<内戦とテロの嵐が吹き荒れ、腐敗体質と独裁が復活──大量の難民が発生したが自由を求める戦いは終わらない> 小学5年生のときだった。学校当局の指示で授業を早めに切り上げ、シリアのバシャル・アサド大統領をたたえる歌を歌いながら首都ダマスカスの通りを行進することになった。この日の集会には大統領その人も姿を見せた。 長い行事が終わり、家に帰ると、私は興奮気味に父に話した。「大統領はね、サルみたいに耳がでかかったよ!」 軍の将校だった父は笑うどころか、私に平手打ちを食らわせた。このとき父に言われたことは一生忘れないだろう。「壁、窓、ドア。あらゆる場所に耳がある。大統領やその周りの人たちについて、おまえが何か言えば、彼らは必ず聞いている。ひそひそ声だって聞き漏らさない」 独裁制とはどんなものか。私は10歳で思い知らされた。 それから5年後、2010年12月17日にそんな恐怖支配が揺らぎ始めた。 チュニジアの町で露天商の26歳の青年が警官に無許可販売をとがめられ、彼にとって唯一の収入源である売り物の野菜を押収されたことに絶望し、焼死自殺を遂げた。 このニュースにアラブ中が目を覚ました。もう黙ってはいられない。 青年の名はモハメド・ブアジジ。自由を求める戦いに命をささげた戦士の1人として、その名は人々の記憶に刻まれることになる。 アラブ世界の独裁者を倒すことなど不可能だと思われていた時代に、チュニジアの人々は通りに繰り出し、ついにはジン・アビディン・ベンアリ大統領を退陣させた。23年間支配してきたベンアリの政権がわずか28日間のデモで倒れたのだ。しかもそれはおおむね非暴力のデモだった。 チュニジアの人々が自由を求めて立ち上がったとき、世界史の新たな1章が幕を開けた。「アラブの春」という章である。チュニジアに続いて、リビア、エジプト、イエメンでも人々は声を上げ始めた。 私は家族と一緒にテレビのニュースで、エジプトの人々が民主化を求めて広場を埋め尽くす場面を見た。父は私にささやいた。「こんなすごいデモがシリアでも起きるだろうか」。父も興奮していたが、大声を出すのははばかられた。壁には耳があるから......。 民主化のうねりはついにシリアにも波及した。きっかけは通りに面した壁に「ドクター、今度はあんたの番だ」と落書きして、少年15人が逮捕された事件だ。アサドは眼科医の資格を持つから、これは反アサドのメッセージだと解釈された。少年たちは連行され、残酷な拷問を受けた。少年の1人、13歳のハムザ・アリ・アル・ハティーブは治安警察に殺害され、無残な遺体となって家族の元に送り返された。 ===== 彼の家族や同じ町の住民たちの悲しみと怒りがシリア全土に広がり、ついにシリアでも革命が勃発した。 父は私を車に乗せて集会やデモに参加するようになった。そのときも父はまだひそひそ声だったが、思いは伝わってきた。今こそ勇気を持って一歩を踏み出そう。もう後には引けない。デモに参加する以上、死を覚悟の上だ。 アサドのすさまじい反撃 正直とても怖かったが、心の奥底には喜びがあふれていた。デモ参加者はみんなそうだったと思う。私は抑え切れない興奮に震えていた。 「ああ、僕は自由だ!」 その後刑務所に入れられ、拷問されることになるとは想像だにしなかった。シリア全土に広がったデモの様子を家族と一緒にテレビで見たまさにそのリビングで、父と兄弟が殺されることも......。 アサド政権の暴虐とそれに続く内戦で亡くなった50万人を超える同胞たち。そこには、私の家族も含まれている。私の住む地域でも虐殺が起きた。私の生まれた村ではアサドと同じイスラム教シーア派の一派であるアラウィ派が住民の多数を占めていたが、アサドの意向を受けて、少数派であるイスラム教スンニ派の住民が片っ端から殺された。 どんな戦いにも勝者と敗者、そして犠牲者がいる。「アラブの春」が成功したと見るかどうかはさておき、この戦いをきっかけに強権支配が強い指導者の証しではないと、中東の人々が気付いたのは確かだ。長年恐怖支配に耐えてきた人々が正々堂々と声を上げることの素晴らしさを知った。 同時に欧米の人々は、中東にも民主化と変革の可能性があることを知った。