<「ふつうじゃない」家族に苦悩した著者が、家族との関係を見直した数日間> 聴覚障害者の両親、元ヤクザの祖父、ある宗教を熱心に信仰する祖母......。そんな「ややこしさ」を抱える家族で育ったライター五十嵐大氏が、家族との関係を見つめ直した数日間を描いた新著『しくじり家族』(五十嵐大 著、CCCメディアハウス)。一見、特殊に思える家族の事情から、大なり小なり実はどこにでもある、「しくじった」家族関係を再構築するヒントが見えてくる。『しくじり家族』の一部を抜粋して掲載する、今回はその第2回。 <『しくじり家族』抜粋第1回:「ふつうじゃない」家族に生まれた僕は、いつしか「ふつう」を擬態するようになっていた> ◇ ◇ ◇ ■Chapter 1 祖父の危篤 故郷、仙台 仙台駅に到着すると、一目散に駅前のタクシープールへと向かった。駅構内を出ると、湿度を含んだじめっとした空気がまとわりついてくる。 久しぶりの帰省。駅前の風景もだいぶ変わっていた。けれど、感傷に浸っている暇はなかった。 すぐにタクシーに乗り込み、祖父が運ばれた病院名を告げる。普段ならばもう閉まっている時間だ。運転手はなにかを察したのか、無言で車を発進させた。 一息つく余裕もなく、佐知子に電話をかけた。コールするとすぐに「大ちゃん」と佐知子の声がした。 「仙台着いたから、いまからそっちに向かうよ。あと十五分くらいだと思う」 「わかった。病院に着いたら電話ちょうだい」 最後に祖父に会ったのはいつだっただろうか。 静かな車内で懸命に記憶を手繰り寄せてみても、思い出せない。まれにふらっと帰省しても、ほとんど会話しなかった。 若い頃はテレビの前で野球中継を見ながらビールをあおっていた祖父も、自室で寝てばかりいるようになっていた。すでに残されていた時間は少なかったのかもしれない。でも、ぼくはそんな祖父のことを見ようともせず、なんとなく大丈夫だろうと思っていたのだ。 いや、無理やりそう思い込もうとしていたのかもしれない。現実を直視するのが怖くて、億劫で、知らないフリをしていたのだ。その結果、最後に会話を交わした記憶も曖昧なまま、祖父は危篤になってしまった。 けれど、驚くほど冷静だった。 後悔の念すらない。 いまぼくが置かれている状況は、一般的に「哀しい」と形容されるものだろう。それなのに、どこを探してみてもそんな感情が見当たらない。淡々と事務作業を処理するような気持ちで、ぼくは病院へと向かっていた。 病院の正門は閉まっているので、運転手にお願いして裏口につけてもらった。降りると、佐知子が煙草を吸って待っていた。 「さっちゃん」 ぼくの姿を認めると、佐知子は咥え煙草のまま手を振った。 いつもは髪の毛をひとつにまとめているのに、今日は下ろしている。傷んだ毛先が赤茶けている。 「大ちゃん、しばらくぶり」 「うん、久しぶり」 「元気にやってた?」 「うん。それより、病室は?」 「まず一服したらいいさ」 こんなときなのに、佐知子はどこか呑気な様子だった。 促されるまま、ぼくも煙草を咥える。佐知子と並んで煙を深く吸うと、なんのためにここまで来たのか忘れてしまいそうだ。佐知子はぼんやりと遠くを見つめていた。視線の先には暗闇しかない。 「あのさ、おじいちゃんって大丈夫なの......?」 ぼくが投げかける質問に、佐知子はゆっくり間を置いてから答えた。 「もういまさら焦っても、仕方ないでしょ」 実の父親が死の淵にいる。佐知子の胸中は複雑だっただろう。それでも、ぼくがここにやって来るまでの間に、彼女はすべてを飲み込んだかのように見えた。化粧っ気のない横顔に、ほんの少しだけ疲労が浮かんでいた。 ふたりでゆっくり一服した後、ぼくは佐知子に続いて病院に足を踏み入れた。ナースステーションの前を通りかかると、看護師と目が合った。「甥っ子が帰ってきてくれたんですよ」と、佐知子が看護師に説明する。眉尻を下げて微笑む看護師に対し、ぼくはなにも言うことができず、ただ会釈するしかなかった。 