<世界各国の公的債務の残高は277兆ドルに達し返せる当てもないが、それでも政府は必要な支出を惜しんではいけない> いかに私たちが健忘症でも、まだ忘れてはいないだろう。わずか10年前までは(少なくともヨーロッパでは)緊縮と禁欲、そして徹底した歳出の削減だけが生きる道だったことを。「天気のいいうちに屋根の穴を塞ぎ」、借金を減らして経済成長を促せ。それが必須で、借金のし過ぎは取り返しがつかないことになる。それこそが常識だった。 「最新の研究によれば、債務残高がGDPの90%を超えると長期の成長にネガティブな影響を及ぼすリスクが高まるそうだ」。10年前に、英財務相となる直前のジョージ・オズボーンはそう言い、こう付け加えていた。英国の債務残高は「2年以内にGDPの90%を超える見込み」だと。 今の世界は「債務の津波に襲われている」。国際金融協会(IIF)はそう警告している。世界各国の債務残高は年末までに合計で277兆ドルに達し、世界のGDP比で365%になるという。 10年前の政治家たちを驚愕させた90%の4倍以上。今年は「前例のない」出来事が十分過ぎるほどあったが、これもまたその1つだ。世界全体の債務残高は第2次大戦の直後以来、金額でもGDP比でも前代未聞の水準に上る。 かつて恐れられたGDP比90%の水準を、まだ超えていない先進諸国(日本を含む)はほとんどない。アメリカの債務残高はGDP比約131%。イギリスは108%で、イタリアは162%、ギリシャは205%。例外はドイツやオーストラリア、オランダなどだが、例外は例外。もはや100%超えが当たり前の世界だ。 例えばイギリス。財務相のリシ・スナクは歳出計画の発表に当たり、国家の長期的繁栄に不可欠と思えない支出については削減に努めるが、それでも歳出全体は増え続けると言明した。 イギリスの債務残高は今年7月に初めて2兆ポンド(約277兆円)を超えたところで、新型コロナウイルスによる経済への制約が続く限り、この先も増えるのは確実だ。10年前の債務残高(約1兆2000億ポンド)に比べたら倍近いが、それでもスナクが10年前のオズボーンのように「緊縮」を説く気配はない。 緊縮を説く学者は昔からいたが、債務残高をGDPの90%以内に抑えろと言い出したのはハーバード大学のカーメン・ラインハート教授(世界銀行の副総裁兼チーフエコノミストでもある)とチェスの名人でもあるケネス・ロゴフ教授だ。この2人は2010年の論文で「公的債務がGDPの約90%を超える国の成長率は、中央値で見ると、そうでない国に比べて約1%低下する。平均成長率で見れば、数%の低下になる」と指摘した。つまり、借金が増え過ぎると経済成長の持続は困難になるということだ。 借金にいいも悪いもない しかし「彼らの依拠した数字は正確でないことが判明した」と、デロイトUKの主任エコノミストであるイアン・スチュワートは本誌に語った。「何が『適正』な比率なのかは、私にも分からない。現に日本は200%を超えている。擁護できる状況ではないが、それでも日本は持ちこたえている」 ===== つまり「債務の問題は管理できる」のだと、スチュワートは言う。「債務の累積に問題がないと言うのではない。放置すれば途方もないインフレを招くだろう。さもなければ債務不履行を宣言するか、国民にきつい緊縮を強いるかだ。それに比べたら、抱えた債務をうまく管理するコストは微々たるものだ」 ラインハートらの論文の主張は、実を言えば2013年には別の論文で論破されていた。しかし政治的には生きていた。現に当時の欧州委員オッリ・レーンやアメリカのポール・ライアン下院議員(共和党)も、この論文を引き合いに出して緊縮財政の必要性をしきりに説いていたものだ。 ちなみにラインハートとロゴフは当時の主張に矛盾があったことを認め、ニューヨーク・タイムズ紙への同年の寄稿で、経済学に「いつでもどこでも当てはまる規則などない。私たちも、90%という水準が決定的なものだと言った覚えはない」と釈明している。 そもそも彼らの主張は目新しいものではない。1970年代にも、当時の英国首相ジェームズ・キャラハンが「歳出の拡大で景気後退を乗り越え、減税と歳出増で雇用を伸ばす政策」は賢明ではなく、インフレ高進につながるだけだと主張していた。 私たちは今、学者も政治家もそんな考え方を否定し、とにかく公的支出の増大によって経済成長を促せばいい(つまり、債務のGDP比が100%を超えても気にするな)と考える時代に突入しているのだろうか。 「借金にいいも悪いもない」と言うのはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのイーサン・イルゼツキ准教授。「借金の目的は、歳入の有無にかかわらず、国家や国民が必要なことを、必要な時期に行う機会の確保にある。だから、借金のツケがどうなるかを考えるより先に、現下の景気後退を食い止めるために必要なことをすべきだ」と。 欧州の懸念材料と希望 結果としてどんな事態が生じるかは分からない。だが可能性としてはEU、とりわけユーロ圏の諸国に外交的な亀裂が生じるかもしれない。 ギリシャとイタリアは格段に債務が多い。とりわけギリシャはIMFとユーロ圏諸国の両方から何度も救済措置を受けてきた。しかも、そこへ新型コロナウイルスが追い打ちをかけている。 「一体ギリシャはどうやって返済するつもりか」と問うのはイギリスのキム・ダロック元EU常任代表・元駐米大使だ。「スペインやポルトガル、イタリアなどの南欧諸国は依然として成長力が弱い。東欧圏には政治的な問題もある。