<ミャンマー軍に対する厳しい制裁に踏み切れない日本政府は軍政の「共犯者」だ> ミャンマーの国軍クーデターから2ヶ月。この政変が起きた2月1日の本サイトで、私は「日本政府は今度こそ民主化支援を惜しむな」と書いた。政府はこれまで、同国の民主化を支援するという空念仏を唱えるだけで、事実上軍政の延命に手を貸してきた事実を知っていたからである。だが、私の期待は裏切られたようだ。民主化運動への国軍の弾圧は残虐化するいっぽうなのに、「民主国家」日本の政権担当者は国軍「非難」の談話などを出すだけで、欧米諸国のような制裁には踏み切れない。なぜなのかを理解するために、私は古い取材メモなどをあらためて引っ張り出してみようと思った。(永井浩) スーチー氏「解放」の実態 私がミャンマーの民主化について取材をはじめたのは、民主化運動指導者のアウンサンスーチー氏が6年間におよぶ自宅軟禁から解放された1995年7月から間もなくしてからだった。彼女の解放を喜ぶとともに、依然として軍政がつづく同国の現状と今後の見通しについていろいろ聞きたいジャーナリストが、世界各地から最大都市ヤンゴンのスーチー邸に殺到した。毎日新聞記者の私もその一人だった。 日本政府は彼女の解放を民主化への前進と評価し、欧米諸国にさきがけて、軟禁下で凍結されていた経済援助の再開を表明した。では「解放」の実態とはどのようなものだったのか。多くのジャーナリストの取材申し込みのウエイティングリストの後ろのほうに載っていた私が、やっとスーチー邸の門をくぐったのは9月2日だった。 まだ雨季なので、足元はぬかるんでいた。訪問客は、邸内に設けられた受付で姓名、所属団体、外国人ならパスポート番号を書くようにもとめられる。これは、軍事政権「国家法秩序回復評議会」(SLORC)がスーチー氏の「警護」のために取っている措置とされるが、彼女の側からの自発的要請にもとづくものではない。外国人には、公安当局がカメラのフラッシュを浴びせる。 解放直後は、祝福のお土産をかかえて国内各地から駆けつけた、彼女の率いる「国民民主連盟」(NLD)の支持者たちがひきもきらなかった邸内は、だいぶ落ち着きを取りもどした。軟禁中は手入れができず、「まるでジャングルみたいだった」と彼女が述懐する庭もこざっぱりした。 しかし、日常の活動はいまだに大きな制約を受けている。電話は通話可能になったものの、側近によれば「盗聴されている疑いが強い」。コピー機とファックスの設置には政府の許可が必要だが、申請してもいまだに許可が下りていない。共産主義政権が倒れるまでのソ連・東欧諸国のような言論統制だ。私信はまず届かないとみた方が確実だ。私もインタビュー掲載紙と書留を日本から送ったが、二通とも届いていないことがその後わかった。 ===== スーチー氏以外の多くの党員や支持者は投獄されたままだ。5人以上の集会は事実上禁じられているために、彼女は自宅前に集まった市民に話しかける「対話フォーラム」をはじめた。軍事政権は記者会見を自由に開き、国営の新聞・テレビで自分たちの意見や宣伝を流すことができるが、NLDには自分たちの活動を伝える印刷物さえ許されない。 これが「解放」の実態なのだが、日本政府はそれを民主化進展のあかしととらえた。ヤンゴンの日本大使館関係者は、軍事政権による表現の自由の抑圧ではなく、スーチー氏がNLD書記長に復帰したことを「予想外の強硬な態度」と評した。彼らにとっては、日本のODA(政府開発援助)大綱に定められた基本的人権や自由の保障とは、この程度の意味しかもっていないようだった。 「経済発展に民主化は不可欠」 スーチー氏が私のインタビューで最も強調したのは、「経済発展には民主化が不可欠」という点だった。軍事政権が進める市場経済化政策に応じて日本など外国からの対ミャンマー投資が増えていることについて、「国民の政治に対する信頼がなければ長期的に安定した経済発展は望めません」として、民主化運動のために闘いつづける決意をあらたにした。それなしには、経済開発は軍人を頂点とする一握りの特権層のふところを富ませるだけで、貧富の格差をさらに広げることになってしまうからだ。 彼女はまた、日本人ジャーナリストの私に問いかけるように言った。「日本人は、戦後の繁栄と平和がどうして達成されたかを忘れないでほしい。