<癌治療の世界では、患者の年齢やライフスタイルを考慮しない「標準化」の流れが進んでいる。そんななか、なぜ国立がん研究センター東病院は診療科横断的な雰囲気を保ち、患者中心の治療を続けられているのか。実際に当院で放射線治療を受けた筆者が、病院長に聞いた> 元日経ビジネス記者でジャーナリスト歴30年の金田信一郎は昨年3月、突然ステージ3の食道癌に襲われた。 紹介されて入院したのは、日本最高学府の東京大学医学部附属病院(東大病院)。癌手術の第一人者で病院長が主治医になったが、他の選択肢があったにもかかわらず手術以外の選択肢が提示されなかったことに疑問を抱き、国立がん研究センター東病院へと転院。結果的には放射線治療によって、今では以前とほぼ同じ日常を取り戻した。 金田は先頃、一連の体験を題材にしたノンフィクション『ドキュメント がん治療選択 ~崖っぷちから自分に合う医療を探し当てたジャーナリストの闘病記』を上梓した。また7月20日発売のニューズウィーク日本版(7月27日号)「ドキュメント 癌からの生還」特集では、200日の闘病記を16ページのルポルタージュにして収録。本誌で金田は、思考停止に陥った日本の医療体制、そして患者にも強烈な問いを投げ掛けている。 本誌未収録の本記事は、その取材の一環で訪れた国立がん研究センター東病院病院長である大津敦氏へのインタビューだ。 東大病院をはじめ日本の多くの病院が、患者の年齢やライフスタイルを考慮することなく手術を勧めるのに対し、がんセンター東病院が放射線治療という選択肢を提示できたのはなぜか──。大津氏に聞いた。 ※東大病院病院長・瀬戸泰之氏のインタビューはこちら:東大病院の癌治療から逃げ出した記者が元主治医に聞く、「なぜ医師は患者に説明しないのか」 ◇ ◇ ◇ ──私は東大病院から転院してきて、がんセンター東病院で外科や内科、放射線科の医師のみなさんの治療を受け、多くの知見をいただきました。この病院は、日本の中では特異な存在だと感じていまして、経営トップにお話をうかがいたいと思っていました。大津先生は、この病院の歴史的証人ですね。 はい、開院から勤務しています。 ──多くの人は、がん研(がん研究会)とがんセンターを混同していると思います。がん研は戦前に生まれた組織ですが、がんセンターは比較的新しい組織ですね。 1962年に開院しました。 ──ジャーナリストの柳田邦男が『ガン回廊の朝』で、がんセンターの設立期を描きました。それまで外科中心だったがん治療を、各科の壁を取り払って患者中心の治療に変えていく、そんな医師たちの思いが描かれていました。あれは築地にあるがんセンター中央病院の話でしたが、その「分院」となるこのがんセンター東病院は30年後の1992年に設立されています。この病院も30年が経ちましたが、『ガン回廊の朝』のような思いを引き継いでいるのでしょうか。 私自身は1986年から3年間、築地のがんセンター中央病院でレジデント(研修医)をやっていまして、その後、東病院が開院してからは、ずっとここにいますので、両方の病院を知っています。 この病院ができた発端は、国立病院の統廃合でした。この地域には、国立の柏病院と松戸療養所がありました。松戸療養所は結核患者が中心でしたが、当時はがん患者に大きく変わってきていました。ですから、がんセンター出身の医師もかなり多かったんですよ。当時、(松戸療養所病院長だった故人の)阿部薫先生が、東病院の初代院長として「新しいがんセンターをつくる」ということで、厚生省(現厚生労働省)と調整したと聞いています。 ──反対の声もあったんですか。 「なぜ、もう一つがんセンターをつくるんだ」という議論はありました。そこで、「難治性のがんを対象にする」ということで、難治がん、特に肺がんや肝臓がんを主な対象にした「第2がんセンターをつくる」ということにしたのです。 ===== ──緩和ケア病棟や世界2番目の陽子線治療センターが話題となりました。病棟も最新の建築でした。 がん患者が増えてきて、がんが国民病になるのは目に見えていました。それで、もう一つがんセンターをつくるという話が盛り上がってきたのだと思います。 ──当時、築地にも肺がんや肝臓がんの診療科もあった。 そうですね。 ──では、議論が沸きますね。 ここの3分の1は築地(がんセンター中央病院)出身で、あとの3分の1は松戸療養所、3分の1は柏病院の出身者でした。 私は田舎の病院に戻っていましたが、消化器がんの化学療法をやっていたから、「柏に第2のがんセンターができるから来い」と築地時代の元上司に言われて赴任しました。