<呼吸器系感染症とばかり思われていたが、脳神経に与える影響が注目され始めた> 神経学者のガブリエル・デエラウスキンが、新型コロナウイルスが脳に与える長期的な影響に懸念を抱き始めたのは、昨年1月のこと。武漢から届いた初期の報告に、回復者が嗅覚と味覚を失っていると書いてあったのだ。 人間の五感のうち2つが突然失われるなんて、神経学者として見過ごすわけにはいかないと、デエラウスキンは思った。その懸念は、すぐに警戒へと変わった。 きっかけは、テキサス大学保健科学センターでデエラウスキンに付いている研修医の1人に、新型コロナ感染が確認されたことだ。研修医は30代の女性で子供がいるが、1カ月にわたり家族と離れてホテルで隔離生活を送らなくてはならない。 だが本人が最も混乱したのは、幼い子供たちと離れて暮らすことよりも、それに対する自分の感情だった。「子供や仕事のことをもっと心配するべきだと、彼女も頭では分かっていた」と、デエラウスキンは言う。「ところが彼女は感情が麻痺していた。嗅覚と味覚を失った上に、感情も乏しくなっていた。そして、そんな自分にひどく当惑していた。この種の無関心や感情の解離は、扁桃体との関係なしには説明がつかない」 扁桃体とは脳の奥深くにあって、感情をつかさどる神経細胞の集まり。この研修医のように、新型コロナに感染した人が脳機能の障害を示しているという報告は、この1年で増え続けており、デエラウスキンら神経学者は危機感を募らせている。 数十年後に認知症が急増? 肺炎などの急性症状がなくなり、感染に伴う精神的な不調を覚える時期もとっくに過ぎたと思われる「元患者」が、精神疾患を訴えているのだ。なかには震えや極度の倦怠感、異臭の錯覚、めまい、さらにはブレインフォグ(脳の霧)と呼ばれる意識障害を訴える人もいる。 関連する医学論文も増え始めた。武漢の新型コロナ患者200人以上を対象とする調査研究によると、全患者の35%、重症者に限ると45%に神経系合併症が見られた。有力医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンに発表されたフランスの研究では、患者の67%に神経系疾患が見られたという。 新型コロナに関してはまだ不透明な部分も多く、確実なことは何も言えない。だが、このウイルスが脳神経にダメージを与えた結果、数十年後には認知症など神経変性疾患の患者が急増するのではないかと、専門家は懸念している。 ===== ウイルス感染に伴う精神的不調は感情をつかさどる神経細胞の集まりである扁桃体 (赤い点)が原因か SCIENCE PHOTO LIBRARYーSCIEPRO/GETTY IMAGES 元患者の中には、既に慢性疲労症候群(CFS)に該当する症状を示す人が増えている。CFSは極度の疲労や運動能力低下など原因不明の衰弱を特徴とする疾患で、アメリカではコロナ禍が到来する前の時点で約200万人の患者がいた。 新型コロナの後遺症を持つ人がCFS患者と同じ道をたどるとすれば、感染経験者の10~30%がCFSの慢性的な症状に苦しむ恐れがあると、米国立衛生研究所(NIH)傘下の国立神経疾患脳卒中研究所(NINDS)のアビンドラ・ナス臨床部長は指摘する。 新型コロナは当初、肺炎など呼吸器系に障害を引き起こすウイルスだとばかり考えられていた。だが今は、脳を含むさまざまな器官に長期的なダメージを与える可能性があることが分かってきた。メディアも後遺症患者の苦しみや、認知力の低下を積極的に報じ始めた。 「(新型コロナが)神経に影響を与えるという認識が広がってきたのは、ごく最近だ」と、ナスは言う。「私はかなり以前から指摘してきたつもりだが。患者の間からは(ブレインフォグなどの)異常を訴える声が上がっていたが、専門家は何の行動も起こさなかった」 だが、今は違う。最近は大規模な研究プログラムが相次いで発表されている。米議会は昨年、新型コロナ研究のために約15億ドルをNIHに拠出しており、フランシス・コリンズNIH所長らがこの資金を各プログラムに配分していくことになる。 その具体的な配分は明らかになっていないが、NIHの広報担当者は新型コロナの「後遺症の範囲を見極め、その生物学的機序を理解し、防止・治療につなげる努力を拡大する」と語り、ウイルスが脳に与える影響に関する研究も、積極的に支援していく姿勢を示した。 