夜の病院内は薄ら寒かった。虫の声が聞こえてくるほど静かで、薄暗い廊下のところどころで非常灯だけが光っている。こんな時間に病院にいることが初めてで、徐々に鼓動が速まるのを感じた。 ぼくの緊張なんて我関せず、という態度で、佐知子は暗い廊下をぐんぐん進んでいく。廊下の突き当たりにある階段を三階まで上がり、またしても廊下を進むと、明かりが漏れている個室が見えてきた。 ===== 病室の一族 「ここがおじいちゃんの部屋」 佐知子が立ち止まった個室のなかからは、シューッシューッという奇妙な機械音と、控えめな話し声が聞こえてきた。 祖父の病状についてはよく知らなかったけれど、「個室に運び込まれた」という事実が諦念を誘う。 ゆっくり扉を開けると、集まっていた家族や親族が声をあげて迎え入れてくれた。 「わざわざよく来たね」 「大ちゃん、ありがとうね」 「ほら、荷物そこに置きなさい」 けれど、ぼくは一人ひとりに挨拶を返すことも忘れ、呆然と立ち尽くしていた。 目の前のベッドに横たわっていたのは、見知らぬ老人だった。 いくつもの細長いチューブにつながれ、口元を覆うように呼吸器がつけられている。土気色になった顔は骨と皮だけで、だらしなく開いた口から舌だけを出し、時折、それを苦しそうに動かす。元気な頃の面影はどこにもなく、定期的に痙攣(けいれん)するように体を動かす老人は壊れた玩具のようで不気味だった。 「おじいちゃんに挨拶したら」 佐知子にそう言われるまで、目の前にある、朽ちかけた流木のような老人が祖父だなんて信じることができなかった。毎晩、泥酔するまで酒を飲み、ときには暴れることもあった祖父は、もうどこにもいなかった。 途端に心細くなり、あらためて周囲を見回す。 ベッドサイドには二番目の伯母である由美と、夫の康文、娘の仁美が座っている。そして部屋の隅にはぼくの両親と祖母、佐知子の娘である舞と茜の姿。誰も彼もが憔悴しきっていた。 「おじいちゃん、大ちゃんが来てくれたよ」 由美が祖父に猫なで声で話しかける。けれど、どう見ても、その声は祖父に届いていないようだった。祖父は体をくねらせるようにもがいては、舌を出している。ただひたすらに苦しそうだ。 正直、見ていられない。 「大ちゃん、おじいちゃんに話しかけてあげて」 どうしたらいいのかわからず、突っ立っていたぼくに、由美が声をかける。もともと看護師をしていた由美は、疲れ切っていたものの、誰よりも毅然としているように見えた。アイロンのかかったシャツを着て、背もたれにはもたれずシャンとしていた。隣にいる康文も勤務先からそのまま来たのだろう、ジャケットにネクタイを締めている。 隙がない彼らを見ていると、少しだけ息苦しくなる。 「ほら、大ちゃん」 逡巡した後、そっと祖父に近づいた。横から見下ろす祖父は、想像以上に小さくなっていた。あんなに恰幅がよかったのに、干からびてしまったみたいだ。 なにか言おうと思っても、言葉が出てこなかった。そもそも、もう聞こえてすらいないだろうに、ここで声をかけることに意味があるのだろうか。まるで茶番劇みたいじゃないか。 ぼくは黙ったまま祖父の手を握った。 ひどく冷たく、乾燥していた。 こうして祖父と手をつなぐのは初めてだった。最初で最後に知った祖父の体温の冷たさに、ぼくはますます言葉を失うばかりだった。 いたたまれず、すぐさま祖父の手を離した。 ===== 粗暴なヤクザ者 祖父とのコミュニケーション方法がわからない。 これは祖父が危篤になってしまったからではなく、昔からそうだった。 若い頃にヤクザをしていた祖父は、とても気性が荒く、孫のぼくに対しても暴言を吐いたり、ときには物を投げつけたりするような人だった。 小学生の頃、祖父への反発心を募らせていたぼくは、一度、泥酔した彼と大喧嘩をしたことがある。理由はもう覚えていないけれど、些細なことだったと思う。 火がついてしまった祖父は、台所から包丁を持ち出してきた。殺気だった目とともに、それをぼくに向ける。