<活力と多様性と自由が失われ、市民と警察が憎しみ合う、監視都市・香港に希望は残されているのか> 7月1日、北京の天安門広場で華々しく開かれた中国共産党建党100周年の祝賀大会。習近平(シー・チンピン)総書記(国家主席)は1時間以上も演説し、「中華民族の偉大な復興」のために党と人民が奮闘し、列強に支配された「半植民地」から世界第2位の経済大国へと上り詰めたと強調した。さらに80回以上も「人民」という言葉を使い、「歴史と人民が中国共産党を選んだ」と述べた。 中国の憲法は、中国は「労働者階級が主導し、労農同盟を基礎とする」と規定している。人民とは労働者と農民であり、その敵である資本家階級を打倒するというのが中国共産党の正統な革命思想だ。 「われわれをいじめ、服従させ、奴隷にしようとする外国勢力を中国人民は許さない。妄想した者は14億の中国人民が血と肉で築いた鋼の長城にぶつかり血を流すことになる」 全ての中国人がこんなふうに団結し、外部の敵と闘う姿勢を示しているのか。習近平総書記、あなたが言う人民とはいったい誰なのか。 * 同じ日、返還から24年目を迎えた香港では、大規模なデモが行われないように、警察官1万人が動員され、中心部の公園が封鎖された。警察官は市民を呼び止めて持ち物を調べ、国旗を侮辱した疑いや、国家の分裂をあおるプラカードを持っていた疑いなどで19人を逮捕した。 規律ある香港警察は世界でも評価が高く、市民から信頼される存在だった。友人はこう話す。「警察官はデモ参加者を『ゴキブリ』と呼び、殺虫剤のようにして催涙スプレーを浴びせた。人々は警察官が近づくと恐れを感じ、彼らを『イヌ』と罵っている」 1日夜、銅鑼湾地区で警戒中の警察官が刃物で刺され重傷を負った。容疑者の男は自分の胸を刺して死亡した。警察が市民に横暴なやり方で圧力を加えることが常態化し、人々は警察を血の通った人間と見なくなっている。 翌2日、人々は白い花を持ち、悲しみを表そうとしたが、多くの花が警察官の手でゴミ箱に投げ捨てられた。こんなささやかな表現でさえ許されないというのか。 中国・香港政府は、国家安全維持法(国安法)で香港は安全になったと主張する。警察の暴力と言論統制で市民を抑え付け、もたらされたのは不気味な静けさだというのに。 国安法違反の密告を促す専用のホットラインが開設され、この1年で10万件以上の通報があったという。少々荒っぽいが、おおらかで包容力のあった香港があっという間に監視社会になった。 ===== デモ隊の「落書き」が唐突に隠される Chan Long Hei for Newsweek Japan 教育の現場も大きく変わっている。香港の「通識教育」(リベラルスタディーズ)は、生徒の独立した批判的思考を養う上で先進的な試みだとして、世界的にも注目されていた。しかし、国安法を受けた改革で新たに導入されるのは、国家分裂や政権転覆など4つの犯罪類型を学ぶカリキュラムだ。「通識教育」は「公民と社会発展」という科目に抜本的に改められ、順法意識や愛国心がその重要な要素となる。 「永久に香港を去る」人々 こんなところで子育てはできないと、海外への移住者が急増している。昨年1~3月、「永久に香港を去る」ことを理由に解約された年金額は19億香港ドル(約270億円)と前年同期の1.5倍に、ビザ取得に必要な無犯罪証明書の申請件数は直近1年で3万4000件に達した。この1年で2万人近くの生徒が小・中・高校を退学している。 6月17日、香港最後の民主派の新聞といわれる「蘋果日報(アップル・デイリー、リンゴ日報)」の編集長、CEO(最高経営責任者)ら5人が逮捕され、同社の資産も凍結された。昨年6月末の国安法施行以前の「外国勢力を駆り立て、香港や中国政府の制裁発動を求めた十数本の記事」などが同法に抵触する疑いがあるという。国安法は過去に遡及して適用しないと説明しているにもかかわらず、過去の記事にまでさかのぼって取り締まりを行おうとしている可能性がある。6月23日、蘋果日報は停刊を正式に表明した。 蘋果日報本社前で最終号を持つ市民 Chan Long Hei for Newsweek Japan 昨年8月10日、国安法違反の容疑で10人のメディア人や活動家と共に逮捕された蘋果日報創業者の黎智英(ジミー・ライ)は、裸一貫から大メディアのトップにまで上り詰めた。広東省広州市に住んでいた幼少時、父は香港におり、母は大陸の労働改造施設へ送られていた。2人の姉と兄は高校、大学進学のため実家を離れており、家に残されていたのは双子の妹と軽微な知的障害のある姉だけだった。黎は鉄くずを売り、駅で荷物運びを手伝って金を稼ぎ、家族を支えていたという。 1960年、12歳の黎は1香港ドルを持って、マカオから香港へ密入境した。香港に行こうと考えたのは、香港の旅客の荷物運びを手伝った時に、お金の代わりにチョコレートをもらい、そのあまりのおいしさに、「香港は天国のようなところに違いない。