<高齢になっても知的好奇心が旺盛だった殿下が、本記で上達を目指していた絵画のアドバイスをしたら......> なぜ自分がエディンバラ公フィリップ殿下の肖像画家に選ばれたのか、その理由は分からない。ある慈善団体が私を含めた数人の画家を推薦したのは事実だが、その先の経緯は知らされていない。 だから選ばれたときは驚いた。もちろん、それなりの自負はあった。2006年当時の私は既に、いっぱしの肖像画家だった。イギリス首相だったトニー・ブレアや女優のニコール・キッドマンなど、著名人の肖像画もたくさん手掛けていた。でもエリザベス女王の夫となると、やはり話は違う。1970年生まれの私にとって、殿下の顔は生まれた頃からなじみのもの。この国の景色と同じくらい見慣れていた。その人の顔を、いまさら描くのか。 バッキンガム宮殿に入るのは、その日が初めてだった。ああ、時間の流れと無縁な場所だ。そのときそう思ったのを覚えている。 王族との面会にはふつう、厳密な決まりごとがある。原則として、面会者は決められた場所に立ち、向こうは決められた位置に立って相手に話し掛ける。でも、現れた殿下はそうした儀礼など気にせず、私の用意した小さなキャンバスの前まで来て、「これだね」と言った。 私と交わした会話は多岐にわたった。殿下は好奇心旺盛で、初対面の男から学ぶことにも、初対面の男に教えることにも熱心だった。時事的なこと、例えば環境問題にも関心を寄せていた。 その画風は印象派に似て 絵が完成するまでに、殿下は何度も私の前に座った。そしてあるとき、私の使っている絵の具や溶剤について質問してきた。意外だった。ご自身も若い頃に絵を習い、最近になってまた描き始めたという。それで話が弾んで、殿下はこう言われた──次回には自分の習作を持ってくるから、ぜひ見てほしい。 困った。批評など、できはしない。下手なお世辞を言えば簡単に見抜かれる。でも取り越し苦労だった。殿下は本気で上達したいと思い、プロの助言を求めていた。殿下は強い意志の持ち主だが、画風は印象派に似て、ソフトでロマンチックな色を使っていた。それが意外だった。 最後の回では、別れ際に私のそばに来て、描きかけの絵を見てほほえまれた。何も言わなかった。それが王族のしきたりだと、後に知った。 ===== HRH DUKE OF EDINBURGH, 2008, OIL ON CANVAS, 38CM X 30CM. ©2021, JONATHAN YEO STUDIO 殿下と過ごした時は本当に楽しかった。100年も前に生まれ、何百年も前から続く王室に入り、世間から隔絶された暮らしを送ってきた別世界の人物とは思えなかった。 自分の作品がどんな運命をたどるか、そんなことは知りようもない。だから自分に正直に描くのみ。あのときも、自分が殿下の中に見たものを素直に描いたつもりだ。 殿下が亡くなられた4月9日の晩、いつものようにSNSをチェックしていたら、たくさんの人が私の描いた殿下の肖像をシェアしていることに気付いた。 うれしかった。15年前に描いた小さな1枚の絵が多くの人の目に留まり、こんなときに思いをつなぐ役に立つとは。私は幸せ者だ。たまたま出来のいい子がいたことを、少しは自慢できる。