<中国残留孤児2世、3世が結成し、凶行で悪名を轟かせた怒羅権だが、元は生き残るため、助け合いのための集団だった> 「怒羅権(ドラゴン)」という名に聞き覚えのある人は少なくないだろう。1980年代後半の東京都江戸川区葛西で、中国残留孤児2世、3世によって結成された「半グレ」集団である。 『怒羅権と私――創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』(汪楠・著、彩図社)の著者は、そんな怒羅権の創設期からのメンバーである。本作表紙に確認できる表情は柔らかだが、その反省は決して穏やかなものではなかった。 私自身、ヤクザの腕を切り落としたり、窃盗グループを率いて数億円を荒稼ぎしたりと多くの犯罪に手を染めてきました。そして28歳で逮捕され、13年間刑務所に服役することになります。 出所した今、なぜこの本を書こうとしたのかというと、自分たちがどのような思いで怒羅権をつくったのかを書き残したいという願望があるためです。(「はじめに」より) 最も重要なのは、この文章の後半、すなわち「どのような思いで怒羅権をつくったのか」という部分である。 ヤクザの腕を切り落としたというようなエピソードがどうしても目立ってしまうし、それは事実でもある。だが、そもそも怒羅権は、犯罪集団を目指して結成されたわけではなかった。当初は、日本社会で貧困や差別に苦しみながら孤立していた中国残留孤児たちが生き残るため、助け合いのために手を組んだ集団だったのだ。 もちろん、だからといって彼らの凶行を肯定できるわけではない。とはいえ、そこをしっかりと見据えないと、本質を見誤る可能性がある。 エリート家系に生まれた著者にとって、腕のいい外科医として知られた父親は自慢の存在だった。ところが文化大革命の影響を受け、そんな父親は政治犯として収監される。一家は離散状態となり、著者は激変した環境に戸惑いながら喧嘩を繰り返すようになっていく。 そして14歳の誕生日だった1986年4月14日、既に牢獄から解放されて日本に移り住んでいた父親に呼ばれ、海を渡ってきたのだった。 1980年代は中国残留孤児の日本への帰国が本格化した時代で、著者が日本に渡った背景にもそうした流れの影響があったようだ。著者自身は残留孤児ではなく両親はともに中国人だったが、離婚後に残留孤児1世の女性と再婚していた父親に呼び寄せられたのだ。 しかし、編入した葛西中学校では差別を受け、家庭にも居場所がなかった。家にいたくないという気持ちが日増しに大きくなっていき、公園や橋の下にダンボールを敷いて眠るようになった。同じような境遇の子たちと知り合ったのも、その頃のことだった。 ===== 記憶に残っているのは、葛西のとあるマンションです。屋上に通じる階段の脇に機械室があり、鍵がかかっておらず、寝泊まりができたのです。屋外で眠ると、夏でも朝方は冷え込むので、雨風がしのげるのはとてもありがたいことでした。 この機械室では同世代の子どもたちが寝泊りしていました。中国語で故郷のことや学校のことを話しました。でも、あまり家庭の話はしません。 しかし、なんとなく「この子にはお父さんがいないのだろうな」とか「家でうまくいっていないのだろうな」と感じていました。 そのようにしていくつも夜を過ごすうちに、私たちは仲間になっていきました。(53ページより) 一方、日本人同級生たちからのいじめは激しくなっていき、罵られたり殴られたりする残留孤児2世が大勢いた。 日本人を理解しようと努力する子や、思い詰めて自殺する子まで、残留孤児2世のいじめに対する反応はさまざま。当然ながら抵抗するタイプもおり、著者もそのひとりだった。 葛西中学校に転入してから半年くらい経った頃、初めて日本人の同級生を殴りました。(中略)何がきっかけだったかはよく思い出せませんが、なぜ自分がいじめられなければならないのか猛烈に理不尽さを感じ、気がついたらその子に食って掛かっていたのです。(中略)。この後、私が辿った人生を考えれば、喧嘩とも言えないような喧嘩ですが、これは大きな転機の1つになったように思います。(56~57ページより) 怒羅権が誕生したのも、こうしたいじめに抵抗するためだった。学校内で暴力事件が起これば、学校が親を呼び、やめさせることになるだろう。しかし残留孤児2世の親はいろいろな意味で余裕がなく、子ども以上に日本語が理解できない。つまり止める者がいないため、暴力はさらにエスカレートしていく。 いじめてきた不良を殴り返したら、仲間の上級生を呼んでくるようになります。上級生とやりあううちに学校の外の暴走族が呼ばれるようになります。暴走族に襲撃されるようになると、私たちも登下校のときに固まって行動するようになり、やがてチームになっていきました。 現在の怒羅権は犯罪集団ですが、当初は自然発生的に誕生した助け合いのチームだったのです。(57~58ページより) ナイフを躊躇なく使ったのも理由があった 自衛のチームだった怒羅権は、やがて暴走族となり、そののち半グレと呼ばれる犯罪集団になっていく。しかし、本書で時系列に従って克明に明かされるそのプロセスやエピソードを確認すれば、決してただ凶暴なだけの集団ではなかったことが分かる。 ===== 怒羅権は「喧嘩が汚い」「タイマンでも金的蹴りなどの反則技が多い」と非難されます。ナイフで相手を刺すことも一切躊躇しないため、凶悪な集団だと恐れられ、「包丁軍団」と呼ばれることもあります。 しかし、刃物を使うのは当たり前のことなのです。 3日も4日も食べないことが珍しくなく、体力がありません。そうした者が喧嘩で生き残るためには速やかに相手を倒す必要があります。つまり、刃物を使うことに限って言えば、凶暴だから使ったわけではなく、むしろ考えた末、生き抜くために使ったというのが正しいのです。 ナイフを使う最大の目的は、血を大量に流させ、相手の戦意を奪うことでした。だから「怒羅権はすぐに刺す」などと言われますが、実は私たちは刺すよりも切ることを優先します。その方が出血は多くなりますが、致命傷になることは少ないのです。(76ページより) 繰り返すが、だからといって刺すことを正当化するわけにはいかない。しかし、当時の彼らには生きていかなければならないという目的があった。だから「刺す」のではなく「切る」という手段を選んだということなのだろう。 そして、「生きていかなければならない」という問題を突き詰めていくと、やはり環境が及ぼす影響の大きさを痛感せざるを得ない。 家に両親が揃っていて、円満な関係を築いていれば、学校でいじめられても貧乏であっても自分の居場所はあります。しかし、怒羅権として反抗する生き方を学んだ者は総じて家庭環境が良くありませんでした。片親だったり、親が長期間家をあけることが多かったり、私のように継母に馴染めなかったりしました。 家はいわば、最後の居場所なのだと思います。それがなかったからこそ、私たちは反抗という道を選んだのではないかと思うのです。(82ページより) 「片親にもしっかり生きている人はいる」といった意見もあるだろう。確かにその通りかもしれないが、いまここで強調したいのはそういうことではない。本書を通じて考えるべきは、「なぜ、日本でいじめられた彼らは反抗という手段を選んだのか」ということではないだろうか。 それについてきちんと考えないと、同じようないじめはまたどこかで起こるかもしれないのだから。 また、そう考えていけば、著者を含む創設メンバーが単なる犯罪集団となってしまった現在の怒羅権を残念に思い、解散させたいと感じているという話にも納得できるはずだ。 『怒羅権と私―― 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』 汪楠 著 彩図社 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)