒やしてくれる存在なのだろう、シャミは嬉しそうに視線を返していた。 世界銀行が2014年に発表したデータでは、インドでは都市部の人口の約24%がスラムに住んでおり、その数は1億人にのぼると見積もられている。また、インドメディアの報道によると、2011年の国勢調査でスラムに住む世帯の3分の1が「周辺にトイレがない」と回答していた。公衆トイレがあっても不衛生な状態で放置され、感染症リスクが高い状態になっているケースも多いという。ムンバイのスラムにある公衆トイレのうち、約8割で水が十分に供給されていないという指摘もある。ダラビ地区で私が訪れた公衆トイレは、いかにも「五つ星」スラムならではの整備された施設だったのだ。 ムンバイは世界で最も地価の高い都市の一つだ。収入が少なかったり、定職に就いていなかったりする人たちは、シャミのように仕事場で寝泊まりするか、粗末な小屋や路上での生活を余儀なくされる。ダラビ地区など、政府が「公認」しているスラムには公的な支援が届きやすいが、そうではない「非公認」のスラムは放置されたままとなる。もちろん、公衆トイレが設置されるはずもない。貧しい者たちが集まるスラムの中にも、歴然とした格差が存在していた。 『13億人のトイレ ――下から見た経済大国インド』 佐藤大介 著 角川新書 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)