<大国の支配と反乱を繰り返した悲劇の国家。その原因は外国の分断統治か、辺境国家の宿命か> 「帝国の墓場」の異名を持つアフガニスタンで、また1 つ「帝国」が敗れた。超大国アメリカである。 イスラム主義勢力タリバンの「復活」は何を意味するのか。なぜこの国では混乱が収まらないのか──。その答えは、アフガニスタン人とは何者か、アフガニスタンとはどのような国かを理解せずに(あるいは知りながら)、近代的な領域国家の概念で管理せんとした大国による分断統治にヒントがあるだろう。 イギリスのノーベル文学賞作家ドリス・レッシングは、著書『アフガニスタンの風』(邦訳・晶文社)の中でソ連の侵攻から7年目の1986年にパキスタンからアフガニスタンに入った時のことを、次のように語っている。 一団のムジャヒディンがホテルの木陰の芝生にすわっている。総勢九人。......顔立ちがそれぞれまったく違うことに、わたしは改めて感心してしまう。アフガン人が説明しはじめた。「アフガニスタンは起源もまちまちな多種多様の民族が集まった国だ。必ずしも互いに好意をもっているわけではない。......侵略者にたいしては団結して戦っている」(同書96ページ) アフガニスタンを構成する最大民族は、約42%を占めるパシュトゥン人だ。次いでタジク人27%、ハザラ人9%(以下、ウズベク人、遊牧民、トルクメン人、バローチ人)、などとなっている。 アフガニスタンとはアフガン人の国(スタン)という意味だが、アフガンとはペルシャ語でパシュトゥンのことである。 つまり、あのあたりにはアフガン人が住んでいるのでアフガニスタンだという、曖昧な線引きで長らく認識されてきた地域だ。それも、アフガン人は全体の4割で、国土に標高7690メートルの最高峰を有するヒンドゥークシュ山脈が横たわっている。人々は渓谷の中で、部族を単位に暮らしを営んできた。 それを「アフガニスタンは多民族国家である」などという、近代的な領域国家の概念でくくろうとするので無理が生じるのだ。 2001年10月から始まった米英両軍と多国籍軍による「不朽の自由作戦」でテロリストを撃破した後は、アフガニスタンに自由で民主的な国民国家を建設する、という目標設定がなされた。 これがそもそもの間違いであったと、今になって評論家たちが口をそろえている。もちろん、それは01年の時点においても、ほとんど誰もが知っていたことである。「帝国の墓場」という言葉と共に。 日本も「全てを失う」側に では、どうすれば良かったのか?筆者は当時、日本政府の復興支援政策の立案実施の中枢にいた友人に話を聞いた。結論としては、日本は欧米、特にアメリカの間違ったアプローチには気が付いていた。 ===== しかし、では何ができただろうか、と言えばなかなか難しかったようだ。復興は待ったなしのプロセスだったのである。欧米とは共に歩まなければならない──。日本は「人間の安全保障」の理念に基づく質の良い支援ができた。ただ、それがどれほど役立ったであろうか。結果としてはアフガニスタンを分断し、対立を解消できないままに駐留し、全てを失う側にいたのである。 レッシングは、ムジャヒディン(聖戦士のこと。聖戦=ジハードを行う戦士)の「顔立ちがまったく違う」と驚いているが、私はこの言葉をアフガニスタンから帰ってきた仲間たちからよく聞いた。特に、ハザラ人には日本人より日本人らしい顔立ちの人がいたのだという。 北からも南からも異民族の侵入があり、交易路でもあったアフガニスタンでは、客人は手厚くもてなし、侵略者に対しては断固として抵抗するという文化が長い年月の中で育まれたのだ。 『アフガニスタンの風』の同じ見開きページから、もう1カ所、レッシングの記述を引用してみよう。 ひとりのムジャヒッドがいう。「驚くことはないじゃないか。英国は人びとを『文明化』する権利があると主張して、世界の半分を侵略した。われわれをも文明化しようとした。いまや英国はかつての帝国を失ったが、帝国主義までやめたわけじゃない。ロシア人は侵略し破壊する際、それを『文明化』であり『近代化』だという。ヨーロッパの帝国主義諸国がやったのとまったく同じだ」(同書97ページ) 「辺境」の宿命と過激主義 アフガニスタンの今を語る上で必ず言及されるのは、「グレート・ゲーム」である。グレート・ゲームとは、19世紀から20世紀にかけての、主にアフガニスタン周辺の支配権をめぐる大英帝国とロシア帝国の戦いのことだ。戦史をたどると、なぜ大国は歴史に学ばないのか、とあきれてしまう。取っては取られ、傀儡の王、支配者を置いて保護国にしても、結局は敗走する......。 1986年にレッシングの会ったムジャヒッド(ムジャヒディンの単数形)はソ連軍と戦っており、彼がここで言及したイギリスは、その時のイギリスについてであった。しかしこの言葉は、「アフガニスタンを民主国家にする」として始まった2001年からのプロセスの到来と結末を、見事に言い当てているではないか。 イギリスとロシアの覇権競争に始まり、それをソ連、アメリカが引き継ぐ形で進行した近代のアフガニスタンをめぐる戦乱は、当初は確かにこの国やその住民に対する「無知」や不見識に始まった。しかし、「分かっていても引きずり込まれる」という現象の背景には、歴史的必然のようなものを感じるし、ペルシャ、ロシア、インド・パキスタンといった大国に囲まれた「辺境」が忍ばなければならない宿命なのかもしれない。 