<大きな困難に直面する民主主義としぶとく生き残る権威主義──ミャンマーの軍事クーデターが映し出すのは21世紀の世界が抱える問題そのものだ> ミャンマーの元首都ヤンゴンを訪れていたヒラリー・クリントン米国務長官が、アウンサンスーチーと対面を果たしたのは2011年12月のこと。当時、クリントンをはじめとするバラク・オバマ米大統領の外交チームは、アメリカの外交の重心を中東から東アジアにシフトさせる戦略の真っただ中だった。 その背景には、東アジア諸国でアメリカの影響力を強化することにより、中国の勢力伸張を牽制する狙いがあった。その年、軍事政権から民政移管を果たしたミャンマーは、当然、重要なターゲットの1つだった。そしてスーチーは、ミャンマーの民主化を象徴する存在だった。 長年、軍事政権により自宅軟禁下に置かれながらも、民主化を訴え続け、ノーベル平和賞を受賞したスーチーは、「世界の人々を鼓舞した」と、クリントンはたたえた。翌2012年にはオバマ自身もミャンマーを訪れ、民主化を後押しするとともに、制裁の解除と莫大な経済援助を約束した。 あれから10年。アメリカの「ミャンマー取り込み戦略」は完全に崩壊した。スーチーは2016年から国家顧問を務めていたが、2月1日の軍事クーデターで拘束され、再び自宅軟禁に置かれた。だがそれ以前から、ジョー・バイデン米大統領のチームは、スーチーと連絡さえ取れずにいた。それほどアメリカとスーチーの間には距離ができていたのだ。 とはいえ、崩壊したのはアメリカの外交戦略だけではない。この10年で、スーチーの名声も地に落ちていた。国軍によるイスラム系少数民族ロヒンギャの迫害について、スーチーは一貫して対応を拒否。国際社会から大きな批判を招き、人権団体などからはノーベル平和賞を剝奪するべきだという声も上がっていた。 見え隠れする中国の影 今回のクーデターは、ミャンマーを30年前に引き戻したかに見える。だが実のところ、民主主義が大きな困難に直面していることや、権威主義体制がしぶとく生き残っていること、そして両者に橋を懸ける外交努力に限界があることという、21世紀の世界の問題を見事に反映している。 例えば、欧米諸国は直ちにクーデターを非難したが、中国を含むほとんどの権威主義国は違った。中国は国営の新華社通信を通じて、「大規模な内閣改造」にすぎないとの見方を示した。それどころか中国の王毅(ワン・イー)国務委員兼外相は、クーデターの直前の1月中旬にミャンマーを訪れて、国軍トップで今回全権を掌握したミンアウンフライン総司令官に会っている。 ===== バイデンの外交チームは、こうしたミャンマーの状況をよく理解している。その多くは、10年前にオバマ/クリントンチームの一員だったからだ。ジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は、2011年のクリントンの副首席補佐官だったし、カート・キャンベル国家安全保障委員会(NSC)インド太平洋調整官は、当時、東アジア・太平洋担当の国務次官補だった。 ただ、今回はアメリカ自身が、ドナルド・トランプ前大統領による2カ月半にわたる「不正選挙」の主張と、その支持者による民主主義転覆の試みを経験した直後だった。 ミャンマーでも昨年11月に総選挙が行われ、スーチー率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、国軍系の野党は惨敗。国軍は証拠もなく不正選挙を主張していた。 国軍にとって、スーチーの人気は慢性的な脅威だった。それを知っていたアメリカの外交チームは10年前、制裁撤廃と引き換えに、スーチーが自由かつ公正な選挙に参加できるようにした。 民政移管したといっても、当時のテインセイン大統領は元軍人で、国軍トップの言いなりだった。クリントンは、そんな体制と良好な関係を維持するため(スーチー自身もそれを望んだとされる)、戦争犯罪について国連による調査を求めることを断念し、莫大な経済援助を申し出た。 アメリカがミャンマーに関与するタイミングと範囲は、ある意味でスーチー次第だった。2011年にBBCのインタビューで譲歩し過ぎではないかと聞かれたクリントンは、米政府はスーチーの同意を踏まえて動いており、「彼女によると(民主的)政治プロセスの有効化が重要だ」と言った。 オバマ政権内では制裁緩和をめぐり激しい議論もあったが、スーチーありきの状況は何年も続いた。2016年にオバマは、ホワイトハウスでスーチーと会談した際に制裁解除を明言した。 ただし、アメリカが制裁解除の前提としていた民主化に向けた進展は、まだほとんどなかった。2015年の総選挙でNLDが大勝した後も、連邦議会の議席の25%は「軍人枠」とされていた。さらに、軍事政権が定めた憲法の規定により、外国籍の配偶者と子供がいるスーチーは大統領に就くことができなかった。 米外交4年のブランク ジェン・サキ大統領報道官によれば、バイデン政権は制裁解除の見直しを検討しており、新たな制裁の可能性も示唆している。一方で、複数の報道によると米政権は当初、ミャンマーの軍事的な政権奪取をクーデターと呼ぶことさえ躊躇していた。 従来と同じやり方が通用するかは、定かではない。欧米諸国は数十年間、制裁を続けてきたが、ミャンマーの民主化は遅々として進んでいない。 ===== タイのミャンマー大使館前でクーデターに抗議するNLD支持者(2月1日) ATHIT PERAWONGMETHA-REUTERS オバマ政権のアプローチを支持する人々は、当時のミャンマー外交にバイデン新政権の一部の人々が携わっていたことは事実だが、トランプ政権の4年間で、独裁主義が至る所で幅を利かせるようになったと語る。外交が難しくなり、民主的に権力を獲得しようというスーチーの努力も先が見通せなくなったというわけだ。 かつてはスーチーの存在が解決策だったとしても、今もそうなのだろうか。彼女が国内での人気に自信を持ち、自分の政治力を過大評価して、軍事政権に、特にミンアウンフラインに、過剰な要求をしてきたかもしれないという指摘もある。 「クーデターを回避するために彼女がある程度、譲歩できたのではないか」と、ジョージ・ワシントン大学のミャンマー専門家クリスティーナ・フィンクは言う。ミンアウンフラインを最高司令官にとどめるか、名目上の大統領職に就けることもあり得たかもしれないが、「NLDは歩み寄るつもりはなかった」。 スーチーに勝ち目はなかったとみる向きもある。「人々は、本当の彼女ではない理想を彼女に投影し続けてきた。『自分は政治家であって、それ以上ではない』と彼女はいつも言っていた」と、コーネル大学の物理学講師で映画監督でもあるロバート・リーバーマンは語る。彼は2012年にドキュメンタリー映画『彼らはミャンマーと呼ぶ』を制作し、スーチーに詳しくインタビューした。 「彼女に選択の余地はなかった。軍と、ミャンマーの外の世界との間でバランスを取りながら、彼女は綱渡りを強いられてきた」 その「外の世界」も、2019年に国際司法裁判所でロヒンギャに対する軍の残虐行為を擁護したスーチーを、もはや偶像視してはいない。 ミャンマーの新しい軍事政権は、かつては聖人とされたスーチーを支持する人々からの非難も以前ほどではないとみる。そしてトランプ時代に各地の独裁政権が勢いを得て、自分たちの安全地帯が広がっていると踏んでいる。 バイデン政権の外交政策チームの一部は、オバマ政権時代にミャンマーの将軍たちの説得を試みた。しかし、当時に比べると今のアメリカ政府には、ミャンマーの軍幹部に圧力をかける手段も限られている。 From Foreign Policy Magazine <本誌2021年2月16日号掲載> =====