<アカデミズムとジャーナリズムの架け橋を担う論壇誌『アステイオン』が問う、今の問題とは? 「アステイオン」ウェブサイトより、文芸評論家の三浦雅士氏による「「再び『今、何が問題か』」を読む」を全文転載する> 『アステイオン』94号の特集は「再び『今、何が問題か』」である。「再び」というのは、2012年にも「今、何が問題か」という特集を組んでいるからだ。ほぼ10年を経て同じ趣旨の特集を組むのは編集委員が入れ替わったことによる。 先立つ10年の編集委員は、委員長の田所昌幸以下、張競、池内恵、苅部直、細谷雄一、待鳥聡史の計6人。このうち、田所、張を除く4人が、岡本隆司、武田徹、土居丈朗、中西寛に入れ替わった。新旧ともに錚々たるメンバーだが、その全員すなわち「新」編集委員6人プラス「旧」編集委員4人の計10人が寄稿している。 みな、自身の立場から見て「今、何が問題か」を問うていて、読み応えがある。全員が男性の大学教授――待鳥氏の言い方で言えば専門知の人々――であることに、あるいは違和感を覚える向きがあるかもしれないが、少なくとも私は覚えない。明確な視点をもった主義主張のほうに気を取られてしまうからだろう。それぞれの論文表題が内容を示していて興味深いのだが、別掲広告に示されるだろうから、ここでは挙げない。 『アステイオン』は年二回の刊行だが、ジャーナリズムの一翼を担う。日刊紙、週刊誌、月刊誌とあって、それぞれ呼吸の違いを示す。日刊紙は反射神経、月刊誌は立ち止まる余裕を多少は持った思考である。アカデミズムには別に年報というものがあって、これはふつう専門知の研究成果を結集する。 したがって年二回刊とは、刊行形式そのものが、アカデミズムとジャーナリズムのあいだにあって絶妙なバランスを取ろうとする姿勢を示していることになる。これこそ、田所編集委員長のもっとも意を用いるところだろう。専門知と現在只今の政治経済状況、文化社会状況を鬩ぎ合わせようとしているのだ。論文はすべてその意図によく応えている。 私は専門知には縁のない素人だが、「今、何が問題か」と問われれば、ただちに「中国」と答えるだろう。これには誰も異論がないだろう。ほとんど世界史的課題として眼前していると言っていいからである。事実、鋭敏と言うべきか、全員が大なり小なりこの問題に関わっている。 言語行為を論じた武田氏の文章が異質に思えるだろうが、そうではない。日本と中国の近代のありようの違いは、漢字と内面性の問題に深く関わっているからだ。 中国という問題にはいくつもの切り口がある。その切り口が今すべて顔を揃えていると言っていい。筆頭はマルクス主義の問題である。ソ連とともに終わったわけではなかったのだ。収容所群島にしても臓器移植にしてもウイルスの機能獲得実験にしても、私はすべてマルクスにその起源があるのではないかと疑っている。 ===== プルードンを嘲笑するその嘲笑にむしろマルクスのコンプレクスが潜むことを指摘したのはシュンペーターだが、『貧困の哲学』と『哲学の貧困』を読み比べるがいい。マルクスには専門知の傲慢、一党独裁の傲慢が抜きがたくある。 新疆問題にせよ西蔵問題にせよ香港問題にせよ、マルクスに惹かれたことのある者はすべて――私もそうだが――責任を取ってもらいたいと思う。マルクスには経済学があっても政治学も人間学もなかったとすれば、それはなぜか。 マルクス経済学をもっともよく読み込んだのはシュンペーターであり、だからこそシュンペーターのイノベーション論――新結合論――すなわち技術革新史観がマルクスの階級史観を抜くことになったのだと私は思っている。 このことは、それこそ石器時代からIT産業時代に至るまで技術革新が階級を作るのであってその逆ではないことに端的に示されているが、興味深いことにこの技術革新の問題を真正面から取り上げているのが文学畑の張氏である。産業によって雇用者数が違ってくる様子がよく分かる。 20世紀のソ連時代とは違ってきたのだ。21世紀、ITによる産業構造の変貌によって中国共産党上層部がアメリカ支配階級と結びつき――似たもの同士である――、アメリカはもとよりスイスにまで多額の資産を隠すほどになったわけだが、私はこれもまたマルクスの責任であると思っている。これを破壊するにはトランプのような、いわゆる知識人に嫌われる猛者が登場するほかなかったのだ。 苅部氏がイノベーションといえばすぐに理系と考える政治家や官僚を批判しているが、デッカーという若い研究者によれば、シュンペーターの新結合論に影響を与えたのはイタリア未来派だったという。 考えてみればシュルレアリスムなど新結合の見本のようなもの。20世紀の科学革命を支えたのは文系の着想であったということもありえないことではない。中西氏が鍵概念として用いる「品位」という概念も、背景に膨大な文系的つまりは歴史的知識、歴史解釈を引き連れていると思える。 だが、技術革新が社会問題、階級問題の様相を呈した始まりは宋代中国にほかならない。それがモンゴル帝国を可能にし、やがてイタリア文芸復興を可能にしたのである。内藤湖南から宮崎市定、岡田英弘までが説くところだ。 岡本氏は、今回はラッセルの百年前の論文を引いて中国風の気の長さを示しているが、かつて『世界史序説』において新疆を挟んで中国とペルシャが対の関係にあると論じていたのには驚嘆した。池内氏と対談すればさぞ面白いだろうと思う。 ===== 指摘するまでもなく、このような俯瞰は、ウォーラステインからグンダー・フランクにいたる経済史の見方と対応している。焦点がアフリカから中国に移っただけなのだ。『中国の科学と文明』を書いたのはニーダムだが、『中国の経済と社会制度』がいずれ誰かによって書かれなければならないだろうと私は思う。 特集外になるが、北岡伸一「西太平洋連合を構想する」には、年来思い描いてきたことなので思わず膝を打った。むろん政治経済において賛意を表するほどの知識があるわけではない。芸術史、とりわけ舞踊史において、構想してきたことなのである。 インドネシア舞踊がミャンマー、カンボジア、ベトナムを通って北上し、沖縄から日本――つまりは能――へと至ることは人類学史上のほとんど事実である。中国、朝鮮は、遊牧民の身体所作を承けてむしろ異質なのだ。 柳田國男、折口信夫の名を出すまでもなく、この北岡構想には多くの人を魅了する力があることを特筆しておきたい。文化が後押しすることは疑いない。知的な刺激に満ちた一冊であることを強調しておく。 三浦雅士(Masashi Miura) 1946年生まれ。文芸評論家。弘前高校卒業。1969年、青土社創立と同時に入社。『ユリイカ』、『現代思想』編集長などを務める。『メランコリーの水脈』(福武書店、サントリー学芸賞)、『身体の零度』(講談社、読売文学賞)など著書多数。 ※当記事は「アステイオン」ウェブサイトからの提供記事です。 『アステイオン94』 特集「再び『今、何が問題か』」 公益財団法人サントリー文化財団 アステイオン編集委員会 編 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)