<80歳まで生きようと語っていたヨーコとジョン。その願いを断ち切った悪夢――衝撃の事件を報じた当時の記事を再録(本誌「ジョンのレガシー」特集より)> かつて「カム・トゥゲザー(集まれ)」と歌った声に誘われるように、ニュースを聞いた人々が衝撃と悲しみを分け合おうと集まった。ビートルズの4人の中でも皮肉屋で、その音楽によって1つの世代を動かし、世界を魅了したジョン・レノンが、彼を崇拝する狂信的な若者によって自宅前で射殺された。 ニューヨークのセントラルパーク・ウェストと西72丁目の角にあるダコタハウスの前には、涙に暮れた人々が夜を徹して彼の死を悼み、慰め合う姿があった。同じような光景は全米、いや全世界で見られた。ダラスのリーパーク、サンフランシスコのマリーナ・グリーン、ボストン・コモンをはじめ、無数の場所で、年齢や人種を問わず多くの人が集まり、ろうそくをともし、彼の歌を口ずさんだ。「愛こそはすべて」。みんな、雨に打たれながら歌った。 ビートルズの事実上のリーダーだったジョンは、60年代、70年代のポップカルチャーに神のような存在として絶大な影響を与えた。だが最近は音楽業界や公の場から姿を消し、隠遁生活を送っていた。 その彼が5年ぶりの新アルバムを携えて戻ってきたのは数カ月前のこと。次のアルバムの準備も順調に進んでいた。「僕はまだ40だ。この先あと40年は創造的な日々がある」。 彼はそう明るく語っていた。しかし、当ては外れた。レコーディングを終えて妻オノ・ヨーコと共に帰宅した彼の前に、マーク・デービッド・チャップマン(当時25)が立ちはだかり、暗闇から凶弾を放ったのだ。 事件の第1報に世界中が驚愕した。北米とヨーロッパのラジオ局は通常の番組を中断し、ジョンとビートルズの曲だけを流し始めた。モスクワのラジオ局も彼の曲に90分を割いた。 ショックで取り乱したファンはレコード店へ詰め掛け、ジョンのレコードを手当たり次第に買いあさった。ボストンのレコード店主は言う。「みんな、大事なものを盗まれたように血相を変えていた。失ったものを、何とかして取り戻そうとしていた」 チャップマンは、ジョン・レノンになりたかった。それなのに、なぜ殺したのか。彼を殺せと言う「声」を聴いた。半年前にサインを頼んだとき、ジョンのサインの仕方が気に入らなかった――。警察によれば、チャップマンはそんな供述をしているらしい。 ===== 悲劇の場所 殺害現場のダコタハウスに集まった大勢の人々 AP/AFLO チャップマンの友人は、彼がジョン・レノンと自分を同一視していたと語っている。いつもビートルズの曲をギターで弾いていて、ホノルルのアパート管理人の仕事に就くとIDカードにジョン・レノンの名をテープで貼り付け、ジョンに倣って年上の日系女性と結婚した。以前に2度、自殺を試みたこともあるという。 「彼は自分を殺そうとし、それに失敗したためジョンを殺すことにした」と、ハワイの心理鑑定士は推測する。「この殺人は単に自殺が逆転した結果だ」 チャップマンは、ジョンの殺害を何週間も前から計画していたようだ。10月下旬、彼はビル管理の仕事を辞め、ホノルル警察に拳銃所持許可を申請している。彼には犯罪歴がなかったので許可はすんなり下りた。そして10月27日、チャーターアームズ38口径スペシャルを169ドルで購入した。「ごく普通のやつだった」と店の経営者は言う。 同じ頃、チャップマンは過去に何度か高価なリトグラフを購入していた画廊の経営者に電話を入れ、金が必要なので1枚売却したいと画廊に伝えている。また、彼にビル管理の仕事を紹介した就職カウンセラーにも電話して、「ものすごいことを計画している」と語ったらしい。 チャップマンがニューヨークに着いたのは12月6日の土曜日だった。ダコタハウスまで歩いていけるYMCAに宿を取った。1泊16.5ドルの部屋だ。その日の午後、彼を乗せたタクシーの運転手によれば、チャップマンは、自分はジョン・レノンのサウンドエンジニアで、いまレコーディングの最中だと語った。また、ジョンがポールと仲直りし、一緒にアルバムを作ることになったとも話していた。 同じ日、彼はダコタハウスの入り口付近をうろついているところを目撃されている。そのときは誰も気に留めなかった。有名人が多く住む建物だから、ファンが来ることは珍しくない。チャップマンは日曜日にもダコタハウスに現れた。そしてYMCAを出て、シェラトン・センターの1泊82ドルの部屋に移っている。 犯行直後に読書をしていた 月曜日の夜、チャップマンはついにジョンを見掛けた。その日の午後、チャップマンはダコタハウス前の歩道にいた。今度は仲間もいた。ニュージャージー州から来たビートルズ・ファンで、カメラが好きなポール・ゴレッシュだ。ゴレッシュによると、チャップマンは「ここ3日間、ジョンのサインをもらおうと待っている」と話した。午後5時、ジョンが妻と一緒にスタジオへ向かうため建物から出てきた。 チャップマンはおずおずと彼に近づき、サインをもらおうとジョンとヨーコの最新アルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出している。