<ベストセラーを含む約30冊の翻訳書を出し、数々の成功体験があったが、約8年前に「足を洗った」という出版翻訳家。腑に落ちないことだらけの内情を、刺激的な1冊の本にまとめた> 私も物書きの端くれではあるので、出版業界の事情は多少なりとも分かっているつもりだ。だから、『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(宮崎伸治・著、フォレスト出版)に書かれているであろう内容は、読む前から多少なりとも想像できた。 厳密に言えば、出版翻訳家とはやっていることが異なるのだが、とはいえ同じ業界である。それに、冒頭にこんなことも書かれているのだ。 当時の私には次から次へと仕事が舞い込んできていたため、怒涛のごとく訳して訳して訳しまくった。10年近くは休みらしい休みもほとんど取れないくらい忙しく働いた。かくして私は約30冊の翻訳書を出すに至り、その過程でさまざまなことを経験した。 自分の名前が載った翻訳書が書店に並ぶ、胸がキュンとするくらい装丁が綺麗に仕上がっている、翻訳のクオリティーを褒めたたえたファンレターが来る、講演の依頼が来る、著書の執筆依頼が来る、ベストセラーになる、新聞広告がドカンと載る、印税がガバガバ入る......そういう数々の成功体験ができた。(「まえがきーー出版翻訳」より) だとすれば、私などよりよっぽど華やかだ。羨ましい。どうやらタイトルに反し、地味なイメージがあった出版翻訳家という職業はなかなか魅力的なもののようだ......とも瞬間的には思ったのだが、問題は次に以下の一文が続くことである。 しかし、8年前、私はその世界から完全に足を洗った。(「まえがきーー出版翻訳」より) ベストセラーになって印税がガバガバ入ったのに、なぜ足を洗う必要があったのか? その問いに対する答えが、すべて本書の内容である。 約束していた印税が突然カットされる、発行部数もカットされる、出版時期を何年もずらされる、などなど、早い話が腑に落ちないことだらけなのである。 同じ出版業界に身を置きながら、私はそこまで極端な仕打ちを受けたことがないので、近そうで遠い出版翻訳業界の闇を見せられたような気がした。どうやら、そんな場所で生き続けなければならない出版翻訳者とは、思った以上に精神をすり減らされる立場であるようだ。 例えば著者は、"一冊の本を訳し終えたあとで"担当編集者から一方的に告げられたことがあったという。「売れる本にしたいので、ビッグネームの英語学者である○○氏に、監修者となってもらうつもり」だと。 ===== 確かに、翻訳者の名前が有名であればあるほど売れる可能性は高まるし、逆に知名度がないのであれば、監訳者とか監修者に著名人を起用すれば、それが売れる引き金にもなるだろう。 とはいえ当然ながら、翻訳者にとってそれはうれしい話ではない。だいいち、最初からそういう話だったのならまだしも、訳し終えたあとでそんなことを言われたのではたまったものではない。 しかもその女性編集者は、著者にとんでもないことを平気で言ってのけるのである。 B書院の女性編集者はこう言った。「こちらの事情も理解してくださいよ。売れないと困るんですよ」「そこまでしてビッグネームを使わなければならないんですか」「だって宮崎さんって、なんでもない人じゃないですか」 彼女がそんなことを口にしたのがとても信じられなかった。まさかそんなことを言う人とは思っていなかったからだ。その後、私は何をどう言ったのか覚えていない。しかしその場では反論しなかったことは確かだ。たぶん「それでは好きにしてください」とでも言っていたのだろう。だが「なんでもない人」呼ばわりされた悔しさはその後も消え去ることはなかった。(75ページより) それは悔しくて当然だと思う。私も辛抱強いほうだと思うが、とはいえこんなことを言われたら冷静でいられる自信がない。そういう意味では、著者は冷静がすぎる気もする。 驚愕せざるを得ない、あまりに現実味がないエピソード ともあれ、このような"トンデモ編集者"が次から次へと登場するのである。コントとしか思えないような人ばかりなので現実感がないのだが、次の発言者と似たような言葉なら、私も聞いたことがある。 編集長は自信に満ち溢れた表情でこう言った。「今、『世界がもし100人の村だったら』というのが売れているでしょう。この本は、それに似せて作ろうと思っているんだ。私は英語ができるのでちゃんと読んでみましたが、なかなか面白い。これはかなり売れると見ています。ぜひ翻訳、お願いできませんか」(77ページより) これを聞いた著者は心の中で「なんだなんだ、この出版社も二番煎じをやってんのか」と思わずにいられなかったそうだが、私も雑誌の世界である編集長から「○○のような雑誌にしたいと思っているんです」と聞かされたことがある。 ===== すべてがそうだとは言わないが、こういうことを恥ずかしげもなく口に出せる人は、本当にいるのだ。それが分かるから、少なくともこの部分だけは共感できたのであった。 「少なくともこの部分だけは」と書いたのは、決して本書の内容を大げさだと言いたいからではない。そうではなく、実体験と重なるのはここだけだったから。私がこれまで幸運だっただけかもしれないが、その他の部分で明かされている事実は、あまりにも現実味がなかった。懸命に仕事をした相手に対し、ここまで侮蔑的な言葉をかけられる人がいることに驚愕せざるを得ない。 冒頭でも触れたように、著者はもう実質10年は文筆家・翻訳家としての仕事をしていないという。だが、こんなことばかりが続き、裁判に発展するようなこともあったのだとすれば、足も洗いたくもなるだろう。 しかし、だとすれば、これだけ軽妙で引き込ませる文章を書ける著者は、今どのように生活しているのだろうか? 読者の大半はそのことが気にかかるだろうが、「あとがき」の部分で明かされる結末は、あまりにも意外なものであった。 あえて伏せておくが、いずれにしても、再び出版翻訳の仕事を依頼されたとしても引き受ける気はないそうだ。 その理由は何か。約束を守ってくれることを100%保証してくれる出版社が見当たらないからである。(「あとがきーー今、出版翻訳の仕事を依頼されたら?」より) 逆に約束を守ってもらえるなら、愛と情熱をたっぷりかけて上等な訳文に仕上げてみせるとも記しているが、そう宣言しない限り当たり前のことを守ってもらえないのだとしたら、なんとも残念な話ではある。 『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』 宮崎伸治 著 フォレスト出版 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) [筆者] 印南敦史 1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。新刊は、『書評の仕事』(ワニブックス)。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。