<医者になるとは、どういうことなのか。医学生はどんな経験をし、何を思い、一人前の医者になっていくのか。医師・ノンフィクション作家として活躍する松永正訓氏が、千葉大学医学部で受けた解剖実習を振り返る> 小児外科医として医師の道を歩み、現在は開業医とノンフィクション作家という二足の草鞋を履く松永正訓氏。 コロナ禍の今、改めて「医者という仕事は悪くない」との思いを強くしているという松永氏が、初のエッセイを書き下ろした。未来の医療を担ってくれるかもしれない若い人たちや、その保護者に、自身の経験をシェアし、参考にしてもらえたら――。 『どんじり医』(CCCメディアハウス)は、笑いあり、涙あり。一人の医師の青春譚だ。その一部を2回にわたって抜粋する。今回は第2回。千葉大学医学部で松永氏が受けた解剖実習の様子を活写している。 ※抜粋第1回:平凡な文学青年だったが、頑張れば、ちゃんと医者になれた──「ヒドイ巨塔」で ◇ ◇ ◇ 解剖実習の洗礼 医学専門課程1年目(分かりにくいので、3年生と書く)の最大のイベントは解剖実習である。解剖というと、みなさんは人のお腹を開けて内臓を見学しておしまいくらいに思っているかもしれないが、そうではない。人間の体の中にある、すべての筋肉・すべての血管・すべての神経を露わにしていくのである。実習はほぼ毎日、1年近く続く。学生は2人でペアを組み、上半身か下半身を担当する。つまり1人のご遺体に4人がつく。半年で体半分の実習が終わるので、次の半年は別のご遺体を使わせていただき、上半身と下半身を交代する。 医学生にとって避けては通れない道だ。実習を前にして緊張しない学生はいない。何しろリアルなご遺体にメスを入れるのだ。学生は実習に先立って『解剖学の実習と要点』(南江堂)という(昔の)電話帳のように分厚い実習書を買うように言われた。また、『分担 解剖学』(金原出版)という全3巻の解剖書も用意しておくように指示された。 ご遺体は腐敗から守るために、ホルマリンに漬かっている。そのため、学生は何カ月も実習を続けていくと、体中にホルマリンの臭いが染み込み取れなくなると噂されていた。 医学部は地上5階、地下1階のレンガ造りの重厚な建物だった。天井が異様に高く、階段などは石造りだった。玄関ホールは吹き抜けになっていて、ステンドグラスが窓にはめ込まれていた。時代物の柱時計が時を刻み、2階へ上がる階段の踊り場にはヒポクラテスの胸像が鎮座していた。かつては大学病院として使われていたという。当時は、東洋一の規模を誇ったらしい。 初めての解剖実習の日、ぼくたちは白衣を身につけ、『解剖学の実習と要点』を脇に抱えて、実習室のある地下1階への階段をのろのろと下りていった。足が重いとはこのことである。 ぼくはそのとき、渡辺淳一が書いた『白夜』(中央公論新社)という自伝的小説を思い出していた。渡辺淳一にとっても解剖実習はかなりのインパクトがあったらしく、かなりのスペースを割いている。その中に「食べ過ぎると、解剖のとき気味悪くて吐き出すらしいぞ」とみなにふれて歩く寮生がいたとの記述があった。 ===== (ああ、なんで今頃思い出すんだ。遅いじゃないか。もう、腹一杯に飯を食ってしまった) 教官に導かれて分厚い鉄の扉を重々しく開き、実習室に足を踏み入れる。そこは体育館くらいの広さがあった。整然と実習台が並んでいて、その台の上に白い布に覆われた人の形が盛り上がっている。指定された実習台の前にぼくは進んだ。ご遺体を前にして、3人の学生......男子2人と女子1人は強ばった顔つきをしていた。きっとぼくも同じ表情だろう。 この布の下に亡くなった人間がいるのかと思うと、やっぱり怖い。でも大江健三郎の『死者の奢り』(新潮文庫)という小説を読むと、ご遺体はホルマリンの水槽の中に密になって浮かんだり沈んだりしていると書いてあったので、自分で実習台まで運ばなくて済んだのは助かったと思った。 まずぼくたちは全員で黙禱を捧げた。それが終わると教官が黒板にササッと本日の解剖の要点を箇条書きにし、実習書のページ番号を指示した。 「はい、じゃあ、始めてください」 え、それだけ! という感じである。いきなりもう始まるのか。ぼくは仲間の顔を順番に見てから、布をゆっくりとめくっていった。3人から息を飲む気配が伝わってきた。 ぼくの担当は下半身だった。誰が最初にメスを入れるのか? ほかのグループの様子を窺うと、みんな戸惑っているようだった。ぼくは解剖実習書に目をやり、皮膚の切開線を確認するとメスを握った。同級生たちは開成や桜蔭出身の良家の子女である。一方、ぼくはどんじり医学生だ。最初に切るのはぼくしかいない。ぼくは心の中でご遺体に向かって、よろしくお願いしますと声を出し、サッとメスを入れた。吐き気なんて感じる間もなかった。こうして解剖の日々が始まった。 *** 実習は予想したよりはるかに難しかった。