<ファイザーとモデルナのワクチン治験が最終段階に入るなか、日本がワクチン開発競争に出遅れたのは必然だった。キーパーソンへの取材で見えてきたこの国の障壁とは> 新型コロナウイルスのワクチン開発で、日本はなぜ出遅れたのか。開発の先頭集団を走る欧米や中国の製薬企業は臨床試験の最終段階の途上にあり、早ければ10月末にも試験の結論を得て年内承認の可能性もある。対する日本はといえば1社が第1/2段階に進んだが、多くの臨床試験入りはこれからだ。 日本政府の姿勢は「海外頼み」に映る。米国のファイザーとモデルナ、英国のアストラゼネカとの間で計2億8000万回分の購入について基本合意に達するか、あるいは交渉を進める。その調達のための、6714億円という巨額の支出はあっさり閣議決定された。 健康被害の責任は日本側が負うという、海外メーカーの条件も丸のみを強いられた。だが、なぜ最初からそんな不利な状況に追い込まれているのか――。 国内で開発の先頭を走るバイオ製薬企業アンジェスの創業者、森下竜一と会ったのは9月初旬のこと。森下は医師で大阪大学寄附講座教授でもある。都内のホテルで会うと、諦めと不満を口にした。 「国産ワクチンを買い取ると政府が先に表明していれば、海外勢から価格を引き下げたり好条件を引き出したりする交渉ができたはずなのに」 森下は25年近く血管疾患の遺伝子治療に身をささげた第一人者で「アメリカと対等に研究や治療を」という意欲的な研究姿勢を貫いてきた。血管を新生させる因子の遺伝子情報をプラスミドと呼ばれるDNA分子に書き込んで培養したアンジェスの遺伝子治療薬は昨年春、苦労の末、国内初の承認にこぎ着けた。 プラスミドに新型コロナの遺伝子情報を書き込んで開発したのが、アンジェスの「DNAワクチン」だ。「仮に米企業に量産化のめどが立たなければ、日本への輸出を渋ったかもしれない。ワクチンを開発も輸入もできない国は、経済再開の道筋を見いだせない。国の『生死』をワクチンが握る。それほどの戦略物資だ。そう繰り返しているが日本は政府も企業もなかなかピンときていない」 コロナ禍が始まって10カ月、第2波のピークが過ぎた頃から急に、ワクチンに注目が集まり始めた。「ワクチン賠償 国が責任/海外製薬から調達促進」と見出しを打った記事が日経新聞朝刊の1面トップに出たのは8月20日。健康被害の賠償責任を免じることでより多くの供給を海外製薬企業から引き出す、という内容は、来夏の五輪に向け地ならしを急ぐ政府の観測気球と見えた。 記事は「国内勢も開発中だが実用化は海外勢より遅く量も乏しい見込み」という見立てを前提としていたが、私は何か釈然としなかった。日本の新型コロナの人口100万人当たりの死者数は13人程度。600人以上になる英国や米国、そして100人超のドイツと比べて抑えている。国民の自粛の苦しみがあってこそのことだった。 ところが今度は、抑え込みに失敗した欧米の製剤を多額の税金で買わされる。なぜこうなったのか。日本に何が欠けているのか、それを知ろうと取材を始めた――。 ===== 大阪大学の森下は3月5日、同大学とアンジェスがワクチンを共同開発すると発表 YUICHI MORISHITA インタビューを通じて、森下が歯ぎしりしていた相手は、米国だった。「軍が民間と一緒に積み上げてきたものがあって、日本とは全然違う」 念頭にあるのは、世界の開発競争の先頭を走る米バイオ企業モデルナのmRNAワクチンだ。モデルナは生物学者デリック・ロッシが2010年に創業し、14年からワクチン開発に参入した。新型コロナ禍が発生すると、今年3月半ばにはもう臨床試験を開始していた。 「ワープ・スピード」を掲げるトランプ政権の支援は桁違いで、モデルナには保健福祉省の生物医学先端研究開発局(BARDA)経由で9億5500万ドルの補助金を出し、1億回分を15億2500万ドルで買い取る契約を結んだ。ただ、ここまではコロナ禍が起きてからの支援で、森下が言う「積み上げてきたもの」は別にある。 