それは、軍国主義から解放されて民主主義を手に入れたおかげではないでしょうか」。そのような歴史認識が日本の政府と国民に定着しているなら、私たちの民主化運動を正しく理解してくれるはずではないか、という意味であろう。 彼女はそれ以上言わなかったが、その日本軍国主義は第二次大戦中にビルマ(ミャンマー)を侵略し、この国の人びとの命と土地、財産、文化を踏みにじったことをミャンマー国民は忘れていない。彼女の父アウンサンは、英国からの独立をかちとるためにはじめは日本軍の支援を受けながら、日本の敗色が濃くなった戦争末期に抗日蜂起に立ち上がった「独立の英雄」である。 スーチー氏はさらに、「ビルマも1960年代に軍部が実権を握るまでは、民主政治の下で、アジアで最も発展の早い国でした」と指摘した。 私は日本のODA再開決定をどう思うかとたずねた。 ===== 「日本政府はビルマの民主化の進展に応じて、という条件をつけているというが、私は真の民主化の進展を条件にしてほしい。私一人の釈放だけでは不十分です。経済援助や投資を個人のためにではなく、国民全体の利益にむすびつくかたちで進めてほしい」 こう答えた彼女は、欧米とは異なる日本の対ミャンマー援助をやんわり批判した。欧米諸国は人権と経済援助をからめる「北風」路線をとっているのに対して、日本は経済援助を段階的に増やしながら軍政に民主化の促進をうながしていく「太陽」路線の優位を主張していたが、スーチー氏は「太陽は暑すぎて快適ではありません。これ以上太陽が暑くなると着ているものすべて脱がされてしまいます」というのだ。 日本のODA再開が彼女の軟禁からの解放に貢献したかのような見方にも、スーチー氏は反発した。「だれが私の解放をもっとも助けてくれたかは、歴史が明らかにすることです。その歴史を、本当の民主化を進めていくなかで、私たちはつくっていきたい」 なぜ『ビルマからの手紙』なのか 初対面の私がスーチー氏に対していだいた印象は、東南アジア各地の沼などでよく見かけるハスの花のイメージである。花は、凛として気品と優しさをたたえている。私はそのような美しい花を浮かべる水面の下がどうなっているのかを知りたくなった。 軍事政権や一部の日本人からは、欧米生活の長かった彼女には、自国の現実がよくわかっていないという批判が投げかけられていた。そのいっぽうで、欧米的な民主主義や人権の概念をあてはめ、彼女をミャンマー民主化の旗手にまつりあげる西側世論がある。だがそのような外部の一面的な見方だけでは、国民の圧倒的なアウンサンスーチー人気の秘密はわからない。でもかぎられたインタビューの時間では、その土壌がわからない。そこで私は、彼女に頼んでみた。 「ビルマの民主化を本当に理解するには、この国の歴史、文化、社会への多面的なアプローチが必要だと思う。それを毎日新聞にお書きいただけないだろうか」。彼女は「私もぜひ書いてみたい」と端正な顔をほころばせながら快諾してくれ、「ただ、いまはとても忙しいし、NLDの承認も受けなければなりませんので、正式の返事は2,3日待っていただけませんでしょうか」とのことだった。もちろん党のOKもでた。 こうして、スーチー氏の連載エッセイ『ビルマからの手紙』が11月末から週一回、毎日新聞の紙面を飾りはじめた。 ===== 私は、ミャンマー民主化運動の同時進行ドキュメントであるこの文章を日本の読者が読むことで、彼女たちの闘いを支援せよ、などと主張するつもりはなかった。また冷戦後の民主主義と人権の普遍性が強調される風潮のなかで、アウンサンスーチー=天使、軍事政権=悪魔といった安易な図式をあてはめて、アジアの隣人たちの闘いを論じることを避けたかった。「歴史の正しい証人」であることがジャーナリストの使命であるなら、まず言論の自由を奪われた国の人びとの声をできるだけ広く国際社会に伝えなければならない。民主主義の国の一員として享受している言論の自由を、その基本的権利を奪われた国の自由のために行使しなければならいだろう。その情報をどう判断するかは、読者にまかせればよいことである。 毎日新聞は日本語の新聞だが、スーチー氏の原文は英語なので、英語版のザ・デイリー・マイニチに掲載された"Letters From Burma"が目にとまれば、国際的な情報ネットワークをつうじてなんらかの形で世界にも流れる可能性があるだろう。