ジョンはそれを受け取り、サインをした。その瞬間をゴレッシュは写真に撮った。チャップマンはひどく興奮し、「ハワイじゃ誰も信じてくれないだろうな」と語ったという。 2人はさらに2時間、ダコタハウスの前で待った。ゴレッシュが帰ろうとすると、チャップマンが引き留めた。ジョンはもうすぐ帰ってくるだろうから、今度はゴレッシュがサインをもらえ、と言うのだ。ゴレッシュは、またの機会でいいと答えた。 ===== 世紀の犯人 逮捕されたチャップマンは警官が現場に到着したとき読書をしていた BETTMANN/GETTY IMAGES ところが、チャップマンは「僕なら待つけどな」と真顔で言った。「だって、もう二度と会えないかもしれないから」レノン夫妻は10時半までスタジオに詰めていた。そして10時50分、夫妻を乗せたリムジンがダコタハウスの72丁目側の入り口前に止まったヨーコが先に降り、ジョンが続いた。中庭に続くアーチに差し掛かったときジョンは後ろから声を掛けられた。 「ミスター・レノン!」。振り返ると、チャップマンが両手で拳銃を握って立っていた。1・5メートルの至近距離。チャップマンは発砲し、ジョンの背中と肩に4発の銃弾を撃ち込んだ。ジョンはよろめきながら6歩進み、ドアマンのオフィスで倒れた。ヨーコはジョンの頭を抱きかかえた。チャップマンは拳銃を捨てた。 ドアマンが「自分が何をやったか、分かっているのか?」と聞くと、チャップマンは「ジョン・レノンを撃った」と落ち着いて答えた。ドアマンの通報で、警察は数分後に到着した。チャップマンは逃げようともせず、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。 「パパは神の一部になった」 意識半ばで大量に出血していたジョンは、パトカーの後部座席に乗せられた。警官のジェームズ・モランは「自分が誰だか分かるか?」と問い掛けたが、ジョンは話すことができなかった。「うめき声を上げながら、分かると言わんばかりにうなずいた」。モランのパトカーを追うように、ヨーコを乗せたもう1台のパトカーが15ブロック離れたルーズベルト病院へ向かった。 ジョンは病院に搬送されたが、既に全身の血液の80%を失っており、手の施しようがなかった。30分後に死亡が宣告されたが、ヨーコは信じられなかった。「私の夫はどこにいるの?」と聞く彼女に、担当医のスティーブン・リンは深呼吸してから言った。「とても悪い知らせがある。最善を尽くしたが、あなたの夫は亡くなった。苦しむことはなかった」。ヨーコはその言葉を理解することを拒んだ。「どういうこと? 彼は眠っているの?」。そう言って、すすり泣いた。 ===== アイコンは永遠 ニューヨークのセントラルパークに集って黙祷をささげるファン BETTMANN/GETTY IMAGES 深夜、ヨーコは知人に付き添われて帰宅し、世界中で3人だけに電話を入れた。ジョンの長男ジュリアン、育ての親であるミミ・スミス、そしてポール・マッカートニーだ。「ジョン・レノン死す」のニュースが街中に広まると、誰が言い出したわけでもないのに、ダコタハウスの前には祈りをささげる人々が集まり始めた。ジョンの歌を歌い、ろうそくをともし、門に花束やジョンとヨーコの写真を飾り、急ごしらえの祭壇を作った。 元ビートルズの仲間のうち、あえてニューヨークまでやって来たのはリンゴ・スターだけだった。ジョージ・ハリスンはレコーディングの予定をキャンセルして家に引きこもった。マッカートニーは「独りでジョンの死を悼みたい」と言った。 ヨーコも人前には出なかった。事件から2日後、彼女は息子のショーンに父の死をどう伝えたかを文章で発表した。そこには「パパは神様の一部になったんだ。人は死ぬと、すごく大きくなるんじゃないかな。だって全ての一部になるんだから」という、ショーンの言葉も紹介された。 そしてジョンの葬儀は行わないとして、彼の死を悼みたい人は日曜日の午後、彼の遺体が火葬された後に、「その時間、どこにいようが」10分間の黙祷をささげて彼を送ってほしい。そういう内容だった。 ジョンは年齢、人種、階級を問わず広く支持されていたが、この事件で最高にショックを受けたのは、20代後半から30代のベビーブーム世代だろう。サンフランシスコの27歳は「私たちは彼と一緒に育ってきたの」と言い、ダラスの32歳は「これで60年代を葬り去る棺桶に最後のくぎが打ち込まれた」と嘆いた。 喪失感は大きい。しかし、これで1つの時代が終わったと考えるのは間違いだろう。ヨーコは彼を送った翌日に語っている。「私たちには、一緒にやりたいことがいっぱいあった。80歳まで生きようって話していた。もう、それはかなわないことになってしまった。でも、私たちの伝えたいことが終わったわけじゃない。音楽は生き続けるから」 その音楽がある限り、ジョン・レノンも生き続ける。 【本誌米国版1980年12月22日号掲載記事を再録】 <2020年12月15日号「ジョンのレガシー」特集より>