8月下旬、ワシントン・ポストなどがモデルナについて興味深い情報を報じた。ワクチン開発で「ある機関」から2460万ドルの支援を受けていながら、特許申請に際してその報告義務を怠ったという内容だ。ある機関とは、国防総省傘下の防衛先端技術研究計画局(DARPA)。創業3年目の13年の段階で、mRNAワクチン等の開発でDARPAの補助を受けていた。 その点について森下に問うと、こう答えた。「mRNAワクチンというのは、軍が関与して開発されてきた『お買い上げ物資』だ。派兵地で感染症が起きたらすぐに兵に接種させる」 確かに4隻もの米空母で集団感染が相次いだのは記憶に新しい。加えて、mRNAワクチンやDNAのワクチンが軍に適しているのには、理由があるのだという。 森下によればこれらのワクチンでは、抗原タンパク質の遺伝子情報をRNA(リボ核酸)やDNAに組み込んで注射する。細胞内で抗原タンパク質が合成され免疫反応が誘導される仕組みだ。製造過程での感染リスクが低く、遺伝子情報さえ分かれば1カ月前後で開発でき、化学薬品と同じ要領で化学合成を通じて量産できる。ただし投資をすれば、設備には維持管理の経費がかかり始める。 森下が続ける。「企業側も製造工程を一度つくると、流行がない限り赤字で補助金頼みになる。米軍は毎年数千万ドルをこうしたバイオ企業にばらまき、平時から多様な様式のワクチンを確保してきた。臨床試験の第1、2段階くらいまで進めておけばよく、いざパンデミック(世界的大流行)が起きたら、種の近い病原体のワクチンを応用して最短で大量生産・投入できる」 確かに、モデルナの創業者ロッシは今春、14年以降、現在までに鳥インフルエンザなど7つの感染症のmRNAワクチンで臨床試験に入っているとメディアの取材に答えている。今回の見事なワクチン供給は、科学者の知性の差というより国家の安全保障投資の差なのだ。 ===== 「戦略物資」とする視点から森下は「新たなワクチン同盟圏ができつつある」と予想した。共産党創100年を来年に控える中国はアフリカや東南アジアに次々とワクチン提供を申し出て一帯一路圏への影響力を誇示した。ロシアが臨床試験の終了を待たずにワクチンを承認したのは、経済停滞下での起死回生策と映る。フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は中ロ双方に秋波を送るなどしたたかだ。 「渡航制限を緩和するなら、同じワクチンを使う国から始めるのは合理的だから、そこから世界が改めて色分けされていく可能性もある。同盟国でも、ワクチンを打っていなければ合同軍事演習もできない」 そう言う森下は日本にはワクチンの戦略が欠けているとみる。「自国分の開発に躍起のアメリカも、物量に余裕ができれば次第に中国と同じことをやり始める。日本もワクチンが増えれば、新幹線や原子力に代わる外交上の武器になるのに」 次に会ったのは、防衛省防衛研究所の社会・経済研究室長、塚本勝也だ。まだ機密の多いDARPAについて、数冊の専門書の書評を書いていた。塚本はこの組織のルーツが米国の「技術敗戦」の反省にある点から解き明かした。 「きっかけは1957年のスプートニク・ショックだ。ソ連に人工衛星打ち上げの先を越され威信を失ったアメリカは、翌年に前身のARPAを置き、後に軍事に領域を絞ってディフェンスのDがついた。冷戦終結で脅威は核から生物化学兵器に移り、ワクチンの重要性が高まった」 91 年の湾岸戦争終結後、イラクが生物化学兵器を製造していた痕跡が見つかった。95年に日本で地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教は、93年に炭疽菌を屋外で実験的にまいていた。01年の9・11 同時多発テロ直後には炭疽菌を使ったテロで米国に死者が出た。 危機感を強めた米軍は自らワクチン開発への関与を始める。注目された新しい技術が、RNAやDNAのワクチンだったことは先に触れた。 