そして中東の為政者たちは、暴力的な抑圧が死に物狂いの時間稼ぎにすぎず、真の解決にはならないことを思い知らされた。 チュニジア、リビア、エジプト、イエメンでは、大統領らを退陣に追い込むことはできたが、体制崩壊は果たせなかった。10年の歳月を経た今、人々は以前と同じ苦しみに直面している。 アラブの春の原点であるチュニジアでは、2014年に民主的な大統領選挙が行われて希望の光が差したが、組織的な腐敗の多くが続いていることはすぐに明らかになった。エジプトでは革命が始まって以来、2人の大統領を放逐したものの、新たな独裁者、アブデル・ファタハ・アル・シシ大統領が生まれた。 シリアでは2011年3月以降、人口の11.5%が死傷し、半分を超える1200万人以上が国内外に避難している。シリア人権ネットワークによると、この間に10万人近くが所在不明となった。その大半は政権の手によるとみられる。 ===== アサド政権は同盟国であるロシアとイランの助けを借りて、反政府勢力が解放したシリアの大部分を奪還した。現在は反政府勢力の最後のとりでである北西部のイドリブに400万人近い避難民が集まり(その半分以上が子供)、生き延びるだけで必死だ。 反政府勢力は、トルコやカタールなど外国の支援に頼らざるを得なかった。これらの国はシリアについてそれぞれ思惑があり、反政府勢力が真の敵に狙いを定めるのではなく、グループが互いに対立するように仕向けてきた。 2014年にシリア北部を中心に国家樹立を宣言した過激派組織「イスラム国」(IS)は、シリア革命にとって最大の危機となった。彼らは対抗勢力の殺害に躊躇なくリソースをつぎ込み、欧米の関心はアサド政権の残虐性からテロ集団の残虐性に向かった。 気が付けば、シリアの反政府勢力に対する信頼は失われていた。人々に残されたのは、11年前半に最初のデモに参加したときに抱いた希望だけだった。 私たちは恐怖の檻を壊す アラブの春の最中に成長した何百万人という若者は、自分たちの政府がいかに腐敗していて、自分たちを守る治安部隊がいかに危険であるかを身をもって学んだ。そして意見を異にする人々と関わり、共通点を見いだす機会を得た。 未来はどうあるべきかという新しい考えを、彼らは形にしてきた。自由を手にするまで戦い続けるだろう。現政権の支配下で命を落とした人々、逃れた人々、拷問を受けた人々のために。 また、何百万人という難民が、安全を求めてヨーロッパに逃れた。彼らの多くが現在は大学で学び、自由と民主主義を擁護して、平等と尊厳と人権を訴えている。そしてヨーロッパでの生活を基盤に、中東の未来に貢献するという新たな形の成功を収めている。 私が最初にデモに参加したのは、父に自分の存在を証明したかったからだ。私に対する父の見方を変えることが、私の最初の革命だった。 あれから10年、私はもっと大きなところにたどり着いた。当局に拘束されている推定21万5000人のシリア人と同じように、政権の最も暗黒な姿を見てきた。 私はヨーロッパに行き、初めて民主主義を体験した。自由を体験した。そこでは声を潜めて話す必要はなかった。シリアの革命がエジプトのように1カ月足らずで終わっていたら、私たちは自由や民主主義、人権について、これほど多くを学ぶことはなかっただろう。 ===== 10年間の混乱のおかげで、シリア人は将来祖国を再建するに当たり、中東で最も有能な手腕を発揮することになるだろう。独裁者を追放した後も腐敗した制度にとらわれ続けている国々と同じ過ちを、私たちは犯さないだろう。 私たちは拷問され、殺害され、家を追われた。それでも打ちのめされてはいない。希望も、変化を起こす意志も、失っていない。 過去に戻ることができたとしても、つまり、革命前に戻ることができたとしても、家族や愛する人が、何十万人もの無実の市民が殺され拷問される前に時間を巻き戻すことができたとしても、私たちは40年以上閉じ込められてきた恐怖の檻を壊すことを選ぶだろう。空の下で民主主義を唱和することを選ぶだろう。 私たちが始めた革命は、自由を目指す長い道のりの第一歩なのだ。 From Foreign Policy Magazine <2020年12月29日/2021年1月5日号掲載>