連載開始後、まずAPなどの西側通信社が連載のなかからニュース性の高い情報をとりだして<東京発>で世界に配信しはじめた。ミャンマーの民主化運動を支援している日本の市民グループがザ・デイリー・マイニチの英文をインターネットで世界の市民ネットワークに流しはじめた。米国最大の独立系ニュース・シンジケート「ユニバーサル・プレス・シンジケート」がアジア、欧州、米国、中南米の新聞、雑誌に同時掲載する契約を申し出て、世界15か国で同時掲載されるようになった。 『手紙』のミャンマー国内への持ち込みは難しかったが、在日ミャンマー人の民主化支援グループがビルマ語に翻訳し、自分たちの発行する週刊紙に載せて、1988年のクーデター後に世界に逃れた同胞や、軍事政権に追われてタイ国境の難民キャンプで暮らすビルマ人やカレン人に送った。米国の「自由アジア放送」は、毎日1時間のビルマ語番組で『手紙』を流しはじめた。英国のBBCが『手紙』の一部を放送する計画との知らせも入った。タイの英字紙、タイ語週刊誌からの転載申し入れもつづいた。 日本政府は軍政の「共犯者」 ところが、『ビルマからの手紙』に対する日本政府の反応は驚くべきものだった。池田行彦外相は「スーチーさんは外国ばかりでなく自国民にももっと直接話しかけたらどうか」と、彼女の国の現実を無視した、民主主義国の外相としての見識を疑わせるような発言をした。この拙文の冒頭にあげた「日本政府は今度こそ民主化支援を惜しむな」ですでにあきらかにしたように、外務省は「日本・ミャンマー関係がこじれる。ひいては日中関係にも悪影響を及ぼす」と、再三にわたって毎日新聞に連載の中止を要請してきた。木戸湊編集局長は「『毎日』は民主主義を大切にする新聞である」と言って、彼らの要求を突っぱねた。駐日中国大使館員もパーティーなどで木戸と顔を合わせると、『手紙』に難癖をつけてきたという。ミャンマー大使館はザ・デイリー・マイニチに例年出していた広告の引き下げを通告してきた。軍事政権はしばらくして、「アウンサンスーチーは米国のCIAと日本の毎日新聞から資金提供をうけている」と発表した。 ===== 日本政府のミャンマーとの関係とは、軍事政権とのものでしかなく、国民は視野に入っていなかった。外務省は、民主主義の否定という点では軍政と「共犯者」といっても過言ではなかった。そしてこの体質は、現在にいたるまで基本的に変わらなかった。 軍政が国際社会からどのような批判を浴びる仕打ちを自国民に繰り返そうと、日本政府はつねに民主化運動を弾圧する側に寄りそいつづけた。1988年の民主化運動を今回のクーデター後とおなじように市民への無差別銃撃によって血の海に沈めたあと、90年の総選挙の結果を尊重する公約しながら、ふたを開けてみるとNLDの圧勝という結果になると、公約を反故にして権力の座に居座りつづけた非合法政権に対して、である。そして、2020年11月の総選挙でまたNLDが圧勝すると、国軍はクーデターで国民の圧倒的支持を得た合法政権を葬ろうとした。クーデターに反対する「市民不服従運動」が全国的な高まりを見せると、国軍はなりふり構わず子どもたちにまで発砲をつづける。 ミャンマーの悲劇に一刻も早く終止符を打たねばならないとする国際世論をうけて、米国、EUなどの政府は国軍への制裁措置をつぎつぎに打ち出している。日本政府は同盟国米国の顔色をうかがいつつ、国軍とのしがらみを断ち切れないまま、「われわれは民主化をもとめるミャンマー国民の側に立つ」との明確な意思を打ち出せず右往左往するだけである。 「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とは、マルクスの有名な言葉である。ミャンマーの国軍は、自国民を悲劇に陥れる蛮行を繰り返そうとして、「王様は裸である」と叫ぶ圧倒的多数の国民の声に耳をふさぐ喜劇の主人公を演じている。王様の親友であることで「民主主義国」という自らの看板を汚す悲喜劇を演じてきた日本政府は、いつまで国際社会の物笑いとなるような役回りをつづければ気がすむのだろうか。 *この記事は、日刊ベリタからの転載です。 *筆者の記事はこちら。