自分は香港人になるんだ」と考えたからだという。香港の工場で働き、経理を学び、小学校しか出ていなかった黎は、いつしか英語が流暢に話せるようになっていた。 ===== 警察が旗で「国安法違反の可能性」と警告 Chan Long Hei for Newsweek Japan 株式市場で儲けを出した黎は81年に、アパレルのチェーン店・ジョルダーノを創業した。そしてジョルダーノの株を売ることを決め、90年に壹傳媒(ネクスト・デジタル)を設立し、週刊誌『壹週刊』を発刊した。 黎智英は「(89年の)天安門事件がなければ、メディアを設立していなかった」とさまざまな場面で話している。黎は、当時の李鵬(リー・ポン)首相に向けて公開書簡を出し、中国政府の対応を批判した。香港返還後、多くの香港メディアは中国寄りになったが、壹傳媒は一貫して共産党政権を強く批判し、自己検閲をしないと宣言してきた。 メディアで始まった「忖度」 95年の蘋果日報創業時の最初の社説「私たちは香港に属している」にはこう書いてある。 「私たちが作ろうとしているのは、香港人の新聞だ。香港の主権が返還されるまであと2年、97年以降の変化を恐れているか? そうだ。私たちは恐れている。しかし、私たちは恐怖に脅かされたくはない。私たちは悲観論に目をくらまされたくもない。私たちは前向きに、楽観的に未来に立ち向かわなければならない! 私たちは香港人なのだから!」 蘋果日報は最も多い時には1日の販売部数が50万部以上あり、5000人以上の従業員を抱えていた。しかし、中国市場を重視する企業は、中国・香港政府への批判を鮮明にする蘋果日報に広告を出さないようになった。2019年にニューヨーク・タイムズの取材を受けた黎は、広告の減少で毎年約4400万ドルの収益を失ったと述べている。昨年の販売部数は10万部未満にとどまり、従業員は800人以下に減っていた。 国安法の施行により、香港のメディアはますます萎縮せざるを得なくなっている。あるメディアでは若者の就職難という一般的な社会問題を扱う場合も、ネガティブな論調に対して上層部から再考を迫られることがあるという。そんななか、蘋果日報は独立した主張を展開する最後の民主派メディアとして、紙の部数は減ったが、デジタルの会員数を伸ばしていた。 それでも表現し続ける香港人 6月24日、蘋果日報にとって最後の日。発行部数が約8万部の同紙はこの日、100万部を印刷することに決めた。ニューススタンドやコンビニに新聞がうず高く積み上げられ、前日の夜中から長い列をなして待っていた人々に、最後の蘋果日報が販売された。 ===== 立法会選挙の民主派予備選で勝利した「抗争派」16人のうち15人がその後逮捕された Chan Long Hei for Newsweek Japan 1面は「私たちはリンゴ(日報)を支持する」という見出しで、同社前で別れを惜しむ読者らの写真が掲載された。別冊では、中国取材班が中国警察の妨害を受けながらも、ノーベル平和賞受賞者・劉暁波(リウ・シアオポー)への取材を続けた経験などを伝えた。 クラウドで蘋果日報を「保存」 この日以降は、同紙ウェブサイトの記事も閲覧できなくなる。香港の人々はクラウドのグーグルドライブを使い、PDFファイルにまとめ、重要な記事を保存しシェアしていった。26年に及ぶ蘋果日報記者たちの真実を伝えようという努力が、数々のスクープや歴史的な記録が全てなかったことにされるなんて、受け入れられるはずがない。香港人が確かに歩んできた歴史のページを、全て真っ黒にされてたまるものか。そんな気概が伝わってくる。 どのような時でも、香港の人たちは自由かつ豊かな表現で、自らの感情や考えを表してきた。私も表現することを諦めない香港の人たちと共に、彼らが表現し続けるためのプラットフォームを私の本を出した出版社のウェブサイトに開設した。 第1回目に翻訳者の「エスター」が寄せてくれた言葉を、大学の授業で学生たちに紹介していて、思わず涙が出てしまった。彼女は言う。「私にとって、このプロジェクトに関わることは、罪の償いの一種なのです」と。 狭い香港では、友だちの友だちが容易につながっていく。エスターの友だちの友だちが裁判にかけられ、または海外に亡命し、または実刑に服している。彼女にとって、遠い存在ではない彼らは、最前線に立って戦った。彼らと同じように、生まれ育った香港に深い感情を持つのに、自分は全力で戦わず、刑務所の外の空気を吸っているのだ、と。 * 習近平総書記、あなたは、カラフルで、雑多で、ダイナミックだった香港の社会から、色も、音も、動きも奪ってしまうのですか。「中華民族の偉大な復興」のために。 (筆者は香港大学で博士号取得。著書に『香港 あなたはどこへ向かうのか』〔出版舎ジグ〕がある)