でも、ぼくは怯みつつも睨み返した。 すると、慌てた父が、ぼくと祖父の間に入った。母や祖母は「やめて!」と叫んでいた。 どれくらい睨み合っていただろうか。祖父は包丁を畳に突き刺すと、その場で胡座をかいた。そして、大声をあげた。 「俺を馬鹿にすんじゃねぇぞ!」 母になだめられ祖父が床に就くと、ぼくは祖母からこっぴどく叱られた。 「おじいちゃんのこと、絶対に怒らせちゃだめなの! わかった?」 だから、ぼくは、祖父のことがどうしても好きになれなかった。同じ屋根の下に住んでいても、笑顔で会話したことがほとんどない。なんのきっかけで逆鱗(げきりん)に触れてしまうのか、どのタイミングで激昂するのかがわからなかったため、側にいるのが苦痛だったのだ。 おそらく、ぼくがそう感じていることに祖父自身も気づいていただろう。彼から歩み寄ってくるようなこともなかった。 いつの間にか、ぼくと祖父との間には共通言語がなくなっていた。 いまさら祖父にどう話しかけたらいいのか、わからなかった。 「ちょっと、ごめんね」 誰に向けてかわからないけれど、一応断りを入れて、ぼくは祖父の側を離れた。そのまま部屋の隅に座っていた母の側に立つ。 よく見ると、母はぼくが実家に残していったTシャツを着ていた。学生時代に散々着倒して、処分しようとしたら、部屋着にするから頂戴と言われたものだ。柔らかくウェーブした母の髪と、派手なプリントのTシャツがミスマッチで、ここが病室じゃなかったら笑っていたかもしれない。 その目を見つめると、母は弱々しく微笑みながら手を動かした。 ――東京からここまで、疲れたでしょう。 ――ううん、大丈夫。 こんなときでさえ、母はぼくの心配ばかりする。 ――それよりも、おじいちゃん、どうなの? 尋ねてみると、母は「わからないの」と首を振った。 父親が危篤なのに、状況がわからない。そんなことって......と戸惑っていると、隣に座っていた祖母がぼくの服を引っ張った。 「大ちゃん、帰ってきたのか」 「うん。おばあちゃん、ただいま」 祖母の前にしゃがみ込んで挨拶する。その瞳が一瞬さまよったかと思うと、ぼくを捉える。そうしてぼくをあらためて認識すると、祖母はうれしそうに顔を皺くちゃにしてみせた。 ぼくは祖母の手を握りしめ、目をじっと見つめて訊いた。 「おばあちゃん、おじいちゃんの具合、どうなの?」 「おじいちゃん......。大丈夫よ」 どう考えても、大丈夫な状況ではなかった。でも、母も祖母も、この事態をうまく理解できていないみたいだった。 背後から由美の声がした。 「おじいちゃんね、明日までもつかどうかギリギリなんだって」 「そうなんだ......」 「でも、大ちゃんのお母さんにもおばあちゃんにも、いまさら説明したってしょうがないでしょう。可哀想だし、混乱させてもね」 一体なにが可哀想なのだろう。 これまでずっと一緒に暮らしてきた夫の、父親の置かれている状況を理解できていないことのほうがよほど不幸ではないか。百歩譲って、認知症が進んでいる祖母は仕方ないかもしれない。けれど、母は違う。音声言語でのコミュニケーションが難しいだけで、手話を使えばどんなことだって理解できる。 ぼくの家族は誰も手話が使えなかった。聴こえない父と母の言語である手話を、誰も覚えようとしなかった。祖母も祖父も、ふたりの伯母も。唯一、家族のなかでぼくだけが下手くそなりにも手話を自然に習得し、両親と「会話」していた。 ぼくは母と父の目の前でゆっくり手を動かした。 ――おじいちゃん、明日までもたないかもしれないって。 伯母たちから聞いた情報を、手話で「通訳」する。 拙く動くぼくの指先を、母はじっと見つめていた。 <『しくじり家族』抜粋第1回:「ふつうじゃない」家族に生まれた僕は、いつしか「ふつう」を擬態するようになっていた> 『しくじり家族』 五十嵐大 著 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)