EU域内には深刻なストレスがかかっている」 ポピュリズムや極右政党の台頭と不況の関係は歴史を見れば明らかだ。90年前の大恐慌はナチスの台頭を許したし、10年前の金融危機はフランスでマリーヌ・ルペン率いる極右民族主義の政党を躍進させ、ポーランドでは同じく右派のアンジェイ・ドゥダ大統領の誕生を招いた。 ===== そんな過ちの繰り返しは避けたいから、EUは新型コロナで深刻な打撃を受けた加盟国の経済立て直しのために総額7500億ユーロの拠出を決めた。これで、少なくとも向こう3年間は予算規模が従来の2倍に膨れ上がることになる。 ただし、実のところ債務の問題はかなりの程度まで政治的なものだ。この世界に総額277兆ドルの債務があるということは、どこかに277兆ドル分の債権者がいるということ。借り手がいれば貸し手がいる。だから(あえて単純化して言えば)この問題はゼロサムゲームだ。 例えば中国は2016~18年にかけて世界銀行から62億ドルを借り入れたが、一方で多くの国々に総額7000億ドル超を貸し付けている。数字上は世銀やIMFより巨大な債権国ということになるが、ここでも問題の本質は、数字ではなく政治力だ。規模は小さいが、次期米大統領のジョー・バイデンが学生ローンの債務棒引きを口にしているのも政治の問題である。 いずれにせよ、前代未聞の状況には前代未聞の財政出動が付き物だ。そしてそこでは(政治的にも経済的にも)勝ち組と負け組の明暗が分かれる。とりわけヨーロッパではそうだ。しかし、誰かが勝てば必ず誰かが負けなければならないのだろうか。 「例えばギリシャ。あの国の救済は政治の問題だ」とイルゼツキは言う。「ユーロ圏全体から見れば、ギリシャの救済など簡単だろう。しかし実際に動くとなると、制度的に面倒な問題がある」 彼に言わせると、もっと心配なのはイタリアだ。「こちらは真に経済的な問題で、イタリアを救済するにはユーロ圏の他の国々が相当な経済的犠牲を払わねばならない」。なぜか。ギリシャの経済規模は世界52位だが、イタリアは第8位だからだ。 「イタリア経済は近代史上最も暗い時代に来ている」と言うのは、オランダの金融機関ラボバンクの上級エコノミストであるマールチェ・ワイフェラールス。イタリア政府は企業の債務不履行の増加を阻止できず、イタリアの銀行の将来は「依然として暗い」と予測する。 最悪のシナリオは、イタリアが他のユーロ圏諸国ほど迅速に回復できず、債務の急増で景気が落ち込むなかで23年の総選挙を迎え、そこで反EUの右派勢力が台頭することだ。そうなればEUとの交渉は暗礁に乗り上げる。 しかし現時点では、まだ「懸念材料は見当たらない」とイルゼツキは言う。「イタリアでは債務の大部分を国内の年金制度や銀行制度が引き受けている。それ自体にもリスクはあるが、少なくとも市場にパニックをもたらすことはなさそうだ。ただしサプライズの可能性はあるから、目は離せない」 ===== 2008年の金融危機はルペン率いる極右政党台頭の直接の原因になったとされている BENOIT TESSIER-REUTERS 新型コロナウイルスに対するワクチンの開発は、(効果の疑問を別にすれば)今や時間の問題だ。来年になれば本格的な供給が始まるだろう。しかし問題は、世界の経済大国がいかに素早く、現下の経済危機から脱出できるかだ。そこで重要なのは、景気の回復がV字型かU字型か、あるいはL字型かだ。V字回復なら、それだけ(GDP比で見た)債務の規模も小さくて済むはずだ。 なお、エコノミストたちが現在の世界の債務残高についてあまり心配していない理由の1つは低金利である。現にドイツ政府はマイナス金利での借り入れを行っているため、返済額は借入額よりも少なくて済むはずだ。しかも長期的な流れとして金利は下落傾向にあり、現在の低金利はしばらく続くというのが大方の見方だ。各国政府はその間に、経済のバランスを調整する策を講じればいい。 まずは戦いに勝つこと いずれにせよ、世界の債務残高は277兆ドルを超えて今後も積み上がっていく。そもそも新型コロナにやられる前から、いわゆる低所得国の約4割は債務負担にあえいでいたし、今も債務は世界中で、平時としては最悪のペースで増え続けている。 「この数字を見て震え上がるのは簡単だし、懸念材料があるのも事実だ」とイルゼツキは言う。「だが私たちが注視すべきは、債務の総額ではなく返済能力だ」 イルゼツキはさらに続けた。「イギリスの債務残高はGDPの100%を超えてさらに増え続ける。アメリカもそうだ。もしもいっぺんに返せと言われたら、国内生産の全てを債権者に差し出さねばならなくなる。でも、そんな単純な話ではない。いろんな決まり事があるから、そんなことはあり得ない」 そう言われても安心できない人は原点に立ち戻って、10年前に緊縮の鐘を鳴らしたご本人の言葉を聞くといい。ラインハートは去る5月にハーバード大学のオンライン学内誌にこう語っている。 「そもそも戦争が始まれば、第1次大戦でも第2次大戦でもそうだったように、私たちはまず勝つことを考え、借金の返済を考えるのは後回しにする。そういう事情は今も同じ。当座の戦いに勝つのが先決で、そっちは二の次。今は平和だから、みんなあれこれ心配してしまうのです」 そうだといいが、277兆ドルの債務は重い。世界はどこまで耐えられるのか。今はまだ歴史的な低金利が続き、各国も長期の成長戦略を打ち出しているから誰もパニックを起こさない。しかし、とイルゼツキは警告する。「いつ貸し手の気分が変わるかは予測し難い。急に流れが変わることもあり得る」 <本誌2020年12月8日号掲載>