最初は役割分担として、「手術ができる患者さんは築地に紹介して、手術ができない進行したがん患者さんを柏で診る」と言われていました。 開院前の建築中の病院を見に来て、びっくりしました。30年前、この辺りは藪だらけです。当時、勤務していた(福島県)いわき市よりも田舎で、「こんなところに来るのか」と思いました。 ──1992年から建物は変わってないわけですよね。 そうですね。隣の東大も柏の葉公園も、まだできていませんでした。ところが、東病院がオープンすると、患者が押し寄せてきたのです。築地にはなかった緩和ケア病棟がありましたし、陽子線治療も国内で最初に実施していました。この2つが目玉で、がん患者さんが押し寄せてきました。そうなると、肺がんと肝臓がんだけでなく、胃がんや大腸がんの患者さんも多いから、だんだんと東病院でも手術をするようになっていきました。でも、メーンは肺と消化器、頭頸部のがんなどでした。 その後、希少がんにも取り組んできましたが、いつも国からは、「がんセンターは2つ必要なのか」と問われました。 ──すみ分けですね。 開院して10年ぐらいしたところで、国から「機能分担を明確に」と言われて、当時の幹部の先生方の協議で、築地は「がん対策情報センター」を置いて、柏の方は「臨床開発センター」を置くことになったと聞いています。築地は政策医療、柏は新しい開発を中心に据える方向性になりました。 ──新しいことを始めるのが得意だった。 この病院は開院した当時、医師の平均年齢が33歳でした。ちょうど私もそのくらいの年齢でした。今から考えれば、レジデントクラスの年齢です。病院も小さく、診療科横断的な良い雰囲気はずっと続いてますね。 私は内科ですけど、外科であれ、放射線科であれ、簡単に話ができます。金田さんが受けられた放射線治療も、内科で説明をして、外科でも説明を聞いて、患者さんにどちらがいいか決めてもらう。それを最初の頃に始めたのが、この病院です。協力し合ってきました。 ──私のケースでは、最初は外科手術をする予定だったのですが、内科の先生が間に入って「放射線もありですよ」という話になって、そのリスクも聞いて決めました。で、思ったんですけど、患者と内科、外科、放射線科が同じ場に一緒に集まって話すことはできないんですね。 時間が合えばできると思いますが、単純に、医者たちが一緒に集まる時間をつくるのが大変だという課題があると思います。 ──時間が合えば、そういうこともあるんですか。 それはできると思いますよ。 ===== ──ほかの病院では、放射線治療とか外科手術とか、患者が選びにくいものなんですか。 だいたい、行ったところ(治療科)で決まりますよね。患者さんが外科に行けば、その科で全部見ることになります。抗がん剤も含めて。昔は抗がん剤専門の内科医は少なく、外科の先生方が中心的だったので、そんな感じでした。 ──東大病院がそうでした。医師チーム全員が外科医でしたし、抗がん剤も外科の先生たちにやってもらいました。東病院では、内科が抗がん剤治療を担当してくれました。外科が主導という感じではないですね。 うちの外科医は、外科医らしくないのかもしれません(笑)。腕の良い外科医が揃っているけれど、伝統的に近寄り難い感じはありません。内視鏡治療などで、まれに消化管が穿孔したりすることがありますが、そうすると外科の先生方が嫌な顔もせずに手術をしてくれます。 ゲノム関係は内科がリードしてプロジェクトを進めていますが、周術期の薬物療法などは外科が中心となるようにバックアップしている。なかなかできないことです。それで、内科がいろいろな実績を上げることにもつながっている。ESD(内視鏡切除)を最初に実践したのも、この病院です。 ──ESDの最初の症例は胃でしたよね。 そうです。私が担当したわけではないんですけど、立ち会いました。放射線と抗がん剤の併用治療も、日本では草分けでした。 ──それはいつ頃のことですか。 開院して間もない頃です。新しい薬の治験もたくさんやっていました。(抗がん剤の)S--1もそうです。「こんな経口剤で効くの?」と思っていましたけれど、本当に驚くほど効きました。 2000年頃に分子標的治療薬が台頭してきます。がんは遺伝子の異常が積み重なって発生進展しますが、遺伝子解析技術が進歩して、その遺伝子異常に適した薬を開発するようになりました。残念ながら、「国際共同治験」という枠組みになった時に、日本は遅れをとってしまいました。 ──なんで遅れてしまったんですか。 