ただ、それに加えてソ連の侵攻が起きて以降、タリバンの台頭や、「対テロ戦争」が仕掛けられた2001年以降を語るとき、新たな要素として「イスラム過激主義」が果たしてきた役割を直視しないわけにはいかない。 ===== それは、タリバンが復活した今、ますます主要な役割を演じている。レッシングの会ったムジャヒディンはアフガニスタン人だったが、この頃、アラブ諸国からは多くのアラブ人がソ連との戦いを「聖戦」と見なし、義勇兵として戦いにはせ参じていた。彼らもまた、ムジャヒディンと呼ばれる。彼らは米CIAの支援もあり、力を蓄えた。その中には、独自の軍事訓練基地を造るなどして、アルカイダを設立したサウジアラビア出身の富豪、ウサマ・ビンラディンもいた。 アラブ・イスラム世界におけるイスラム過激主義は深刻の度を増す一方であったが、ソ連が撤退するとアフガニスタン帰りのムジャヒディンたちが各国の腐敗した支配体制を狙う危険な存在となった。また、アルカイダはアメリカの権益を脅かす大規模テロを起こす存在へと成長していく。この流れの中で、パキスタン軍統合情報局(ISI)の支援により少人数で設立されたのがタリバン(神学生たちの意味)運動である。 アフガニスタンのイスラム化は非常に早く、預言者ムハンマドの死後ウンマ(イスラム帝国)の拡大に努めた正統カリフ(後継者)時代(632~661年)にその一部、そしてウマイヤ朝時代(661~750年)にはその全土が帝国の版図に収まっていた。 しかし、そこは民族も言語もイスラム教発祥の地アラビア半島とは異なる「辺境」であり、どちらかと言えば世俗的、かつ宗教とは直接関係のない伝統・習俗で暮らしてきた部族社会であった。例えば、女性の権利に関するものでいえば、顔と全身を覆う「ブルカ」を着用しなければならないといった教義は、聖典コーランにも預言者の言行録にも求めることのできない、いわば「ローカル・ルール」である。 ましてや、女性の教育や戸外での活動を禁じたり、強制的に結婚させたりするという、タリバンの支配下で予定されているとされる女性に対する虐待行為は、タリバンが実現しようとするところの「イスラム法による統治」では決して許されるものではない。 しかし、その主張が間違っていようといまいと、イスラムの名において行動すれば圧倒的な動員力が生まれるという現象が、前世紀の後半、とりわけ1980年代以降の中東・イスラム社会を席巻した。これに乗じてタリバンは急成長してきたし、アルカイダや過激派組織「イスラム国」(IS)といった巨大なテロ組織が育っていくことになった。 英国型「分断統治」の典型 タリバン対国際社会という構図は、西欧社会対イスラム一般、ないしは対イスラム過激主義という深刻な対立の縮図である。 今、世界で起きているイスラムをめぐる問題の帰結、とりわけ欧米におけるイスラム教とイスラム世界への感じ方ないしはビジョンが、タリバンによる事実上のアフガニスタン支配を許すか許さないか、という問題に深く関わってくる。実際、8月26日にはタリバン以上に過激なISが自爆テロ攻撃を起こすという衝撃に世界は見舞われた。 ===== 西側世界は、イスラム・テロと聞くと居ても立ってもいられない。移民イスラム教徒との摩擦や、実際に発生するテロ攻撃事件の影響で、多くの欧州諸国では、イスラモフォビア(恐怖症)に基づく合理的とはいえない政策や政治が行われて物議を醸している。2015年1月に起きたフランスの風刺週刊紙シャルリ・エブド襲撃事件で見られた対応などがそうだ。 東京オリンピックの閉会式で五輪旗を受け継いだパリの女性市長アンヌ・イダルゴは、アフガニスタンの北東にあるパンジシール渓谷で唯一タリバンに抵抗しているアフマド・マスードを支援せよと訴えた。その理由は、「若い女性を強制的に結婚させるなどということは人道的確信を持って拒否する」「テロリストはすぐにもタリバンの下に安全なアジトを見つけるだろう」といったものだった。 しかし、考えてみてほしい。もし彼女の言うとおりに内戦を支援するなら、アフガニスタンの男女はさらなる苦しみに投げ込まれ、ISなどのテロリストはより活動がしやすくなるだろう。 また、20年前にブッシュ米政権と共にイギリスを対アフガン戦争へと導いたトニー・ブレア元首相は、「アフガニスタンの人々を見捨ててはならない」と、自身が主宰するシンクタンクのウェブサイトを通じて長文の声明文を発表した。 「(撤退は)包括的な戦略ではなく『政治的』に決められた。(中略)『永遠の戦争を終わらせる』という不器用な政治的スローガンに従ってしまった」と、バイデン政権の身勝手さを厳しく追及する内容だ。この中でブレアは、「西側の政策決定者たちは、『イスラム過激主義』と呼ぶことにさえ合意していないが、もしそれが戦略的な挑戦であると認識できていたなら、アフガニスタンからの撤退という決定は決してしなかっただろう」と、20年前に決断した自身の選択を擁護するだけでなく、新たな介入の是非にまで議論を広げるのであった。 ブレアはBBCの取材に対して、「アフガン経済規模は2001年当時に比べて3倍になり、今年は女性5万人を含む20万人が大学に通っていた」と「民主社会」の崩壊を悔しがった。だが、彼が助けよとアピールした「アフガニスタン人」とは、どのような人たちのことなのであろうか。 ここに、19世紀から続くイギリスの分断統治の典型を見る。アフガニスタン人とは、タリバンに代表されているパシュトゥン人のことであるということを知れば、タリバンは欧米式の大学教育から少しも利益を得ていない。 ブレアは、このことをどう説明するのであろうか。