「注意がいるのは、従来のワクチンに比べ免疫反応が長続きしない可能性があること。当面の作戦に間に合う期間だけ免疫反応が一時的に上がればいい、という発想がある。そうした軍需由来のワクチンが民生用として適しているかどうか」 さらに危ういのは、そのワクチンの短期的な成功が軍事以上に国際政治に影響する点だと、塚本は言う。 「米国が中国の知的財産窃取を問題にするなか、中国が成功すれば国家の沽券(こけん)を示すことになる。これを新たなスプートニクとする見方もある。個人的な見解だが、これと向き合う民主主義の国は、国家の沽券で安全性を犠牲にしていいのか」 軍事・外交上の果実を重くみるほど、ワクチンの安全性への配慮が後景に退きかねない、という警鐘だ。 ===== ワクチン研究は、芽が出るかどうか見えずとも感染症が来た「その時」に向けて必要不可欠な投資だ。 現実に死地に兵を送り出し感染症のリスクにさらしてきた米国は、丸損になる可能性を踏まえてもなお、準備に資金を投じてきた。戦争を米国に委ねている日本で、政治はこうした備えへの投資を決断できるのか。 日本がワクチン開発で出遅れた理由について国立感染症研究所所長の脇田隆字に問うと、こう答えた。「この20年間を振り返れば、新型コロナを含め繰り返し新興・再興感染症が起きているのに警戒感は維持されなかった。『日本はなんとかなるだろう』と。でも今回の反省があって変わらなかったら、よほど鈍感ということになる」 鈍感だったのは誰なのか。09年に新型インフルエンザが流行した際、麻生太郎政権は海外から大量のワクチン輸入を進めた。後に余ると、同年8月の総選挙で野党に転じていた自民党議員がこれを批判した。 翌年6月、専門家による新型インフルエンザ対策総括会議は「ワクチン製造業者を支援し(略)生産体制を強化すべき」と結論付けた。インフルエンザワクチンの集団接種がなくなった80年代以降、接種率が低下し、国内の生産力は衰えていたからだ。 縮小市場に対し、政府の資金的支援が必要だったが実際に行われたことは逆だった。脇田が振り返る。「日本にも国立研究機関における基礎研究と民間企業の開発研究を資金的に橋渡しする厚生労働省外郭の財団はあった。しかし民主党政権の事業仕分けでやり玉に挙がってしまった。米国のような研究開発のサポートの仕組みはその後も不十分だ」 備えへの投資については、自民党も民主党も真剣さを欠いていた。将来を見据えるどころか、その場しのぎのパフォーマンスをしていたのだ。 そして09年にも20年にも、同盟国が戦略物資として融通してくれる、という甘えはなかったか。自国優先主義が跋扈(ばっこ)するトランプ後の世界でもそれで国民を守れるだろうか。現実的に考えてワクチンは万能ではないし、開発を急ぐために安全性が犠牲になってはいないか。 脇田は国産ワクチンの価値を強調した。「遅いと言われてきたが、早ければ年内には臨床試験に入る。従来でいえばワープ・スピードに近い速さで、安心なワクチンができる。確立された技術を使った開発だから」 不活化ワクチンを開発中の、明治HD傘下のKMバイオロジクスは早ければ11月から、組み換えタンパクワクチンを開発中の塩野義製薬は年内には臨床試験を始める予定だ。 「高齢者や基礎疾患がある人には、できるだけ早く届くRNAワクチンやアデノウイルスベクターワクチンを接種してもらう。一方で、新しいワクチンによる未知の副反応を心配する人もいる。そういう懸念があれば、国産のワクチンを使うことができるという選択肢が重要になる」 ワクチンを避ける人も出るなかで、ウイルスの根絶は不可能だ。それでも対コロナの国家戦略の中で、ワクチンという物資の価値を見定めなければ、備えの欠如に右往左往する愚が繰り返されることになる。 <2020年10月27日号掲載> 【関連記事】ワクチンはコロナ対策の「最終兵器」ではない──国立感染研・脇田所長に独占インタビュー 【関連記事】日本人が知らない新型コロナワクチン争奪戦──ゼロから分かるその種類、メカニズム、研究開発最前線