治験が国際化していく中で、日本の施設が参加できず、新薬開発が何周遅れにもなってしまった。今のコロナワクチンの開発のような感じでした。新しく開発された薬剤を患者さんに届けることもできず、研究もすべて遅れるわけです。 2005〜2006年頃に国際治験に参加し、私は海外で先端的な研究をする人たちと話をするようになって、考え方がかなり変わりました。それまでは承認された薬剤で治療するのが自分たちの研究(のやり方)でした。でも、国際的な治験に最初から入っていないと決定的に遅れます。最初に治験をするには、臨床だけではなく、基礎研究の視点が重要だと頭を切り替えられました。 日本は化合物の抗がん剤は強かったけど、分子標的薬の波が来て、さらに生物製剤的なものが開発の中心になった時、日本の研究は遅れてしまい、2005年ぐらいにはどん底に陥りました。そこから国際治験に積極的に入り出して、ようやく追いついてきましたが、10年はかかりましたね。 ===== ノートにメモをとる取材中の筆者 HAJIME KIMURA FOR NEWSWEEK JAPAN ──それでも追いついてきたんですか。 私はレジデントの時に少し基礎研究をやりましたが、その素養がないと、今の抗がん剤の開発研究にはついていけません。そこで、隣接する先端医療開発センターに優秀な基礎研究の先生たちが集まっているので、レジデントの先生が来ると、半年ぐらいそこを回らせています。 その先端医療開発センターも、2008年に私がセンター長になりました。それから、臨床検体や免疫を解析する基盤などをつくっていきました。大きく進んだのは、2011年に国の事業で、早期・探索的臨床試験拠点整備事業に選定されてからです。全国5施設の一つに選ばれて、事業費を国からもらえるようになって、本格的に基盤をつくり始めることができました。 それまで、この病院には本格的な臨床開発研究を実施する基盤がなかったのですが、今では企業との治験や共同研究を多数行っています。 単に企業から治験を受託するだけではなくて、医師が自ら考えて新薬の開発治験をする「医師主導治験」をできる体制をつくっています。臨床研究中核病院が大学病院を中心に14施設ありますが、臨床研究筆頭著者論文数は東病院がトップです。病院のサイズは一番小さいですが。 ──大津先生が気づいて、遅れを取り戻した。 例えば、今、日本はワクチンの開発が遅れてますよね。でも、ファイザーやモデルナ、アストラゼネカなどの外資ではコロナワクチンは、ベンチャー企業やハーバード大学、オックスフォード大学などの研究成果をもとにワクチンを作っているわけです。今の米国製薬企業の新薬の6〜7割は自社以外のアカデミアやベンチャー企業のシーズ(薬の種)を取り込んで製造しています。 ──東病院でいえば、隣で東大がゲノム研究をやっています。 それは大きいですね。日本で承認されるがんの薬の多くは、この病院で治験をしています。今度、京都大学のiPS細胞を使ったがんの免疫細胞の治療を始めます。光免疫療法も実施していますが、これはNCI(米国立がん研究所)の小林(久隆)先生が開発した技術に、楽天の三木谷(浩史)さんが投資をしました。そこから光免疫療法が始まっている。日本での開発はこの病院で土井(俊彦)副院長と林(隆一)副院長が中心になってやりました。がんで発現している特定の分子に対して、抗体をくっつけて、近赤外線を当てて、がん細胞だけを消滅させる。 ──頭頸部がんに使っている治療法ですね。 はい。食道がんでも医師主導の治験を行っています。光免疫療法でも、別の抗体を開発している研究者もいます。 ──2005年の「どん底」から、10年ほどでかなり巻き返したわけですね。 その2015年、スクラムジャパン(SCRUM-Japan:遺伝子スクリーニングプロジェクト産学連携全国がんゲノムスクリーニング)を始めました。遺伝子の診断パネルができても、問題は、多くのドライバー遺伝子異常の頻度が低くて、1〜2%程度です。そこで、一括で測れる遺伝子診断パネルが開発され、1回で遺伝子の異常が何十個、何百個という単位で分かるようになりました。東病院の呼吸器内科長の後藤(功一)くんと、消化管内科長の吉野(孝之)くんの2人が中心になって、全国215の医療機関と製薬企業17社との共同研究として、スクラムジャパンを設立しています。 すでに、2万〜3万人の患者さんの遺伝子解析をして、遺伝子異常に適合した新薬の治験に登録することで、より早く患者さんに有効な薬剤を届けています。2019年には遺伝子パネルも薬事承認されたので、一般の患者さんにも使ってもらえます。