<最も偉大なサッカー選手でありながら、常に体制や権威に抗議し周囲の理解を求めて苦しみ続けた男との別れ> 11月25 日が終わった深夜1時すぎ、寝る前にツイッターを開いたところ、アルゼンチン在住のサッカージャーナリストのツイートから、「マラドーナが亡くなった...」との文字が目に飛び込んできた。頭の中が真っ白になり、誤報でないか確かめようとしてアルゼンチンの新聞にオンラインでアクセスするが、つながらない。ああ、事実なんだ、と確信したら、涙が止まらなくなった。 アルゼンチン人でもない自分が、ディエゴ・マラドーナの死にこんなにも衝撃を受け、喪失感にさいなまれるとは思っていなかった。 眠れずに、ネットでマラドーナ関連の情報や思い出の画像や映像をひたすら追う。マラドーナの生きていた時間に浸っていたかったのだ。遠い存在であるはずのマラドーナがもう存在しないというだけで、何で自分はこんなに寂しいのだろう、と考えながら。 私は最初、マラドーナを好きではなかった。 私にとって、「サッカーの物心」がついたのが、1986年のワールドカップメキシコ大会だった。確かにマラドーナはすごかった。伝説のイングランド戦の5人抜きも生中継で見て度肝を抜かれたし、準決勝ベルギー戦の2点にも震えた。 けれど、決勝では私は西ドイツを応援した。大スターの天才一人で勝っていくチームとそれをもてはやすメディアに、若造の私は反感を覚えたから。西ドイツは全力で食い下がったが、それでもマラドーナのパス一本でアルゼンチンは優勝を決めてしまった。憎らしかった。 たぶん、大きな流れにすぐ反発を感じてしまう自分のこの性質がやがて、マラドーナの存在の在り方に私をシンクロさせていったのだろう。マラドーナこそ、筋金入りの永遠の反逆児なので。 1990年のワールドカップイタリア大会の決勝、西ドイツに負けたマラドーナは、常軌を逸した大泣きをしていた。悔しくて泣くのかと思ったら、「試合を盗まれた」と抗議しているのだった。 注意深くメディアの報道を調べてみると、マラドーナはいつでも体制や権威やメディアや政治に抗議していた。激しく、時に口汚く罵りながら。 権威と闘う「言葉の人」 あんなに楽しそうにサッカーを魔術的世界に変えてしまうのに、マラドーナの言葉はしばしば怒りに満ちていた。喜びも口にするけれど、マラドーナの心の基盤を作っているのは強烈な怒りのように私には感じられた。 ===== 例えば、『マラドーナ!』(邦訳・現代企画室)というマラドーナの発言集をめくってみよう。 「バチカンに初めて入ったとき、天井が全部金でできているのを見て、怒りがこみ上げてきた」 「ぼくは自分の病気(薬物依存症)を認めるよ。でも、FIFAの首脳陣も違う病気を持っている。泥棒病、恥知らず病だ。彼らは泥棒中毒だ」「イングランド人には本当に1000回でも謝りたい。でも、ぼくはあれ(神の手ゴール)をあと1001回やるかもしれない。ぼくは彼らが気づかないうちに素早く財布を盗んじゃったみたいだ」 私はこれらの言い分、痛快なレトリックにすっかり魅了されてしまった。そう、マラドーナは言葉の人でもあるのだ。少しでも権威の威圧を感じると反抗せずにいられない。 キューバで療養中に語り下ろした『マラドーナ自伝』(邦訳・幻冬舎)は、もっとすさまじい。自分は誤解されていて、真実はこうなんだ、わかってほしい、という気持ちが前面に出るあまり、ありとあらゆる出来事について、誰かを責めている。自分の過ちを認めながらも、時に人に責任転嫁し、言い訳をしまくっている。そして、口から出まかせのようなそれらの非難と正当化の嵐の中に、ものすごく核心を突いた鋭くまばゆい批判が混ざる。 これを読むと、マラドーナがいかに人から認められることに飢え、小さくとも心ない批判に傷ついて被害者意識を募らせ、それでも理解を求めてしゃべりまくるのか、痛々しいほどに伝わってくる。魔術のようなサッカーを見せ、人々が熱狂すると自分も歓喜し、主役であることにイノセントなまでの幸福をにじませ、それでも次の瞬間には人に見捨てられるのではないかと怯えるマラドーナ。陽気で自己中心的で激しやすく、情に厚いマラドーナ。弱い人にはすぐ共振するマラドーナ。 マラドーナに己を見る 亡くなる一月前、60歳になった記念のインタビューで、マラドーナは「まだ自分は好かれているだろうか、みんな以前と同じように思ってくれるだろうかと、ときどき気になる」と語っている。ここ数年は重度のアルコール依存症に苦しみ、健康も悪化するばかりだった。 私にはその姿が、やはり自分であることに苦しみ続けたマイケル・ジャクソンと重なって見える。 ===== マラドーナが亡くなった直後から、ウルグアイの作家、故エドゥアルド・ガレアーノが10年前に述べた次のような言葉が、ラテンアメリカ中で拡散している。 「マラドーナはずっしりと重い十字架を背負っている。マラドーナである、という十字架を。この世で神でいることは大変きついが、神であるのを辞めることができないのは、もっときつい。全精力を注いで神であり続けなくてはならないのだから。(中略)マラドーナは最高に人間らしい神で、まるで私たちの一人であるかのようだ。うぬぼれ屋で色恋にだらしがなくて打たれ弱い......。みんなと同じじゃないか! だから私たちは、マラドーナの中に己の姿を見る。高みから非の打ちどころのなさを示して私たちを罰する神とは違うのだ。(中略)私たちはマラドーナの素晴らしさに自分を投影するのみならず、その欠点にも自分を映すのである」 とてつもない天才であったとはいえ、20年以上も前に引退した選手に、なぜ私はこんなにも喪失感を抱くのか。それは、言葉の人としてのマラドーナは現役であり続けただけでなく、マラドーナがマラドーナを引退することはあり得ないからだ。 ガレアーノの言うとおり、私はマラドーナの言葉に胸のすく思いをし、そのめちゃくちゃさにあきれつつ、その弱さに共鳴し、遠いはずなのに身近に感じてきた。マラドーナが亡くなることは、その言葉を聞くことができなくなることであり、自分のかすかな一部を失うことなのだ。 でも、と私は言い聞かせる。ファンにとってマラドーナは死なないから。 <本誌2020年12月8日号掲載> ===== 英雄に別れを告げるアルゼンチン国民(首都ブエノスアイレスにて)