スペイン風邪後の神経疾患 一方で神経学者たちは、新型コロナ感染の早い段階で介入し、ウイルスが脳に与える長期的な影響を最小限に抑える方法を懸命に探っている。後遺症が長期化すると、治療が難しくなるからだ。「それは何としても避けたい」と、ウォルター・コロシェッツNINDS所長は言う。「介入が早いほど効果は大きくなる。2~3年たっても後遺症がある場合、回復の道のりは厳しくなるだろう」感染性のウイルスと慢性的な神経系疾患の関係は、専門家が長年解き明かそうとしてきた謎でもある。 1918年のスペイン風邪の流行後は、世界で推定100万人が嗜眠性脳炎と呼ばれる神経変性疾患を患った。パーキンソン病のように筋肉がこわばる病気で、神経学者で作家でもあるオリバー・サックスが、映画化された小説『レナードの朝』で描いたことでも知られている。しかし、今もその原因は完全には解明されていない。 ===== スペインの施設でリハビリに励む元患者 PABLO BLAZQUEZ DOMINGUEZ/GETTY IMAGES エイズウイルスの場合、80年代に抗ウイルス療法が登場するまで、感染者の約25%に認知症が見られた。エイズウイルスは感染から2週間以内に患者の脳に侵入し、神経毒性のあるタンパク質で脳の幅広い領域にダメージを与えるケースが多く見られたと、ラッシュ大学医科大学院のレーナ・アルハーシ教授は語る。 2003年にSARS(重症急性呼吸器症候群)、12年にMERS(中東呼吸器症候群)が流行したときも、一部患者の脳にウイルスが入り込んでいたことが解剖で明らかになった。NINDSのナスは、リベリアのエボラ出血熱感染経験者で今も謎の慢性的な神経症状を患う200人の追跡調査を続けている。 新型コロナが一部の患者の脳に及ぼす影響を探る初期の研究は、思うように進まなかった。死亡した患者の病理解剖には感染の危険が伴うからだ。ある報告によると、パンデミック(世界的大流行)の最初の9カ月間に行われた調査は、149人の脳の解剖を含む24件にとどまった。 それでも、問題解明の手掛かりは見えてきた。マウント・サイナイ医学大学院のクレア・ブライス准教授(病理学)らは、これまでに63人の患者の脳を調べた。研究チームは空気が漏れないように設計された換気システムを持つ特別な部屋で、1度に1人だけの病理医が全身防備の保護スーツとフェイスシールドを装着した状態で作業を行った。 ブライスらは昨年4月、74歳のヒスパニック系男性のケースを詳細に調べた。自宅で何度か転倒した後、意識がもうろうとした状態で緊急治療室に運び込まれた患者だが、容体は安定せず、11日目に死亡した。 ブライスのチームが脳を検査すると、神経細胞の萎縮や変色、酸素欠乏が認められる「死んだ」領域が多数あった。同じ症状は、その後数カ月間に調べた他の62人の脳の約25%にも見られた。さらに11人の患者で、少なくとも数週間前の細胞死の痕跡が見つかった。一部の脳は腫れ上がり、多くの血管が詰まっていた。 「壊死した組織が大きな領域に広がっている例もあったが、多くの場合には非常に小さく、大脳皮質の周辺や脳の奥の表面にまだら状に点在している」と、ブライスは言う。「一部の脳は貧血状態に見えた。酸素不足や出血が見られる脳もあった」 NINDSのナスも、ニューヨーク市検死局から送られてきた16人の遺体の脳組織に同様の損傷を発見。高倍率の顕微鏡で調べた結果をニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンに発表した。 ===== ナスが遺体を調べた患者の多くは、医師の診察を受ける前に突然死していた。1人は地下鉄で発見され、もう1人は妹と遊んでいるときに急死した。そのためナスは、症状が軽かったので病気の自覚がなかったのだろうと結論付けた。それにもかかわらず遺体の脳には神経細胞の損傷や炎症、血管の損傷が多数認められた。 その正確な原因については、今も専門家の間で議論が続いている。急性の新型コロナで死亡した患者の脳に見られた損傷は、軽症患者の脳にも同様に存在するのか、その後に発症する未知の後遺症によるものなのかも不明だ。この2つの疑問に対する答えは、将来の治療に大きな影響を与える可能性がある。 嗅覚の喪失と感情の変化 新型コロナによる脳の損傷の原因についてはいくつもの説があるが、今のところ専門家はウイルス感染と自己免疫反応に最も強い関心を寄せている。