東病院は、全国の患者さんに治療が行き渡る3〜5年前から治療をやっている。そんな感覚ですね。 ===== ──遺伝子パネルはちょっと前まで、30万〜50万円かかる自由診療でしたね。 今は保険適用されました。さらに、リキッドバイオプシーといって、採血で遺伝子の変化が分かるようになってきています。スクラムジャパンでもう1万人近くの患者さんで遺伝子解析し、つい先日、薬事承認されました。どうすれば患者さんに一番効果が出るかを検討しながら進めています。 我々が持っているデータは恐らく、世界でもトップクラスになっています。現在は、解析から臨床応用まで、さまざまな場面でゲノム医療をつくるグループになっています。 今では、DNAだけではなく、遺伝子の発現に重要なRNAやタンパク発現を見たりすることが、薬剤選択や次の創薬に重要になってきています。 私は定年に近いけれど、こんな時代が来るとは思いませんでした。がんの遺伝子の状態も分かるし、RNAの発現の状態も分かるとは。がんの周囲にはさまざまなリンパ球があり、そのリンパ球がどのように集まってがん細胞を攻撃しようとしているのか、または機能してないのか。隣の東大柏キャンパスに、遺伝子の解析で日本の第一人者がいますので、一緒に共同研究を進めています。 これからの課題は、研究の先の企業化です。これが日本は圧倒的に弱いですから。ベンチャー企業をつくっていかないと、海外と勝負できません。いくらすばらしい技術を持っていても、アメリカには勝てないのです。後藤くんや吉野くんたちはベンチャー企業を立ち上げて、アジア各国にスクリーニングシステムを広げ、海外からのデータも収集してきています。またRNAなどを含むマルチオミックス解析も始めています。たぶん、世界で最大規模の研究になってきています。 ──ここで開発をやる。 この病院で始めて、多数の企業との共同研究を進めています。日本企業もいいものを出すようになっています。第一三共は乳がんと胃がんで特殊なタンパク質を発現している人に効く新しい薬を開発してヒットさせました。その治験を世界で最初に東病院で行っています。2020年に承認されました。 ──日本発のがんの薬が出てきたわけですね。 スクラムジャパンに、臨床とゲノムの膨大なデータベースをつくってありますが、企業や医療機関、アカデミアと情報を共有しています。それぞれが有効活用して新しい薬を開発しています。米NCIも同様の研究を進めていますが、成果は負けていないと思います。国内の主な企業はすべて参加しています。 ──なんで、藪の中に忽然と現れた病院が、遅れていた日本医療の中心になって、突出したモノを作り出せるようになったんですか。 それはパッションがある職員が多いんじゃないですか(笑)。 ──パッションですか。 パッションですよ。新しいモノを作るのはパッションが重要で、シリコンバレーのことを当事者の先生にうかがうと、アップルはじめ、多くの企業がなぜ成功しているか、という話と共通項があると思います。 「若者」「バカ者」「よそ者」が、天才的な科学の才能がある。 ただ、科学の天才がいてもダメで、周りに経営のサポーターが必要です。日本でも例えば、ソニーの井深大と盛田昭夫、ホンダの本田宗一郎と藤沢武夫のように、(技術と経営の)ペアが必要です。 ──そういう若くて破天荒な人材がいるわけですね。 ここは国立でありながら、開院以来自由度が高い。そういう文化を開院当初の幹部の先生方がつくられ、受け継がれてきています。自由度が高くて、新しい挑戦ができる。スクラムジャパンを立ち上げる時は「大丈夫か」と思ったけれど、突っ走っちゃう先生方が多くて、それがうまく回っている。 ===== ──みなさん、この病院から離れないですよね。大津先生も開院以来いらっしゃるし、私が診てもらった藤田武郎先生(食道外科長)も長いですよね。 長いですね。レジデントから来たんで。彼ももう50歳ぐらいですね。たぶん、ずっとここですね。 ──みなさん、長い。 まあ、若い人は入れ替わっていますけどね。私はこの病院が好きですし、多くの職員がそうだと思います。 ──ご出身は東北ですね。 大学は東北大学ですが、初期研修で福島のいわき市に6年いました。出身は茨城で、いわき市の隣町でした。それで、がんセンターの築地でレジデントが終わって、いわき市にいったん戻ったのですが、元上司に「こっち(東病院)に来い」って言われて、来ました。 ──『ガン回廊の朝』の頃から目指した各科を超えた自由を、この柏の地で引き継いでいらっしゃる。 