教科書にはここを切れば、○○という神経があると書いてあるが、それが簡単に見つからない。メスを進めて懸命に探すとようやく行きあたる。その○○神経は足先に伸びたあと、2本に分かれ......などと書いてあるが、それが3本に分かれていたり、分かれる位置が教科書とは全然異なることが往々にしてあった。 こうした解剖学的な変異(バリエーション)を破格という。人間の体の中は、破格の連続だった。ぼくは人体が教科書通りでないことに何かほっとした気持ちになった。考えてみれば、目の前のご遺体にも何十年に及ぶ豊かな人生があったはずである。そして何かの事情や決意で自分の体を医学教育に役立てようと献体したのだ。人間の人生には一人ひとり個性とかバリエーションがある。だったら、体の中にだって破格があった方が人間くさくていいじゃないか。 ===== 最初の緊張は割と早く解けた。そしてぼくたちは黙々と真剣に解剖に取り組んだ。解剖学が医学の基盤ということは十分に分かっていたし、何よりご遺体を前にして厳粛な気持ちが薄れることはなかった。実習は長期に及んだが、倦(う)むことなく弛(たゆ)むことなく粛々と専念した。 解剖が進むにつれて、一人の人間の肉体がどんどん細かい部分に分かれていく。すると「人間ってなんだろう」と高校生のときに考えた疑問がまた甦ってきた。人は肉体と霊の2つからできているという人がいる。でも、いま目の前にしているご遺体に霊が舞い戻ってきても、この人が生き返るとは思えない。高校の「倫理・社会」の授業で、実存主義について「実存は本質に先立つ」と習ったが、本当に人間とはまず物体として存在しているのだな......などと強く納得した。 この解剖実習の光景を一般の人は正視できないだろう。自分の体を献体に捧げた人も、当然、この実習の具体的な姿は知っていないだろう。おそらく献体をすると決めたときにその人は、「自分を捨てる」「身を捧げる」と決意して、自分の肉体を医学に奉仕させようとしたに違いない。それは、ある種の自己犠牲みたいなものだろう。あるいは仏教でいう慈悲の心に通じるようなものだろうか。 *** ぼくの真向かいに位置する女子学生は、男子学生に劣らず熱心に、そして積極的に解剖をこなしていた。大きめの眼鏡が愛らしい、少し華奢な女子学生だった。ぼくは解剖に熱中すると体を乗り出してしまう。彼女もそうだった。気が付くと、お互いの額がくっついていることもあった。 ぼくはこの女子学生が少し好きになってしまった。女性だからといって甘えないところが感じがよかったし、ぼくは一生懸命な人が性別を問わず好きだったのだ。でも、少し好きになっただけで、それ以上好きになることはなかった。私語を交わすこともほとんどなかった。 ぼくは自転車の前カゴに『分担 解剖学』と『解剖学の実習と要点』を乗せて、亥鼻山の坂を立ち漕ぎで駆け上がり、校舎に通った。1年近くに及んだ解剖が終わると試験が待っていた。試験官は、千葉大の先生だけでなく、他大学からも何人かの先生がやってきた。試験はかなり厳しいと聞いていたのでぼくたちはその日を緊張して待った。 試験官が訊く。 「○○神経はどれだ?」 「この神経の名前は何だ?」 ぼくはラテン語で答えた。すると教官は、 「何だ、その言い方は? どこの言葉だ?」 その試験官は英語を使う先生だった。 ===== 合格者の発表があり、ぼくの名前もあった。解剖学はできて当たり前である。でも、やはり何か誇らしかった。医者になるためにはこの先、山ほど勉強をしなければならないことは分かっていたけれど、自分は医学生としての第一歩を踏み出したのだと自覚した。人間一人の死をふまえて初めて経験できる領域に入って学問を修めたということは、もう、工学部とか理学部の学生とは違う世界に自分は生きているのだと厳粛な気持ちを抱いた。 献体してくれた人の心に応えて自分はこの先、やりきれるだろうか。そしていい医師になれるだろうか。いや、自分はやらなくてはいけないのだと義務感のようなものを覚えた。 最後にご遺体を棺に納め、解剖台を清掃するとき、太宰治が作品『葉』で引用した「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」という言葉がぼんやりと浮かんだ。 実習が終わったあとで、ぼくは転居を決めた。亥鼻山の上のアパートへ移ることにした。ぼくの階下の部屋がフィリピン人女性と思われる集団の深夜のたまり場になってしまったからだ。今度のアパートは6畳と3畳の二間。築20年の木造アパート。家賃は4万円。こうして仙人生活に入っていった。最も熱中したのは勉学と言いたいところだが、ぼくの青春はラグビーにあった。 『どんじり医』 松永正訓 著 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)