この2つは互いに排他的なものではなく、症例によってほかに原因がある可能性もある。最も懸念されるのは、慢性的な神経障害を伴う他のウイルス性疾患にも見られる現象――つまり、ウイルスが脳細胞に「定着する」可能性だ。この場合、新型コロナが長期的に見て神経変性疾患の原因となる可能性が高まる。 大規模な集団を対象とした研究では、単純ヘルペスなどの一般的なウイルス感染と、アルツハイマー病や認知症に見られる分子レベルのプロセスとの関連が示されていると、神経学者のデエラウスキンは言う。一部のウイルスは脳に入り込んだ後、一時的に「休眠状態」になり、いずれ再活性化することも分かっている。 デエラウスキンが感染拡大の初期に、強い危機感を抱いたのはそのためだ。自分が遭遇した不可解な臨床症状は脳の構造変化によるものではないか、と危惧したのだ。 嗅覚の喪失は、嗅球という鼻につながる脳の小さな領域が感染した可能性を示唆していた。嗅球は記憶や感情の制御をつかさどる脳の領域付近にあるため、ブレインフォグの症状やパンデミック初期にデエラウスキンの研修医が経験した奇妙な感情の解離は、これで説明できる。 その後、新型コロナの脳への影響を心配すべき別の理由も発見された。新型コロナは当初、主に呼吸器系の疾患と思われていたが、「転移する」能力があるという点で癌と類似点があることが分かったと、医学大学院や病院を傘下に持つマウント・サイナイ医療システム(ニューヨーク)のカルロス・コルドンカルド病理学部長は言う。このウイルスは突起(スパイク)状のタンパク質を使い、多くの種類の宿主細胞に存在するACE2受容体に結合する。 ===== 「ウイルスは鼻から入って、肺、腎臓、肝臓に侵入できる」と、コルドンカルドは言う。「今では脳に到達することも分かっている。血管に入り、トンネルを移動するように循環するからだ。そして特定の場所で合流して、臓器にダメージを与えることがある」 エール大学の岩崎明子教授(免疫生物学)らは、幹細胞由来の神経細胞とそれを補助する細胞の小さな「コロニー」を培養し、この「オルガノイド(ミニ臓器)」を新型コロナに接触させてみた。 ウイルスはすぐに神経細胞の一部に感染した。感染した神経細胞は代謝機能を異常に活発化させ、細胞の増殖メカニズムを利用して自己複製を加速させた。この猛烈なウイルスの増殖過程で、感染細胞は周辺領域の酸素を「全て吸い出し」、近くにある神経細胞から不可欠な栄養分を徐々に奪い取ることで、「死のスパイラル」に陥らせる。 この「バイスタンダー効果」と呼ばれる周囲への影響は、カリフォルニア大学サンディエゴ校のアリソン・ムオトリ教授(小児科学・細胞分子医学)が行った脳オルガノイドの実験でも観察された。 オルガノイドのコロニーを新型コロナに接触させると、ウイルスはごく一部の神経細胞に感染しただけだったが、その影響は甚大だった。ウイルスは48時間以内にさまざまな細胞間のシナプス結合の50%を破壊したのだ。これは脳に大きなダメージを与える可能性がある。 ウイルスか自己免疫反応か 遅れて発症する神経症状の一部は、脳の細胞に潜むウイルスによるものとも考えられる。感染細胞から神経毒か炎症反応を促す物質が放出され、周辺の細胞が破壊されるのではないかと、ムオトリはみている。 だが、脳に潜むウイルスが悪さをするという仮説は解剖結果と一致しない。岩崎らが解剖した脳損傷が見られる3体の遺体のうち、脳内へのウイルスの侵入がはっきり確認できたのは1体だけだった。ブライスが調べた63人の脳のうち、ウイルスの断片が残っていたのは1人だけ、彼らが損傷を初めて確認したヒスパニック系の患者の脳だけだった。NINDSのナスも今のところ、脳のウイルス感染の兆候は発見していない。 これは「大きな謎」だと、ナスは言う。「私の専門は神経系の感染なので、パンデミックのたびに脳を調べてきた。(新型コロナの死者の脳では)ウイルスを全く検出できないので、非常に驚いている」 ===== ナスはCFSの発症について、ある仮説を支持している。それは感染症にかかると病原体が消えた後も免疫系が活性化したままになり、体が自分自身と静かな戦争を続けることがあるというものだ。新型コロナの長期的な症状の一部もそれと同じメカニズムで起きるのではないかと、彼は考えている。 新型コロナの長く続く後遺症を説明するこの2つの仮説、つまり脳のウイルス感染説と自己免疫説はどちらか一方が正しいとは限らず、両方が発症に絡んでいる可能性もあると、岩崎は指摘する。 