はるか上のOBの方たちに、「柏はがんセンターの文化を残している」と言われたりします。 ──大津先生は内科医でがん専門病院のトップに就いている。がんの世界は外科が中心になることが多いと思うんですが。 まあ、珍しいですね。恐らく、内科医でがんの主な専門病院の院長はほとんどいないんじゃないでしょうか。 ──病院に入った瞬間に、光が差し込む広いエントランスが印象的です。 もう建ってから30年たちますが、エントランスと外来に広いスペースをつくってくれたのは助かりました。 東病院では手術室や通院治療センターという抗がん剤のスペースを広くしました。以前は抗がん剤は入院でやっていたのですが、ほとんどが外来で行うようになり、今は1日200人ぐらい、通院で抗がん剤治療をしています。 ──東病院の案内やウェブサイトにビジョンが書いてあります。「世界最高のがん医療の提供」と「世界レベルの新しいがん医療の創出」と。そして、基本方針として、「人間らしさを大切に、患者さん一人一人に最適かつ最新のがん医療を提供する」とあります。あれは、誰がつくったんですか。 私です。2016年に院長になった時に、世界最高を目指すぞと言いました。その時、みんなは「ありえない」という雰囲気でしたけど、年々、それに近づいてきています。 ──ほかの病院では、ここまでの宣言は見たことありません。 まあ、半分はったりですよ(笑)。そういう方向を目指すんだという話です。あと、2010年に独法化した頃は、今の半分しかスタッフがいませんでした。独法化前は、年に1〜2人しか職員を増やせなかったんですから。それが、収支に応じて増員できるようになり、わずか10年で1500人と2倍になりました。医師が常勤150人、レジデントを入れると250人になりました。看護師も500人います。 ──そうなると、受け入れる患者数も増える。 新患がちょうど1万人くらいになりました。今、病床稼働率は100%を超えていますからね。 理念を明確にするのは、大事なことだと思っています。達成できようが、できまいが、「そこを目指すんだ」とみんなに徹底していく。今は違和感がなくなったようですね。世界的なスクラムジャパンをはじめ、世界的な研究プロジェクトがいくつも進んでいますから。 ===== ──なるほど、この病院は裏側で、こういうことを目指してやってきたから、独特な雰囲気があると理解できました。ただ、一般的には知られていないですね。別に宣伝しなくていい、ということですか。 そんなことはないんですけど、どうしても地味になっています。 ──すでに、全国から患者さんがどんどん集まってきますからね。 もっと増やそうと思ってますよ。2022年には、ホテルとラボ(研究所)がオープンします。両方とも三井(不動産グループ)がつくっているので、我々はそこを使う側ですが。企業も誘致を進めていて、全国から新薬や細胞療法などの開発・研究者がどんどん、ここに集まってきてくれることを期待しています。 ──シリコンバレーの医療版のようですね。 そうです。医療機器開発のグループも大腸外科科長の伊藤(雅昭)くんを中心に頑張っていて、「ここを日本のシリコンバレーにする」という発想でみんな取り組んでいるんです。 医療機器開発グループもAI(人工知能)やITのエンジニアなどの研究者がたくさん集まってきて、病院内医療機器開発センターで、企業やアカデミア施設の研究者と一緒に開発を進めています。最近ではここに外科医だけではなく、いろんな人材が集まっていて、幅広い診療科の医師や看護師、メディカルスタッフと混じり合って研究を進めています。異分野の人たちが、お茶を飲みながら意見交換している。だからおもしろいんです。 ──病院内が交流の場になっているわけですね。また、隣に東大や千葉大のキャンパスがあって、研究者がいるのも大きいですか。 それは、大きいです。隣に産総研(産業技術総合研究所)のAI拠点と、情報研(国立情報学研究所)もあります。 2021年からは、東大系のベンチャーキャピタル、UTEC(東京大学エッジキャピタルパートナーズ)が、我々と共同でベンチャー育成プログラムを開始しました。それに追随しようとするベンチャーキャピタルも出てきました。まだ規模が小さいですが、ようやく世界のトップの大学に似た取り組みを始められました。 ──藪だらけだった場所が、そういう街になりつつある。 日本の中ではユニークな街になると思います。次の世代の人が活躍する基盤をできるだけつくって、新しい医療をより早く患者さんに提供し、海外に負けない開発研究の拠点となることを夢みて進めています。