岩崎は「自己抗体」と呼ばれる特殊な免疫物質の影響を調べた。自己抗体は分子レベルの「細胞の暗殺者」だ。抗体はウイルスなどの異物(非自己)を見つけて攻撃するが、自己抗体は自己の細胞のタンパク質(自己抗原)を標的にする。新型コロナに感染した194人の患者と医療従事者から採取した血液サンプルと、感染していない医療従事者30人の血液サンプルを解析して比較したところ、感染者では自己抗体が「劇的に増加」し、多くのケースでは免疫細胞を攻撃していた。 研究中に亡くなった15人の患者では、1人を除いて全員が自己抗体の大量放出により免疫系の正常な働きが阻害されていた。自己抗体は血液の凝固に関わる分子や結合組織、脳を含む中枢神経系の細胞まで排除すべき異物と見なして攻撃したようだ。こうした解析結果をまとめた岩崎の論文は、昨年12月に英国医師会発行の専門誌に掲載された。 解剖で見られた脳組織の細胞の損傷も自己免疫反応によるものかもしれない。人体に張り巡らされた血管の総延長は約10万キロに及ぶともいわれている。新型コロナのスパイク・タンパク質が結合するACE2受容体は血管壁の内側を覆う「内皮細胞」に広く発現している。 「脳は最も多くの血管が張り巡らされている臓器で、血管が複雑に絡み合った巨大な塊のようなものだ」と、NINDSのコロシェッツは言う。 脳の毛細血管の壁が破壊されると、脳に有害物質が入るのをブロックする「血液脳関門」が壊れ、さまざまな物質が脳内に流入する。「それ自体が問題だ。本来なら入ってこないはずの物質が流入し、脳の機能に支障を来すからだ」と、コロシェッツは説明する。加えて「いわば傷を吸収する、もしくは関門が壊れて入ってきたタンパク質を吸収するために炎症反応が起きる」。 白血球は通常なら脳に入れないが、関門が壊れると病原体も白血球もどんどん脳内に流入するようになる。コロシェッツによると、新型コロナに特化した抗体が「誘導ミサイル」だとすれば、白血球は「戦車」のようなものだ。攻撃目標を絞る精度は抗体よりもはるかに劣る上、はるかに大規模な攻撃を加えるため、ウイルスに感染した細胞だけでなく周辺の細胞も破壊される。 ===== ワクチン接種の会場となったロサンゼルスのドジャー・スタジアムには接種を希望する人たちの車の列ができた(1月) MARIO TAMA/GETTY IMAGES 神経疾患の解明は長期戦に こうした仮説をはじめ、新型コロナの研究では多くの仮説が提唱されているが、それらを検証する作業は始まったばかりだ。 デエラウスキンらは新型コロナが脳の機能に及ぼす長期的な影響について研究を進める必要があると訴えているが、なかなか理解されず研究資金の確保に頭を痛めている。ただ、希望は持てる。最近ではメディアも、長期にわたって続く新型コロナの後遺症や、ウイルスが体内から排除されても残る奇妙な神経症状を取り上げるようになった。 デエラウスキンらは今年1月、後遺症の大規模な国際的調査の計画案を発表した。30カ国余りの最大4万人を対象に新型コロナが脳に及ぼす長期的な影響を調査する計画で、当初は米アルツハイマー病協会が資金を提供し、WHO(世界保健機関)も協力する。将来的には各国の公衆衛生当局の支援も期待できそうだ。 NIHは新型コロナ関連の研究調査に約15億ドルを助成する方針だ。コロシェッツによると、「正常な回復」の要件を突き止め、長期にわたって後遺症が残るケースとの違いを明らかにする大規模な研究計画も助成対象の候補に挙がっている。 岩崎によれば、こうした研究に向けて、ニューヨークのマウント・サイナイ病院チームなど新型コロナの後遺症に苦しむ患者を多数扱ってきた4カ所の医療施設の研究チームがデータの収集方法を確立し、手順を標準化する作業を進めている。 新型コロナでは条件が許せば発症初期の段階から調査を開始し、ウイルスが検出されなくなっても長期間続く症状を追跡できる。その成果は、CFSなど原因不明の脳の疾患の謎を解く貴重な手掛かりになると、NINDSのナスは期待している。 ただし、答えがすぐに出るわけではない。「いい例がアルツハイマー病だ。毎年何十億ドルもの予算を投じて、何十年も研究が行われてきたが、いまだに治療法はおろか、診断方法も確立されていない」 脳の病気は謎だらけだ、とナスは言う。「長期戦を覚悟しないと」